クーラント 偵察 (2)
8
「さすが芸大ですね。食堂も芸術的な装飾で感心しました」
皇与一は池尻文吾の横に立つと囁くように声をかけた。
文吾は軽く頷いて応えた。
「皇と言います。こちらは朝草さんです」
そう言って皇は文吾の向かいに座った。朝草も頭を下げてからその横に腰を下ろした。
「録音させてください」
と皇はスマホを文吾に見せた。文吾は無言でうなずいた。
「亡くなった西本賢司さんは池尻さんのチェロの先生だったと伺っていますが、どのようなことを教えて貰っていたのですか」
皇の問いに対して、文吾は返答に詰まった。
やつはおれに何を教えてくれたんだろう。改めて思い返しても何も浮かばない。ダメ出しをされた記憶しか無かった。
「演奏の心構えとかですかね」
「技術的なことは習わないんですか」
「まあ、ビブラートをかけるタイミングとか」
文吾はボソボソと呟いた。
皇与一は何度かうなずいて見せた。
「西本賢司氏は近々コンサートに出演されるご予定でしたね。ソリストが3人とオーケストラの演奏があると伺いました」
「はい」
「きのうそのコンサートに向けてオリオンで練習していたわけですね」
「はい」
「バッハの無伴奏組曲の6番プレリュードですね」
皇のその言葉に文吾は少し驚いたように皇を見た。
「ええ、よくご存知ですね」
「いえいえ」
皇は右手を軽く挙げた。
「5弦のチェロで弾かれる予定だったそうですが、5弦で弾く曲なのですか?」
「そうですね。通常の4弦で弾くには少し無理がある曲ですが、普通は4弦で弾きますね」
「どういうことでしょう」
文吾は皇の疑問にていねいに応えた。
今回西本が弾く曲はバッハの無伴奏チェロ組曲である。組曲は、1番から6番まであり、それぞれが細かく分けると各番が7つに別れている。つまり全42曲ある。その中で、6番だけ演奏する難易度が桁違いに高い。理由はハイポジションが異常に多くなるからだ。ハイポジションを弾くには左手の親指の外側を使って弦を押さえる特別な方法を用いる必要がある。
これは通常下がっている左肘をかなり上にあげて親指の第1関節の外側で基本の音を取り、そこを基準に他の指で音程をとる方法だ。演目の曲は組曲6番の最初の曲で、プレリュードと呼ばれるこの曲は特に難易度が極めて高いということだった。この曲は単純に楽譜の音符の数と細さが際立っている。
では、なぜ6番だけ難易度が上がるかというと、バッハが6番は5弦チェロ用に書いたものだとされているとのこと。つまり、音程の高い弦がもう1本設けてある5弦チェロ用の曲なので1本弦の少ない通常の4弦チェロでは高音を前述のように工夫して出す必要があるということだった。
音楽に疎い朝草優香には池尻文吾の説明はちんぷんかんぷんで全く頭に入ってこなかった。
「とてもよく理解出来ました。ありがとうございます」
皇与一は黒いキャップを被った頭を下げた。
「ところで当時のバッハが弾いていたチェロは今とは異なるタイプだったとか」
文吾は感心したような顔でうなずいた。
「すめらぎさんはよくお調べになってますね。そうです。バッハの時代のチェロの奏法は膝だけで挟んだり、膝の上に抱えたり、ギターのように横向きに膝の上に置いて弾いたりしていたらしいです」
「今のチェロは金属の棒がチェロを支える形ですね」
皇の問いを聞いて、文吾の胸に強い痛みが走った。一瞬おぞましい記憶がフラッシュバックした。
「そうです。金属の棒で支えていますね」
かろうじて文吾は言葉を発した。
「確か、エンドピンと言うんですよね」
文吾はうなずいた。
「ちょっとこちらを見ていただきたいのですが」
そう言うと皇はスラックスの後ろポケットからもう1台スマホを取り出すと動画を開いて文吾に提示した。
「これは西本賢司氏の殺害現場で撮影したものです。このチェロの横にそのエンドピンが置かれていますね。これはなぜでしょう?」
文吾は心臓が飛び出してしまいそうな錯覚を覚えるほど高鳴っているのを感じた。なぜエンドピンをチェロの中にしまわなかったんだ、と己をなじった。これでは別のエンドピンと交換しますと宣言しているに等しいではないか。
「んー。ちょっとわかりませんね。音の調整をしようとしたのかも知れません」
自分でも苦しい言い逃れだと文吾は感じた。
「なるほど」
皇はうなずいた。拍子抜けするほどあっさり相手が納得したので文吾は驚いた。
「あと、これはなんだかお分かりですか?」
皇はスマホの動画を一時停止して文吾に示した。ビニール袋に納められた黒い輪っかが見えた。
「さあ?」
本当に文吾の記憶にはないものだ。
「ゴム製みたいです。直径1cm位なんですが、チェロでは使わないものですか?」
「そうですね、ぼくは使ったこと、というか見たこともないですね」
「わかりました。お時間取らせて申し訳ありませんでした」
皇はていねいに頭を下げると、そそくさと立ち去った。後に続いた朝草優香が食堂を出たところで皇にたずねた。
「警部、さっきの5弦チェロの話がよく分からなかったのでご説明願いませんか」
朝草のしおらしい物言いに少し驚きの表情を浮かべつつも皇は立ち止まって口を開いた。
「西本賢司氏が演奏する予定の曲は、本来5弦チェロ用にバッハによって作曲されていたものなんだよ。高い音程の出る弦が1本余計にあるという条件で作られているらしい。
つまり5弦チェロは高い音程を出しやすいので問題なくその曲が弾けるんだけど、現在使われているチェロは4弦しかない。しかもバイオリンと比べるとチェロは低音を担当する楽器だから、本来高い音は出しにくいんだよ」
「ということは、西本さんは弾きやすいチェロでその曲を弾いていたということですね」
「そうなるね」
皇はうなずいた。
「でも、なぜそんな専門的な質問をされたんですか?」
朝草は首をかしげた。
「池尻文吾さんは普通のチェロでその難しい曲が簡単に弾けるということだよ」
「あぁ、オリオンの店長が池尻文吾は天才と言ってましたね。ん?だからどうなんですか?」
「朝草くん、池尻文吾さんの右手を見たかな?」
「は?」
皇の質問に朝草はまごついた。朝草優香は皇の言う池尻の右手について全く何も思い出せない。右手を見た記憶すらなかった。
皇はそんな朝草優香を残してひとり颯爽と歩き始めた。