第36話 昏天黒地
「まさか、あの美容液の原料がスライムだったなんて」
「正確には粘液だ」
ものすごく、うなだれているランドルフを連れて、ガトレアール家の屋敷に戻って来た。
「大差はない」
中央区と呼ばれている元メルドーラの街だった場所の東側に、ガトレアールの屋敷がある。
そう多くの者を失った場所だ。広い敷地には以前からガトレアール辺境伯家が使用していた建物が残されているが、そこは私のリリーガーデンの商品開発場所となっており、本邸はその建物から離れた西側にある白い壁の四階建ての建物だ。
その白い壁の建物に向かっていくと、玄関のロータリーの奥にいる人物が目に入る。
金髪碧眼の長身の男性が黒い燕尾服と呼ばれる衣服を身にまとって、待ち構えているのだ。
「お帰りなさいませ、辺境伯様」
執事のディオールだ。何処となく母の侍女であるマリエッタを彷彿とさせる慈愛に満ちた笑顔を浮かべているが、性格は弟のギルバートと同じで冷淡だ。
ようはくせ者ということだ。
「ただいま。ディオール。私が留守中に、色々面倒事を押し付けてしまったな」
私は玄関前のロータリーに降り立って、出迎えてくれているディオールに声をかけた。
「ガトレアールの執事としては当然の事をしたまでです」
当然だと言って頭を下げているディオールの後ろには、白い領兵の隊服を身にまとっている者が、青い顔色をして立っている。
相当無理を言ってここまでこさせたのだろう。
「サラエラも無理を言ってすまなかったな」
「滅相もございません。私の使命は辺境伯様の手足となることで御座います」
サラエラは第四師団の副師団長であり、直接兵をまとめる立場にある。
緑色の瞳をまばたきさせて、慌てて頭を下げた。水色の長い髪をポニーテールにして結った髪が肩口から落ちている。
サラエラもガトレアールの一族の者だ。
「さて新たな情報が無いか確認したい」
私はそう言って開けたれた玄関扉に向かっていくと、ザッシュが私の斜め前を歩き、執事のディオールが私の斜め後ろをついてくる。そして、他の護衛たちはその後ろだ。
これが私の日常的な光景であり、護衛がザッシュだけというのがあり得ない光景だったのだ。
仰々しいと内心思っているが、当主となれば致し方ないと受け入れている。
「今、我が師団の情報を精査しているところなのですが、どうも領内の状況がおかしいのではと、話に上がってきています」
背後から第四師団の副師団長であるサラエラから報告された。
「どうおかしいのだ?」
「今は春から初夏にかけて北の山から下りてくる魔物の被害が多く報告されてる時期なのですが、それがほとんど無いという状況のようです」
領内の南方は森が広がり、中央は荒野が広がり、北には高い山々がそびえ立っている。そして中央には谷が深い川で両断されているのだ。この変わった地形がガトレアールの地なのだ。
その北側には鉱脈がある山々があり、鉱山の街もいくつか存在している。もちろん中央にも鉱脈がある山がいくつか存在している。
おそらく神話にある火山があった名残なのだろう。
北側の山々にはドラゴンを始め、人の手に余る魔物や、春から夏にかけて平地におりてくる魔物もいる。
そして街の被害や隊商の被害もでてくることから、巡回する領兵を作ったのだ。それが第四師団。
しかし師団と言っても、他の師団と比べれば断然的に数が少ない。新しく設立したのもあるが、第四師団には個々に高い能力の求めているからだ。それは少人数で強敵と戦うことが理由に上がる。。
今の時期に山から下りてきて、街を襲う魔物討伐や、医者がいない小さな村や町での治療師も担当しているからだ。
そしてサラエラに言われた言葉に疑問を持ちつつ私の執務室に入っていく。一番に目に飛び込んできたのが、山のように積み重なった書類の束だ。
見なかったことにしよう。
これみよがしに執務机の上に積み重なった書類には目をそむけ、その手前にある長椅子に腰掛ける。
あれは夜中に目を通そう。
私の隣にはランドルフが座ってきて、ザッシュが背後に陣取った。一気に背後から圧迫感を感じるようになる。いつも私の前に居てくれていいのだが?
「ディオール。連絡はしていたが、叔父上と国王陛下のゴリ押しで結婚した私の夫のランドルフだ」
「辺境伯様。凄く嫌味が混じっていますね」
「うるさいぞ、ディオール。ランドルフ。執事のディオールだ。この屋敷のことから領内のことまで大体把握しているから、わからないことがあれば聞けばいい」
「それも嫌味が混じっていますね。急ぎの書類は別にわけていますので、今日はそれだけ見てください」
え? まだ別の書類の山があるのか?
「旦那様。改めまして、ディオール・グラーカリスと申します。ガトレアール家の執事を命じられているものです。この屋敷内のことであれば、なんでもお聞きくださいませ」
「ああ、よろしく頼む。それから、貴殿に、命じているのは何方だ?」
ランドルフはディオールの言葉が引っかかったらしい。
「国王陛下になります」
そう、グラーカリスは王族に仕える者であり、私個人に仕えているわけではない。
だが、ロズイーオンに生涯を捧げ、命をかけて仕えることを使命にしている者たちだ。
「では国王陛下とシルファどちらかを選べと言われたらどうするのだ?」
「もちろん、私の命はリリアシルファ様に捧げておりますので、この命が絶えるまでお仕えいたします」
ランドルフの言葉にディオールは即答する。まぁ、即答するだろうね。
「ランドルフ。叔父上にはグラーカリスの者がついていないから知らないと思うが、国王陛下から命じられたら誓約で縛られる。裏切ることはない」
叔父上にグラーカリスがついていないのは、叔父上の代わりに命を落としたからと対外的にはなっている。
ロズイーオンの血に全てを捧げると、誓約で縛られるのだ。だが、グラーカリスはそれを一族の使命だと心から望んでいる。
彼らの心理は私には理解できないものだった。
「それからこれも言っていたことだが、アルベーラ閣下のところのユーグだ。今回興味津々でついてきている。一応客人扱いしてくれ」
「姐さん。ひでぇ」
そう言っている銀髪の青年は、私の向かい側の席を勧められて座っている。何度かアルベーラ閣下同様に、ユーグとも顔を合わせているため、見た目が吟遊詩人の人物が誰か、執事のディオールは知っているのだ。
「かしこまりました」
ディオールは頭を下げて、私の言葉に了承することを示した。わざわざ言わなくてもわかっているだろうが、何事にも私から言ったという建前が必要なのだ。
「さて、サラエラの報告の件だが、もう少し詳しく話して欲しい」
ランドルフとディオールの顔合わせが終わったので、先程の話に戻る。はっきり言って、この時期に魔物が山から下りてこないというのが気になる。
いや、下りてこないというのであれば、それでいい。だが、山から下りてくる魔物は小型から中型の魔物が多く、領地の何処かに大物が存在しており、それを恐れて下りてこないというなら大事だ。
「いつも通りだった場所はどの辺りで、魔物が少なかったのはどの辺りだったのか知りたい」
「申し訳ございません。今、戻ってきた者たちから順次聞き取りをしているところですので、もう少しお時間をください。すぐにまとめてまいります」
そう言って、サラエラは慌てて私の執務室を出ていく。そんなサラエラを私は引き止めた。
「サラエラ副師団長。昼前にボルガード第一師団長が来る予定だ。それまでにまとめて、ボルガード第一師団長がいる場で報告してくれ」
「了解いたしました!」
水色の髪をなびかせて出ていくサラエラを視線で見送って、ディオールに視線を向ける。
「それでどうなんだ? 一通りの報告は聞いているのだろう?」
ディオールは執事という立場でもあるが、第四師団長だ。部下からの報告は聞いているだろう。
そして話を聞いて魔物の動向がおかしいと示唆して、情報をまとめるように部下に命じたはずだ。
「そうですね。情報が曖昧な部分がありますが、よろしいでしょうか?」
「ああ、構わない」
「まだ戻って来ていない者たちもいますので、確定できませんが、どうも北西の地域が怪しいそうですね」
「北西? あそこは元々ミスリルドラゴンが住処にしている山があるから、小物は少ないはずだ」
北のルエラ神教国との国境にあるミスリル鉱山にはドラゴンが住み着いている。だからあの辺りでは、小物の魔物はドラゴンの発する魔力に耐えきれず、住み着かない。
逆にドラゴンの魔力が平気な中型から大型の魔物が周りには住み着いている。が、山からほとんど下りてこない。だから、意外に魔物の被害は少ない地域になる。
「川を挟んだ東側は特に問題がなかったようなのですが、この一ヶ月の間、領都から真北を往復するルートの部隊からは、おかしいほど順調だったと報告されました」
第四師団は領都を中心に動いている。五十部隊で、一部隊十五人編成だ。そう、師団と言いながら大隊規模でしかない。
「そして、北西に向かった五部隊に何度も連絡を取っているのですが、連絡がつきません」
「は?」
「一週間ごとの定期連絡のときは順調だと連絡があったのですが、三日前に早急に戻るように連絡を取ろうにも誰も出ないという状況です」
これはおかしなことだ。管轄としては、第一師団と第三師団の管轄になる地域だ。両師団からは問題がないと報告があったと、目の前のディオールが言っていたはずだ。
そもそも何故、そのことを先に報告しないのだ。第四師団の者たちと連絡が取れないのであれば、それは普通のことではない。
「ディオール。私にその報告をしなかったのは何故だ?」
取り敢えず、ディオールの言い訳を聞こうか。
「私に曖昧な報告をしろとおしゃるのですか? 今現在、第一部隊を北西方面に向かわせています。今晩には一報を入れるように命じていますので、しばしお待ち下さい」
いや、一言いうぐらいはいいのではないのだろうか。この変にこだわりが強いところがディオールにはある。
まぁ、間違った報告をされるよりはいいのだが。
「第一部隊は第四師団の中でも精鋭だから、判断は間違わないだろうが、無理はしないでもらいたいものだ。他に報告があるのなら聞こう」
そうして、大した情報は他にはないということを報告されたのだった。
一通りの報告を聞いて、私は出入り口の側で控えている護衛のレントに視線を向ける。
彼はこの周辺の調査をしていたはずだ。気になったことはなかったのだろうか。
「レント」
「はっ!」
「領都の周囲を調べたときに、普段と違うことはなかったのか? 何かが居たというものではなく、普段いるはずのモノがいなかったとかは」
するとレントは右手を口元に持ってきて考え出した。
変わったものがあるとなれば、目に付くだろうが、いつもはいるはずのモノが居ないということは、相当周囲に気を配っていないとわからないものだ。
「そう言えば、鳥の鳴き声がなかったと思います」
「鳥?」
「この時期は繁殖の時期になりますので、うるさいぐらいに聞こえるはずの鳥の声が無かったのです」
そう言われて私は立ち上がり、執務室の窓を開け放つ。
旧領都イグールから領都メルドーラにかけて、林が広がっている。それは領地では珍しく地上に川が流れているため、木々が育つ環境が自然に整えられたと言っていい。
だから、魔鳥や魔獣などが必然的に集まってくることになる。
そして春先は繁殖の時期。求婚の鳥の鳴き声が辺りに響き渡るのが当たり前のことだった。
いつもはうるさいぐらいに鳴いているので、窓は閉め切ったままが普通だ。
その当たり前の鳴き声が聞こえない。
「何が起こっている? いや、起ころうとしているのか?」
地震の前には家に住み着いていたネズミが居なくなるという話を前世の時に聞いたことがある。
『この冬にネズミが騒がしく屋根裏を走らんなぁと思っておったら、この有り様じゃ』
家の中がめちゃくちゃになっているのを、どうしたものかと困った顔をしている前世の祖父の顔が、脳裏に浮かび上がってきた。
これは、鳥たちは何かを感じ取って、何処かに消えてしまったのか?
「レント。もう一度、領都の周りで他に変わったことがないのか調べてくれ。そして、何かわかった時点で一旦戻ってきて欲しい」
「了解しました」
レントは了承して、私の執務室を出ていった。
見えているものが全てではない。外は明るいのに闇の中を進んでいるようだ。
何があるかわからないが、確実に何かが起こっている。そんな不安感だけが大きくなっていた。
昏天黒地とはこういうことを言うのだろうな。