第二話
セイの乗る船は島民からおおいに歓迎された。交易船として食料や酒、医薬品などの必需品を運んできたからだ。
樽を積みあげた数十の小舟が島と帆船を行き来している。
フーカーは小型の帆船だが、停泊できる港があるほどビセトレドは大きな島ではない。沖に停泊して小舟で荷を積み下ろしする必要がある。つまり時間がかかる。数日かかることも珍しくない。
黒い海に触れれば死ぬという事実は人々が海に出ることを躊躇させるには十分な理由だ。しかし生活に必要な品々を搬入するためとあっては島民も手伝わないわけにもいかない。
セイもまた小舟を漕いで島に樽を積み下ろしていた。
セイの小舟の隣に太った男が漕ぐ船が並ぶ。島民たちが出した小舟だ。セイの小舟と違って樽は二つしか詰まれていない。
男が酒瓶をぐいとあおりながら、赤ら顔で気さくに声をかけてきた。
「よう! 光の名のもとに祝福あれ! 俺はジェフってんだ。あんたは?」
セイも漕ぐ手を止めずに答える。
「セイ」
「やっぱ本職さんは違うね。俺達がそんなにいっぱい積んだらとてもまっすぐ進めないよ。おっと、もうなくなっちまった」
ジェフが空になった酒瓶を海に放り投げる。
「コツがあるんだ。重いものは中心に。左右で重さをあわせる」
「縛りつけなくていいのかい? 樽が落ちないように漕ぐのって疲れないか?」
「ロープを使う時間がもったいない。このくらいなら平気さ。それに─┬」
「それに?」
「酒を飲みながら漕がない。一番重要だよ」
「ははは、そりゃあそうだ! でもよ、ここでなら飲み放題なんだぜ?」
ジェフは樽のフタを器用に開けて、中から酒瓶を上機嫌で取り出して飲み始める。
「あんたらがもってきてくれたブランデーだ。他の奴らもみんなやってるぜ」
「ああ……それでみんな酒樽ばかり運びたがるのか」
「このくらいの旨味がねぇとやってられなくてな。見ろよ、この海を」
ジェフは真っ黒に広がる海を見渡した。
「ちょいと触れただけで死んじまう猛毒の海。シラフでこんなおっかねぇトコ出られやしねぇ」
「……そうかもな」
「大昔は空みたいにキレイな青色だったらしいが、本当かねえ。しかも触っても死にゃしなかったって言うじゃないか。そんなこと信じられるか?」
「今だって海水じゃ死なないさ。海水をくみ上げて十秒もすればただ黒いだけの水になる。死ぬのは、海に触れた時だけ。でなきゃ魚なんて食べられない」
「そう言や、なんで魚は平気なんだろうな。人間だけが死ぬなんてよ。俺達ゃ、何か海に恨まれるようなことでもしたのかねえ」
ジェフがブランデーをぐいぐい飲む。既に半分以上なくなっている。
「あ!」
ジェフが手を滑らせたのか、ブランデーの瓶を海に落してしまう。瓶はゆっくりと沈んでいく。
「やっちまったぁ……せっかくあんたらがもってきてくれたってのに」
「まだ樽の中にいっぱいあるだろ」
「ダメなんだよ。見逃してもらえるのは往復一回につき一本までって決まってるんだ。まだ残ってたのになぁ……」
ジェフがこの世の終わりのような顔をする。この男にとって酒が飲めなくなるのは死にも等しい絶望なのだろう。
セイは溜息をつき、沈んでいく瓶に手を伸ばした。
「お、おい!」
「拾え」
セイが海に手をかざして言うと、黒い海面が盛り上がってブランデーの瓶を持ち上げた。まるでイカやタコの触手のように器用に瓶をセイに差し出す。
セイは無造作に瓶を受け取った。海水がかなり手についてしまったので瓶を軽く振って海水を払う。
「ほら。ちょっと海水が入ったから味は悪くなると思うけど」
「あ、ああ……ありがとう」
セイは触手のように盛り上がった海水を見た。触手はまるで主人の命令を待つ犬のように手持無沙汰に蠢いている。
「ああ、もういいぞ。戻れ」
セイがそう言うと、黒い触手はバシャリとただの水に戻った。あとには普段通りの海面があるだけだった。
「あんまり飲みすぎるなよ。それじゃ」
セイは小舟を漕いでジェフから遠ざかる。
ジェフは真っ青な顔でセイを見ながら呟いた。
「影の子だ……!」
積み下ろしが終わる頃には空は茜色に染まっていた。
ユウと船員たちが空になった樽の上に腰かけて楽しそうに談笑している。セイだけが少し離れたところで一人だけ立って塔を眺めている。
塔の中ごろには白い玉から伸びる黒い螺旋模様が描かれている。白の教会のシンボルマークだ。
昼頃に見えた金色に包まれた青い光はもうない。
「光の名のもとに祝福あれ。みなさん、お待たせしました」
二十程の島民たちが船員たちに話しかけてきた。
島民たちの先頭に立つ司祭服を着たアブラハムはにこやかな笑みを浮かべている。
「ささやかですが歓迎の用意ができましたので」
船員たちが歓声をあげて立ち上がる。セイが反応しないのでユウが声をかける。
「セイ、行こうぜ」
「……オレはいいよ。オレがいると、雰囲気が悪くなる」
「何言ってんだ。久しぶりのまともなメシなんだ。行こうぜ!」
セイはユウに腕を引っ張られて島民たちの前に出る。船員たちは島民たちと楽し気に談笑しながら歩いている。
「司祭さま! その黒いやつはダメだ!」
島民たちの中からジェフが顔を出し、セイを指さして叫んだ。
「そいつは呪われてるんだ! 司祭さま、浄化を! やつを浄化してくれ!」
島民たちが足を止める。
アブラハムの顔からにこやかな笑みが消える。
「ジェフ、どういうことかね」
「あ、あいつは死の海に触れても死ななかった! それだけじゃない、黒い水を魔法みたいに操ったんだ! 呪われてるんだ! 影の子だ1 俺はこの目で見たんだ! 間違いねぇよ!」
島民たちの間に緊張が走る。アブラハムはユウに向き直る。
「……ユウさん。どうなのですか?」
「た、確かに、セイは海に触れても死にません。影の子……です。でも、だからって呪われてるというわけでは─┬」
「まだそんなこと言ってんのか、ユウ!」
船員たちが叫んだ。
「セイが高波と横波を呼んだんだ!」
「そうだ、セイは呪われてるんだ!」
「現に船長が死んだ、いやセイに殺されたんだよ!」
アブラハムが鋭い目でセイを見る。
「……浄化だ」
島民の一人が静かに呟いた。
「そうだ、浄化だ……!」
呟きは次の呟きを呼び、すぐに怒号と化した。
「浄化だ! 呪れた者に裁きを……!」
「浄化だ!」
「浄化だ!」
「浄化だ!」
「浄化だ!!」
島民と船員に怒号をぶつけられてもセイはとくに何も感じなかった。もう慣れてしまっていたのだ。端的に言えば「またか」の一言だ。
よくあることだった。
あとは一人で船に戻り、眠るだけだ。皆が楽しく飲み、騒いでいる時に自分は誰もいない船で一人過ごす。そのほうが気楽だった。
しかし今回は様子が違った。
島民たちがセイを取り囲んだ。船に戻ろうにも島民たちが邪魔で進めない。
アブラハムが厳かに宣言した。
「我々は穢れた影の子を清めねばならない! それが光のため、この島のため、そしてこの少年のためでもある!」
アブラハムはユウに目を向ける。もうなごやかな表情はどこにもない。罪人を罰する執行者の顔だ。
「ユウさん。船長代理としてあなたに聞きます。この少年、セイと言いましたか。彼を“浄化”してもよろしいですな?」
ただの「確認」に過ぎなかった。問いかけでも、要請でもない。既に答えは出ている。ノーという言い分を聞く気はない。イエスしかないのだ。
セイはユウを見た。
助けて欲しかったのか、単に友人の顔を見ておきたかったのかはセイ本人にも分からなかった。
ユウは目を逸らした。セイと視線を合わせてはくれなかった。
セイはハッキリと理解した。
やはり自分はここにいてはいけないのだ、と。