ジーグ 終演 (1)
13
コンサート前日の最終チェックであるゲネプロの演奏直前に池尻文吾は緊張していた。
演奏順でソリスト3人のラストを飾るのが新人の文吾であった。緊張しないはずがない。
これまで様々なコンクールに出場して優勝を含む輝かしい結果を残してはいたが、ソロでのコンサートは初めてに近い。とにかく平常心を保つことに集中する他ない。
文吾は深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせた。
前奏者の女性バイオリニストがパガニーニのカプリース24番を華麗にしかも情熱的に演奏し終わると、会場の至る所で小さく拍手が鳴った。
文吾の番が来た。
本番さながらの緊張感に包まれた池尻文吾はチェロをステージ中央に運び、客席に一礼すると着席した。ゆっくり息を吐き出して弓を構える。
朝草優香にとってクラッシックのコンサートは、中学の体験演奏会における、さいたま芸術劇場でベートベンの交響曲第5番を聴いて以来だった。耳馴染みの曲だが迫力に圧倒された記憶がある。
運営から許可を貰って池尻文吾には伝えずに皇警部と客席に座って演奏を聴いていた。
ゲネプロのため、広い客席には関係者が数名いるだけだった。
今目の前にいる、本番でも着るであろう美しい赤いドレスを纏った若く綺麗な女性の演奏に朝草は衝撃を受けていた。知らない曲ではあったが聞き覚えのあるようなメロディーで始まったかと思えば、次から次に緩急をつけた高速のパッセージの連続で息付く暇もなかった。すうっと音が消えかけたかと思うと、再び心を動かされるようなバイオリンの音色が朝草の耳を捉えて感動的なエンディングまで離さなかった。 朝草は思わず拍手をしていた。
右隣の警部を見やると黒い帽子で顔もよく見えないが、見慣れた頭が頷くように動いていた。
いよいよ池尻文吾の出番が来た。朝草は胸に痛みを覚えたことに驚いた。スポットライトを浴びた池尻文吾の姿だけで朝草は感動してしまった。
先ほどのバイオリンとは趣の異なるチェロの低音の響きと華麗で荘厳なメロディーに仕事を忘れて朝草優香は心を奪われていた。
前半の流れるようなメロディーからまた元に戻ったようなテーマが聞こえたと思うと、音程が徐々に上がっていき、限界まで来るとジェットコースターが螺旋を描いて降りてくるかのようなスピード感溢れるメロディーに朝草の心もぐるぐると揺さぶられた。と思うまもなく、高速のパッセージでアルペジオ(分散和音)が奏でられた。それは先ほどのバイオリンの演奏にも似ていたが、チェロの低音から高音までの広い音域が一瞬で上下する音の響きは神々しくも感じられた。
エンディングのフラジオ(倍音奏法)による透明な高音の音色の長い残響音に朝草が浸っていると、皇与一がゆっくりと立ち上がった。慌てて朝草も腰を浮かせて皇に続いた。ふと頬が濡れてるのに気づいた。知らぬ間になみだが流れていたようで、朝草は右手の人差し指でそれを拭った。
スタッフ数人に声をかけられて頷きながら、文吾はチェロを抱えてバックステージへ向かった。部屋に入るとチェロをクロスで整えて丁寧にケースに収めた。今日はチェロをこのままここで管理してくれる手はずで、手ぶらで帰れるため文吾の気分は少し軽かった。パイプ椅子に腰を下ろし、くつろいでペットボトルの飲料を飲んでいるとノックがした。
訝しく思いながらも
「はい?」
と声を出すと、ドアが開いて黒いキャップが覗けた。
「お疲れのところすみません。ちょっとお話させていただきます」
「え?」
驚く文吾には無頓着に皇は部屋に堂々と入った。
「失礼します」
と朝草は頭を下げながら続いた。
「あの、演奏とても素晴らしくて、感動しました」
潤んだ瞳で朝草は伝えた。
文吾は朝草の表情と言葉に少し驚いて
「あ、それはどうも」
と軽く頭を下げた。
「いやあ、本当に素晴らしい演奏でした」
「今日はどんなご要件で?」
皇に謝辞は示さず文吾は切り出した。
ステージから次の演目であるドボルザークの交響曲第9番第一楽章の緩やかなオーケストラ演奏が聞こえてきた。
「先日お見せしたあのゴムの輪っかのことなんですが」
そう言って皇はビニール袋に入った証拠品を取り出した。
「用途が判明しました」
「ああ、あれ。何ですか?」
「エンドピンに使うものでした」
皇の言葉に文吾の顔が曇った。
「0.8cmのエンドピンを1cmの穴に入れたときに抜けないようにするための、パッキンの役目をするもののようです」
皇が流暢に説明した。
「西本さんが発注したエンドピンの付属品でした」