この恋が許されなかったとしても
「この恋を忘れたとしても」の前日譚的なお話です
前作を読まないとラストが尻切れトンボな気持ちになるかもしれません。
返されたノートに書き記された几帳面な文字。
始まりは、ただそれだけだった。
「まるで、定規を使って書いているようだわ」
殿方の書かれる文字は皆どこか主張が激しい。
見た目は大人しくとも、隣り合わせた行の文字が重なるほど大きな文字を書かれたり、勢いでスペルを間違えられていることも多い。
これは高位貴族であればあるほど、当て嵌まると思っていた。
だから。伯爵家の出だというその若くもないけれど、でも御歳だというほどでもないその教師が、実際にはどんな方なのかが気になった。
その次は、廊下を歩く姿勢の良い後ろ姿。
硬い石畳でも、古びた木のタイルの上でも、足音はいつも低くやわらかだ。
一定のリズムを崩す事のないその足音だけを、私の耳はいつだって探していた。
質問に答える丁寧な解説。どれほど理解度が低くとも基礎となる知識が不足していたとしても荒げられることのない低い声。
気が付けば、私の中は、その人でいっぱいになっていた。
けれど決して、目で追うようなはしたない真似はしない。
ましてや声を掛けるなど。
そんな仄かな恋心を温めていたのは私ひとりではなかった。
注意してみれば、廊下の陰から彼を見つめる令嬢は、思いの外たくさんいたのだ。
彼の教師相手ならば、安全に片思いをしていられるからかもしれない。
いつか親の決めた相手へ嫁ぐ私たちには、相手から想いが返されても困ってしまうからだ。
純潔を尊ぶのは、血を繋いでいく為には重要不可欠。
実際に恋人同士としてのお付き合いなど、とんでもないことだ。
勿論、この国で最も高貴な独身の貴族令嬢として、私には自分勝手な恋など許されていない。
平和な我が国では、敵国に対して人質のような輿入れをすることはないと、おかあさまは言うけれど。
それでも、私にとっての結婚は義務であると、言葉の端々で教えられてきた。
当然のことだ。
下位貴族の令嬢ですら、家の為に嫁するのだ。
王女のいない今、最上位となる公爵家の令嬢として国の為に嫁する覚悟はできていた。
その、はずだった。
国王陛下より正式な呼び出しを受け、直接の下命を拝する。
その内容に、震えが止まらなくなった。
言葉が、のどに詰まる。
『謹んでお受けいたします』
──何度も頭の中で練習した筈の、簡単すぎるそのひと言が口にできずにただ頭を下げて、宣旨の書と共に下賜品を受け取った。
帰りの馬車の中。まだ王宮での仕事が残っているというおとうさまを残し、おかあさまと共に乗り込んだ馬車の中で、私は涙を止められなかった。
「西方国の第六妃だなんて。なんてかわいそうな私の娘」
頭を撫でてくれるおかあさまの嫋やかな手。そのやさしさに、甘やかされる。
西方国とは国としての交易が始まったばっかりだ。
異国情緒のある美しい絹や象嵌技術に長けており、国としての交易が始まる前から邸の飾りつけを西方国風に煌びやかに飾り付けることが流行っていた。我が公爵家でもすでにいくつか取り入れている。
文化が花開く西方国。現王の治世は長く、御本人もかなりのご高齢である。
そうしていくら豊かな国の国王の妻となろうとも、その六人目の妻ともなれば、愛妾と同じ扱いとなるのだろう。
頭で分かっているつもりなのと、実際に直面するのでは全く違うのだと思い知る。
心が拒否し、泣き叫ぶ。
それでも、どれほど共に嘆いてくれても、国王陛下の命令を、おかあさまには拒否できない。
おとうさまでも、無理だろう。
私だって、受け入れるしかないと、分かっている。
下賜された小瓶を見つめる。
今は平和なこの国も、近隣諸国との間できな臭い関係に陥ることは何度もあった。
その度に、相手国の王族との間で婚姻を結び、姻戚となることで関係の回復を図ったのだという。
実際にそれは功を奏し、今や近隣諸国との同盟関係は広がって平和を甘受できるまでになった。
その陰で、相手国へ嫁する王女たちは皆、自国に恋する相手を置いて嫁ぐことに苦しんできたのだという。
そうして密かに作りだされた秘薬がこの「想い忘れ」という忘却薬だ。
恋する気持ちだけを消す薬。
かつては王女にだけ許された王家の秘薬。
その薬が入れられた美しい硝子細工の小瓶に、涙がおちて、弾けた。
「……あの方への想いを消す薬が、この婚姻にあたって与えられた、褒章、だというの?」
恋だと認める訳にはいかなかった淡い想いすら、異国へ嫁す私には持っていることすら許されない。
それが、辛くて、また泣いた。