プレリュード 怒りと殺人 (4)
4
エンドピンの件は誰も知らないはずだ。昨日電話でいきなり頼まれた案件だった。でも分からない。誰かに言ってるかもしれない。いや、そもそも店員と会っている。
『どうしよう』
文吾は思考が止まった。
「いや」
店員とは過去に面識はないし、受け取ったエンドピンを残しておかなければ警察は新しいエンドピンの存在に気づかないだろう。
「あっ」
乗って来た自転車が駐輪場にある。
車に乗るのはいいが、スタジオを出た後は死体が発見されて警察が来る。自転車があっては言い逃れが難しい。
文吾がスタジオに来てから20分近く経つ。西本が何時までレンタルしているのかも不明だし、のんびりはしていられない。
「自転車はあそこに持っていくしかない」
そうつぶやくと、文吾は意を決して倒れている西本に近づき突き刺したままのエンドピンを右手で抜いた。胸の中央が見る見る赤く染った。
その今や凶器と化したエンドピンを強く3度振って血糊を払った。辺りに点々と血が飛び散った。そのエンドピンを運んで来るときに包装されていた緩衝材の付いた入れ物で包む、と自分のカバンに入れてファスナーを締めてカバンのストラップを肩にかけた。その時包装紙から小さな黒いものが滑り落ちたことに文吾は気が付かなかった。
クロスでノブを掴んでドアを開けて狭い通路を覗いた。隣りのBスタジオからドスドスとベースドラムの振動が伝わってきた。誰もいない。通路に出てドアを閉めた。周囲を見回しながら手探りで通路側のドアノブを慎重に拭いた。
このビルには裏口がある。出入口は駐輪場にも近い。誰にも会わないように祈りながら裏口に向かった。クロスを使って裏口のドアノブのロックを外してドアを開け、階段を駆け上がり急いで駐輪場に走った。幸い誰もいない。気持ちを落ち着かせてキーを差し込み自転車に跨り走り始めた。
顔に当たる風が心地よかった。ここで気を緩めるわけにはいかないが、少しほっとしている自分を観察する文吾がいた。何か大きな仕事を成し終えた錯覚に陥っていた。
1km弱先に文吾が少し前までバイトをしていたスーパーマーケットがある。そこは駐輪場に監視カメラが設置されていなかった。よってそこに自転車を置いておけばいつでも取りに行けると文吾は考えていた。
あと1分程で到着するというところで、文吾は見知った人物がこちらに向かって歩いてくるのを発見した。なんとスタジオの店長だ。
文吾は気が動転した。
『もうおしまいだ』
と観念しそうになっていた。
文吾に気づいた店長が右手を挙げた。左手には買い物袋が下がっている。今まさにスーパーでの買い物を終えたといわんばかりの格好だ。
文吾は減速して会釈をした。
「バイト?」
という店長に
「いえ、ちょっと買い物です。バイトは3月で辞めたんで」
と自転車を止めて伝えた。
店長は何度か頷くと
「そっか。またね」
といって手を振って立ち去った。
これでスーパーの店内に入る必要が出来てしまった。店内には監視カメラがある。ここはあえて動画を残すしかない。
スーパーに到着した文吾は自転車をバイトの際に利用していた広い駐輪場の右隅に置くと店内に入った。スマホで時間を確認すると12時を少し回っていた。日曜日の店内は家族連れで結構混みあっていた。文吾は握り飯2つとペットボトルのお茶を買った。
会計を済ませてバッグに納めると、元来た道を走り出した。5分ほどでスタジオの駐車場が見えた。ありがたいことに誰もいない。息を切らせて西本の車に体を滑り込ませた。何度か運転させられていたのでこの車には慣れていた。すかさずセルを押してエンジンをかけた。慎重に前進させると車道に乗り入れた。
汗がどっと出てきた。ため息が漏れる。何とか上手くやれた気がした。右手で額の汗を拭った。手の甲は驚くほど汗で濡れた。
「ふぅーっ」
もう一度大きく息を吐いた。無理は承知で文吾はしばらくドライブを楽しもうと決めた。