サラバンド 発見(1)
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池尻文吾は大いに悩んだ末にコンサートの出演依頼を承諾した。
西本賢司の出演予定だったコンサートの開催日が迫っていた。西本は見栄えがよく人気があったので客寄せ的な意味合いで声がかかっていた。そもそも5弦チェロでの6番プレリュードの演奏はマニアには垂涎ものかもしれないが、一般には知名度が低い。バッハの無伴奏で最も有名なのは1番のプレリュードだ。ドラマやCMにも多く使われていて、演奏も比較的容易なのでチェリストならば誰でも弾くし、初心者のとりあえずのあこがれの曲でもある。しかし、6番プレリュードは知名度が低い。
6番を5弦チェロで演奏すれば無理のない美しい音色が楽しめるかもしれない。5弦チェロというレアケースに惹かれて足を運ぶ客も期待できる。しかし、演奏自体に面白味は少ない。
その点通常の4弦チェロでこの曲を弾くと5弦チェロでは演出できない緊迫感が生まれる。特にラストのハイポジション多様の細かい音符の羅列を見事に演奏し切った暁には興奮と高揚感に包まれる。
西本の死を幸いに、弟子の文吾を悲劇の天才チェリストとして売り出したい主催者側の意向が見え隠れしていた。文吾としては今目立ちたくはなかった。ただ、この件を受けることが目立つのか、逆なのかの判断がつかなかった。
とりあえず潮流に流された方が良いと判断して受け入れたわけだが、不安でどうにかなりそうだった。本番まであと5日しかない。練習は全くもって不十分であり、精神的にも追い詰められている。なんと言ってもあの皇与一とかいう風変わりな刑事の存在が文吾を重い不安の淵に陥れようとしていた。
スーツにキャップという珍妙な出で立ちの割に質問が鋭い。実に近づきたくない存在だった。
もう1人近づきたくない存在がいた。吉川愛美だ。西本賢司のあの時の発言を全て鵜呑みにしたくはなかったが、耳にこびりついて剥がれない。自らエンドピンでを突き刺して殺したにも関わらず、思い出すと憎悪が込み上げてきてぞっとする。
吉川愛美は1つ歳下のピアノ科の3年で大学内の軽音サークルの知人からの紹介で知り合った。付き合って1年を超えていた。教授に西本から指導を受けるように言われてから、愛美に時々愚痴を言うようになっていた。西本のあまりにも理不尽な物言いにストレスが溜まり、つい口に出していたように思う。
はじめは「もっと優しく指導してくれてもいいのにね」などと愛美は文吾に同情を示していた。文吾としては愛美を都合の良いストレス発散の道具と見立てていた部分もあったのかもしれないと反省するも、だからといって付き合ってる男が嫌ってる相手とそんな関係になるものだろうか、と憤りも覚える。
池尻文吾はいつの間にか曲を弾き終わっていることに気づいた。難曲と言われるが、中学生の時には既に暗譜していて、週に一回は確認の意味で弾いているため全く無意識で弾けてしまう。だが、こんな考え事をしながら弾いても意味が無い。聴衆に聞かせられる演奏には程遠い。気持ちが全く入っていなかった。
反省の意味で今度は暗譜に頼らず楽譜を見て真剣に弾くことにした。曲が長いため楽譜もまるまる4ページあり、曲間もなく楽譜をめくることができないので、コピーをして繋げて横1枚にしてあった。当然譜面台からは両端ともはみ出している。
弾き終わって時計を確認するともう練習終了間近だった。30分で借りているため練習場を空けなければならない。次の人が待っていないか確認しようとドアを開けるや否や文吾は体が硬直して息が詰まった。記憶に新しい不快感を呼び起こす黒いキャップのつばが目前にあった。