序章 婚約破棄の三時間前
王都リストリアの空が薔薇色に染まり始めた頃、私は鏡台の前で静かにまつげを伏せた。純白のウェディングドレスに身を包むのは、人生で一度きり――そう信じていた少女の夢を、私は十七歳にして卒業するらしい。
侍女レティシアが銀盆に載せた紅茶を差し出す手が震えている。彼女だけでなく、屋敷全体が緊張の糸で軋んでいた。なにしろ今日は〈王太子殿下と公爵令嬢セレナの世紀の結婚式〉。王国中が祝福ムードに包まれるはず……だった。
けれど運命は、劇場の上手から投げ込まれた一枚の手紙で幕開けを狂わせる。
「お嬢様、急ぎの書状です。王城からの鷹便で……」
レティシアの声はか細く、開いた唇は不吉な震えを孕んでいた。私は落ち着き払って封蝋を割る。漆黒の蝋を割る音が、まるで鉄鎖が切れる報せのように乾いて響いた。
便箋に躍る優美な筆跡――けれど綴られている内容は、氷雨のごとく冷たかった。
『セレナ。僕は真実の愛を見つけた。君との婚儀にはもう出られない。婚約を解消したい』――アルフォンス・ルクレティア
……ああ、やはり来たか。私は小さく息を吐き、唇を持ち上げた。驚きよりも先に胸を満たしたのは、茫洋とした安堵だった。
(シナリオ通りね)
心の奥で誰かが呟く。いいえ、“誰か”ではない。前世――終電の匂いが染み付いた東京で残業に追われていたOLの私が、唯一の慰めにプレイしていた乙女ゲーム〈薔薇色の運命〉。悪役令嬢が婚約破棄され断罪されるルートを幾度となく追体験した私は、六歳でこの世界に転生した日から今日という日を待っていた。
だからこそ、この三時間後に訪れる“断罪イベント”も既に解析済み。王太子は公衆の面前で私の悪行を読み上げ、私は涙ながらに潔白を訴え、最終的には悲劇の火刑台へ――それがゲームの筋書きだった。
だが私は六年前、その惨劇を回避するためのプランBを立て、そして今日、トリガーが引かれた。
「レティ、泣かないで。むしろ祝杯を上げたいくらいよ」
私が微笑むと、侍女は目を丸くした。「お嬢様……王太子殿下に、捨てられたのですよ?」
「ええ。だから私の自由が戻ってきた。あなたには感謝の休暇を与えるわ。数日後には領地ルミエールへ移るから、その準備を」
机の引き出しを開ける。そこには王立法務院の公式用紙と、瑪瑙の公印で封をした“婚約破棄届”が三通。署名欄はすでに私と父公爵の署名済みで、残るはアルフォンスの署名と王国大臣の公印のみだ。
「――婚約破棄を要求するなら、正規の手続きを踏んでいただきましょう」
胸の奥に熱い炎が灯る。悔しさではない、解放の喜びだ。前世の私は理不尽な上司に逆らえず歯を食いしばったが、今世の私は違う。胸を張り、理不尽にNOを突きつける力を持っている。
レティシアが震える声で尋ねた。「本当に……ご結婚は、お諦めになるのですか?」
「結婚? 今はそれより、大事な仕事があるわ」
私はドレスの裾を持ち上げ、部屋の奥にある大きなトランクを開ける。中には婚礼のために誂えた宝飾品ではなく、羊皮紙に綴った投資計画書、鉱山権益の証書、そして領地復興の青写真。どんなに奪われても、知識と計画までは盗めない。
鏡越しに映る自分の瞳を見つめる。深い夜空のような青。そこに宿る光は恐れではなく、狩人が標的を捉えた時の静かな昂ぶり。
――さあ、ゲームを始めましょうか。結末を書き換えるのは、いつだってプレイヤーの意志なのだから。
私はローズティーの最後の一滴を飲み干し、時計塔の針を見上げた。婚礼が始まる三時間前。たった三時間で、私の人生は“悪役から主役”へとロールチェンジする。
窓の外で朝陽が昇る。薔薇色の空は黄金へと変わり、リストリアの街並みを照らし出す。遠く王城の尖塔が輝き、祝砲の準備を告げる号鐘が鳴り響いた。けれどその音は、私には鎖を断ち切る解放のファンファーレに聞こえた。
十七年かけて用意した反転劇。第一幕はもう始まっている。私はトランクを閉じ、レティシアに笑いかけた。
「準備を。――私たちは自由を迎えに行くわ」
父であるブランシュ公爵へも、私はあえて報告を遅らせた。のちのち王太子派から攻撃を受けぬよう、既に公爵領の重臣たちと根回しを済ませてある。父は娘を溺愛しているが、政治家の顔を持つ男だ。私が『婚約を白紙に戻し、自立のためルミエールに移りたい』と告げれば、表情一つ変えずに許可するだろう。公爵家の次期当主として武勲を立て、経済でも王国屈指の富を築いた私の企みを、父は密かに楽しんでさえいるのだから。
ドレスの袖を抜き、代わりに濃紺の乗馬服へ着替える。レースやリボンの代わりに、腰には銀細工の短剣。鏡台のジュエリーボックスからはダイヤのティアラではなく、領民が贈ってくれた月桂冠のブローチを選ぶ。王太子妃ではなく、一人の領主としての顔を世に示す装いだ。
ふと書類机の片隅に置いた筆箱に目を留める。細やかな桜のモザイクが施された蒔絵の箱――前世の私が上司に贈られた退職記念品だった。捨てようとして捨てられず、転生時にこの世界へ持ち込まれた数少ない“地球製の遺物”。私にとって過去と未来を繋ぐお守りのようなものだ。蓋を開けると、万年筆ではなく細身の羽ペンが収まっている。
私は羽ペンを取り上げ、王太子の手紙の裏面に走り書きをした。
『婚約破棄を受諾します。手続きは以下の通り王立法務院に従うものとし、慰 断罪会場で微笑む淑女(約4,200字)
王城大ホール。百本のシャンデリアが煌めく中、私は絢爛たる赤絨毯の先に立っていた。アルフォンス殿下は私の前に進み出て、観衆の前で高らかに宣言する。
「公爵令嬢セレナ・ブランシュ! 君との婚約を――破棄する!」
ざわめく貴族たち。けれど私は一歩も退かず、優雅に一礼した。
「左様でございますか。では殿下、こちらの書類にご署名を」
私は胸ポケットから黄金の封筒を取り出す。観客席の伯爵夫人が息を呑む音が聞こえた。封筒の中身は正式な婚約破棄届。殿下の署名と国璽を押せば法的に効力を持つものだ。
「……何だ、これは」
「婚約破棄届でございます。殿下が拒めば、私は殿下を帝国法廷に訴え名誉と賠償を請求することになりますが?」
会場の温度が一気に下がる。殿下の取り巻きの令嬢たちは顔を青ざめさせる。彼女らはゲームシナリオで“真実の愛”を演じるヒロイン候補――その役割を果たすはずだった。だが私は彼女らに向け、慈母のように微笑んだ。
「ご安心を。愛があればお金など要らないでしょう?」
皮肉を込めた言葉に観衆がざわめいた。殿下は動揺しつつも署名するしかない。ペンの音が乾いたホールに響く。その瞬間、私は四年に及ぶ“婚約者役”の鎖から解放された。
退場のベルが鳴り、私はドレスの裾を翻して壇上を後にする。背後で殿下が私の名を叫んでいたが、知ったことではない。
――幕は上がった。ここからが私の物語だ。