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第二章 自由を謳歌する令嬢と国王の招待状

 婚約破棄の翌朝、王都の石畳を抜ける馬車の車輪は朝霧を割り、私の胸には翼のような高揚が芽生えていた。四年ものあいだ王太子妃候補として課せられた作り笑いの仮面を脱ぎ捨て、私は久方ぶりに“自分の呼吸”を取り戻したのだ。


 向かうは公爵領ルミエール。雪解け水が温泉となり、ラヴェンダーが丘を染める山峡の楽園である。父は私に領地運営の実務を任せてきたが、王都の制約で思うように改革を進められなかった。しかし今や私は誰にも束縛されない。──この自由をどう使うか、前世と現世を合わせた知恵を示す好機である。


 護衛騎士ロベールは手綱を操りながら、車窓の景色に目を細めた。春の芽吹きは山々を薄桃に染め、遠く白煙を上げる温泉郷が朝日にぼんやり溶けている。


「お嬢様、王都では殿下が青ざめておられました。追い縋るように便りが届くかもしれません」


「ならば返信は一つ、『公文書で』とだけ伝えて」


 即答すると、ロベールの口元が緩んだ。彼は私が幼いころから剣と学問を教えてくれた師であり兄のような存在だ。私が“王太子妃”という枠に押し込められるのを一番悔しがっていたのは、案外この不器用な騎士かもしれない。


 昼過ぎルミエールに着くや、私は執務室に駆け込んだ。机上には事前に取り寄せた帳簿と開発計画書、そして王都の友人商人が送ってくれた最新の貿易統計が山のように積まれている。


 まずは税制。温泉郷特有の入湯税は二十年前から据え置きで、宿泊数と客単価の増加に対応できていない。私は入湯税を段階制へ移行する案を草稿し、浮いた歳入を地元手工業へ還流するスキームを設計した。次にインフラ。前世で培ったプロジェクト管理手法──WBSとガントチャート──を簡略化して執事長に説明すると、初老の彼は目を丸くしたが、すぐに頷いて職人への連絡に走った。


 息つく間もなく、花畑地区から視察に来た村長夫妻が運び込んだのは手編みの〈ラヴェンダー石鹸〉。私は即座にブランドロゴとパッケージ案をスケッチし、王都の百貨店バイヤーに見せる段取りを決めた。──やるべきことが私を肯定してくれる。あの日、断罪会場で感じた解放の風は、こうして形を得て吹き抜けていく。


 夜。ランタンに照らされた執務室で、私は最後の書類にサインを施した。ペンを置いたタイミングで、屋敷の門を叩く硬質な音が響く。急使だった。胸に抱えた木箱には黒曜石の封蝋。


「王印──?」


 紋章を見た瞬間、背筋が正される。封を割ると、琥珀色のインクで端正な筆跡が走っていた。


『公爵令嬢セレナ・ブランシュ殿。


ルミエール温泉祭の開催、誠にめでたい。

君が領地を預かり、民を導く様子をこの目で見たい。

ついては来週十五日、私と随員数名が御行幸する。

忌憚なき意見を交わし、共に王国の未来を語ろう。


国王ラファエル・イグナートル』


 ──国王直筆の招待状。息を吞む私の耳に、蝋を剥がす微かな音すら巨大な鼓動として響いた。


 ラファエル陛下は昨年即位したばかりの若き改革王。前王の重臣を半数以上更迭し、腐敗した宮廷会計を透明化した辣腕で知られる人物だ。婚約破棄騒動の裏で私の動きを注視していたのだろうか? それとも単なる温泉好き? どちらにせよ、この機会を活かさぬ手はない。


「ロベール、祭までに街道の路面を整備しなさい。ギルド長に伝えて、人馬が滑らぬよう石粉を撒くの。あと村娘の合唱隊に新しい衣装を支給して」


 矢継ぎ早に指示を飛ばすと、ロベールは頷きながらも訝しげだ。


「まさか、お嬢様。陛下に直談判を?」


「直談判というより、提案よ。ルミエールが王国の保養地として公認されれば、税収も雇用も跳ね上がる。陛下は実利を重んじる方だわ」


 私は窓を開け放つ。夜の森から湯気を帯びた甘い風が流れ込み、ラヴェンダーの香りが心を撫でた。婚約破棄の痛手がまるで幻のように軽かった。──王太子が失ったものの大きさを、彼自身が悟る日は近い。


 翌朝から祭の準備は一大プロジェクトとなった。各村の長は競うように特産品を運び込み、街の職人は温泉街の石畳を磨き上げる。私は監督の合間に孤児院の予定地を視察し、子どもたちと植樹を行った。小さな手が土を掴み、未来への苗木をまっすぐ立てる姿は眩しかった。


 忙殺されるうちに、一陣の冷たい風が届く。王都から贈られた豪奢なドレスだ。差出人はアルフォンス王太子。謝罪と復縁を匂わせる手紙が添えられている。「遅すぎるのよ」と呟き、私はドレスを倉庫送りにした。


 祭の前夜祭。温泉の湯煙がランタンの灯を霞ませ、通りでは子どもたちが竹細工の風車を回してはしゃぐ。私は浴衣姿で露天を巡り、出店者に声をかけた。そこで突然、背後から名を呼ばれる。


「セレナ様、良い夕べを」


 振り向くと、黒衣の青年──国王の側近として名高い第一近衛師団長ユリウスだった。鋼のように整った顔立ちと稜線を隠す様に、帽子の庇を低くしている。


「陛下は既にお着きです。今宵はお忍びで温泉を楽しまれている」と耳打ちする彼に、私は湯気の向こうへ視線を走らせた。──湯けむりの奥、木造の露天風呂には髪を結い上げた青年が腰まで湯に浸かり、月を眺めている影があった。


 仄暗い湯面が揺れ、一瞬だけ目が合った気がする。それは星を溶かしたような琥珀の輝き。国王の瞳だ。


 胸が高鳴る。政治の打算などでは説明できない、正体の知れない期待が膨らんでいく。王太子の冷たい瞳には決して宿らなかった色──誠実と好奇心が交差する光。


 夜風が鈴の音を運び、温泉祭前夜の花火が弧を描いた。真紅の光が夜空で咲き、湯面に映る。その刹那、私は確信する。──この出会いは転機になる、と。


 翌朝、国王ラファエル陛下の公式行幸が発表されると、ルミエールは未曽有の熱気に包まれた。屋敷の玄関先で私は深呼吸し、胸に手を当てる。


「さあ、セレナ・ブランシュ。一国の王と未来を語る準備はいい?」


 鏡写しの自分に問いかけると、そこには怯えではなく凛とした笑みが映っていた。


 自由とは、選択肢が増えること。その重みと可能性を、私はこの章で噛みしめる。


 ──温泉祭本祭、そして戴冠前夜の運命へ。物語の歌声は、さらに高らかに鳴り響く。

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