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ジーグ 終演 (2)

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文吾は顔面から血が引いていくのがわかった。あの袋に入っていたのか?あの時気づかずにこぼれ落ちていたのか?

沈黙に割り込んでステージから流れてくるドボルザークの第一楽章が緊迫感を演出するかのようだった。

「ところが現場には肝心の特注されたエンドピンが見当たりませんでした。付属品だけスタジオに持ち運ばれたんでしょうか?」

皇の人を小馬鹿にしたような口調に文吾は腹が立ってきた。調べはついてるに決まってる。あれを取りに行ったのは俺だ。俺があそこへ運んだんだ。

「店員さんに伺ったところ、そのエンドピンを取りに来たのは西本さんではなく、あなた池尻文吾さんだと言うのです」

顰め面をしていることは十分に把握していたが、文吾はそれを弛めることが出来ずにいた。

「どうでしょう。間違いないですか?」

そう問われて文吾は無言で皇を睨みつけた。

朝草はそれを見て息を飲んだ。先ほどの素晴らしい演奏をした人物とは全く別人に見える。殺人を犯した人間の本性を見た気がした。

「午前11時頃エンドピンを受け取ったあなたは自転車でスタジオ『オリオン』に11時20分頃に到着しました。受付には誰もいなかった。Cスタジオに入って西本さんに渡そうとしたら、その西本さんから元々チェロに付いていたエンドピンとそれを取り替えるように頼まれた」

皇から目を離さない池尻文吾の表情を朝草優香は一心に見つめていた。

「あなたはその指示に従ってしゃがみ込んでチェロからエンドピンを抜き出してチェロの横に置いた。その時、西本さんになんと言われましたか?」

こいつはなぜ見ていたかのような言い方をする?なぜあの時の状況がわかるんだ?

文吾は椅子に座り直した。

「おそらく、池尻文吾さん、あなたの天才的なチェロの技巧についての感想か、大学であなたとお会いした日に偶然お見かけした吉川愛美さんとの関係のことを西本さんが揶揄されたのではないですか?」

文吾は歯軋りをした。最悪な記憶が蘇ってきた。ドボルザークの楽曲が文吾には妙に耳障りに聞こえた。

「しゃがみ込んで作業していたあなたは西本さんの言葉に腹を立て、立ち上がって西本さんを突き飛ばした。すると西本さんは後ろに吹っ飛んで後頭部を硬いベースアンプに強打して気を失って倒れてしまった」

皇は見ていたのか?そんなはずはない!全て当てずっぽうの空想に過ぎない。

文吾には口に出せる言葉が見当たらなかった。何を言っても皇の戯言を肯定する気がした。

「焦ったあなたは西本さんを葬り去ろうと思いつく。恐ろしい考えです」

文吾の表情はさらに険しく変貌した。

「床を見ると、西本氏の頼みで楽器店から受け取ってきたエンドピンがある。あなたはそれを手にして留め具を外し、凶器に変えた」

オーケストラの演奏が少し激しく変化した。

「あなたは2度それを西本さんの胸に突き刺した。そして西本さんのズボンかバッグかジャケットのどこからか車のキーを盗み出し、西本さんのチェロケースにあった布を盗んでチェロやドアのノブを拭う。西本さんの胸からエンドピンを抜き取って持ってきた包装紙と共に持ち帰った。その時に、この黒い輪っかが落ちたんじゃないですか?」

皇が両手を開いて首を傾げた。池尻は動じない。

「あなたは受付を通らず裏口から外に出て自転車に乗りスーパーへ向かった。

おそらく警察がスタジオに到着する前にスーパーの駐輪場に自転車を置いておこうと考えていた。

ところが途中でオリオンの店長と出くわしてしまった。

仕方なく店内でおにぎりとお茶を買って、自らあなたはカメラにその姿を残した」

朝草は、恐ろしい表情で皇を睨んだまま微動だにしない池尻文吾を見つめて続けていた。

「そして再び走ってオリオンへ戻り、盗んだキーで西本さんの車を走らせた。モールに寄って変装用の衣服を購入すると、それを着て中古販売店に立ち寄って車を置いてくる。

その後徒歩でゆっくりスーパーへ自転車を取りに帰った」

皇が口を閉じるとステージから聞こえる交響曲が場の白んだ空気を埋めるように響いた。そろそろ第1楽章が終わる頃だなと皇は思った。

「証拠がない」

池尻文吾が重い口を開いた。

朝草も同意見だった。皇の話は全て推測に過ぎない。池尻の表情からその推測がかなり核心を突いていることは容易に想像できたが。

やおら皇与一はスーツに右手を入れるとマジシャンのようにビニール袋に入った物体を取り出した。

池尻文吾が訝しそうにそれを睨んだ。

「これはエンドピンストッパーです。あなたはよくご存知ですね。そこにもあなたのストッパーがあります」

皇の左手の人差し指の指し示す先に、チェロのハードケースの横に文吾がさっきまで使っていた木製のストッパーが置いてあるのが見えた。

「これも証拠品なんですが、許可を貰って持ってきました」

皇はいつの間にかはめていた白い手袋をした手で西本の黒いプラスチック製のストッパーをビニール袋から取りだした。

「これはエンドピンの鋭い先端で床を傷つけないために、この金属でできた穴にエンドピンの先端を付けて、この裏の素材の摩擦でチェロが滑らず動かないように固定する器具ですね」

いつの間にか額や胸に汗が滲んでいるのを文吾は意識できた。まだ、冷静だ。そう自分に言い聞かせた。

「遺体には胸に2ヶ所の刺殺痕がありました。ひとつは肋骨の間を通り抜けて心臓に深く突き刺さりました。その致命傷となった殺傷行為に使われたのがこのストッパーです」

皇は呼吸を整えた。いつの間にか第1楽章が終わっていた。

「犯人はエンドピンの鋭利でない方、円柱状の端にこれを当てがって西本さんの胸を目掛けて突き刺しました。その証拠に、ストッパーのこの窪んだ本来は鋭い先端が当たるはずの金属の穴に、円形の跡が残っていました」

皇はそう言って証拠品である黒く薄い円柱状の表面の中央にある金属の穴を池尻文吾に向けた。すると、思わず文吾は立ち上がって覗き込んだ。

確かに、本来エンドピンの鋭利な先端が当たるはずの金属の穴の底に小さな円形の傷が見て取れた。

文吾はストッパーを残してきたことを後悔し始めたが、これはエンドピンをこれで支えて刺した証拠であって、文吾が殺人犯である証拠ではないと瞬時に思い直した。

「実際にご覧に入れましょう」

皇はそう言うなり、またもやマジシャンよろしく上着の中に右手を入れたかと思うと長い金属の棒を取り出した。

「え?」

目の前にいる文吾は驚いて声を出してしまった。皇の横にいた朝草も仰天した。この人のジャケットはどういう仕組みなのか?と。

「見ててください」

皇が左手に持ったストッパーに取り出したエンドピンの鋭利でない方の円柱状の端を合わせていくと綺麗に重なって見えた。

「これはあなたが師匠の西本さんのおつかいをした楽器店で先日お借りした直径0.8cmのエンドピンです。あの現場にはなかった0.8cmのエンドピンの跡があの現場にあったストッパーの凹みの金属部分に付いていたということは、誰かがそれを使って刺殺した後持ち去ったことを意味します」

皇が語気を強めて言い放ったところで第二楽章の演奏が静かに始まった。

「先ほどお伝えしたように、遺体には2ヶ所の傷跡がありました。では、もうひとつはどうやってついたのか」

役者のようにもったいぶった仕草で、皇は池尻文吾と朝草優香を順番に見つめた。

「犯人は右手の手のひらで、この0.8cmの円柱の底面部分を支えにして突き刺したのです。

ですが、胸骨、胸の中央にある骨ですが、そこに当たり深くは刺さりませんでした。そこで、先ほどの硬いストッパーを手にしてもう一度刺したというわけです」

座るきっかけを失って立ったままの文吾は脂汗のようなものが全身から吹き出している感覚を覚えて気分が悪くなった。

立っていられない。

なぜこの刑事は見ていたかのような言い方をするのか?なぜ知ってるんだ!

「この細長い金属であるエンドピンは凶器としては、鋭利な先端と強度により殺傷力がありそうですが、アイスピックや千枚通しのような握れる柄の部分がありません。凶器ではなく楽器の一部なのだから当たり前ですね」

皇与一はそう言って池尻文吾に鋭い視線を送った。

「このエンドピンで刺そうとすれば、金属ですからどうしても滑ります。そのために底の部分を支える必要がある。時間にも追われていた犯人は慌てていたため、はじめの一打撃は右手の柔らかい手のひらでエンドピンの硬い円柱の底面を支えてしまった。しかも、突き刺したところが胸骨だったため強い抵抗を受け、エンドピンの硬い円形の底面にかかる反作用の衝撃を手のひらで受け止めたはずです」

池尻文吾は立っているのがとてつもなくしんどく感じていた。

もう、楽になりたい。

「つまり、右手の手のひらに酷い怪我を負ったはずです。どうですか、池尻文吾さん?その右手の手のひらに貼ってある絆創膏を外して貰えませんか?」

もう、立っていられない。文吾の脚がぶるぶると震えてきた。

「こちらのエンドピンの底とピッタリ重なる傷跡がありませんか?」

皇の最後の言葉を聞く前に、文吾はどさりとパイプ椅子に倒れ込むように座った。身体から力が抜けてうなだれた顔はもう自力で上げることは難しかった。

それを見た皇が朝草に目配せをした。朝草はそれを受けて、楽屋の外で控えていた先輩の高杉達にドアを開けて声を掛けた。すると高杉と井上の2人組の私服警官が部屋に飛び込んだ。

無抵抗に見える池尻文吾に任意同行を求めるとうなだれたままの池尻を2人がかりで肩に腕をかけさせて抱えたまま連行して行った。

皇与一と朝草優香の2人だけになった無言の楽屋に遠くからドボルザークが聞こえていた。

「警部、なんかこの曲懐かしい感じがしませんか?」

朝草は幼き日の夕暮れ時の映像が頭に浮かんでいた。

「もしかしたら、昔きみが子どものころに遊んでいたときに夕刻帰宅を促すメロディとして流れていたんじゃない?」

その皇の言葉に朝草は合点がいった。

「ああ、そうかも」

「林間学校のキャンプファイヤーとかでも歌うようだしね」

「え?この曲は歌われてるんですか?」

驚く朝草に皇はさらに

「この交響曲は『新世界より』というタイトルで、クラッシックの楽曲の中でもかっこいいことでも有名だね」

と続けた。

朝草は不思議そうな顔で皇を見つめ、

「全然かっこよくはないですよ。郷愁は誘いますけど」

「なら第四楽章を聞いてみたらどう?」

皇にそう言われて、朝草はスマホの音楽アプリでドボルザーク交響曲第九番第四楽章を探し出すと、ブルートゥースイヤホンを耳に装着した。スイッチを押すなり、

「おっ!」

と声を出し、

「あっ!知ってます。知ってる。ホントだ。凄い!」

と声を上げ、体を揺さぶるような迫力ある管弦楽の奏でる激しいメロディに目を大きく見開いた。




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