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サラバンド 発見(2)

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「こんにちは。練習終わりましたか」

案の定、皇与一だ。今最も会いたくなかった男。文吾は腹の奥に痛みが走った。

「すみません。大学の事務局で聞いたら調べてくれて、この部屋を11時から予約されていると聞きまして」

朝草優香が頭を下げた。

文吾は何も言わずにクロスでチェロを軽く拭ってハードケースに収めた。チェロを背中に背負ってドアから出たところで

「少しお話よろしいですか?」

と皇が声をかけてきた。

「ええ。この前とは別の食堂にしましょう」

文吾はそう言って大きいテーブルとパイプ椅子の置かれた天井の広い食堂に入った。

「ああ、ここは広々してますね」

皇は感心したように声を出した。

「ここはチェロも置きやすいので」

文吾はそう言ってテーブルの横にチェロの入ったハードケースを寝かせた。

「今日は何ですか?」

3人が着席し終わると文吾が切り出した。

「ああ、えーっとですね。そうそう、西本賢司さんの車が見つかりました。埼玉県内の中古車買取店に置いたままになっていました」

当然文吾は事情をよく知っているが、素知らぬふりで

「置いたままですか」

と返した。

「防犯カメラに映っていた人物が車の査定中に姿を消したようでして」

「その男が犯人ですか?」

という文吾に、

「よく男とわかりましたね」

と皇がすかさず切り返した。

「いや、西本さんを殺すのは女性では難しいでしょ。かなり体鍛えてましたから」

文吾は汗が出た。これではごまかせないなと文吾は焦った。

「そうだ、なにか飲みましょう」

それを見越したように皇が言うと、

「わたし、買ってきます」

と朝草が気を利かせて立ち上がった。

「池尻さんは運転されますか?」

皇が少し顔を傾けて聞いた。

「ええ」

「西本さんの車を運転されたことは?」

「何度かあります」

弟子なのだから問題はないはずだ。つまり、仮にあの車に文吾の指紋が残っていてもおかしくない。文吾は自分に言い聞かせた。

「あの日の昼食はおにぎりでしたね」

「ええ」

スーパーの店内にある映像もチェックしたことだろうな、と文吾は考える。

「あの日西本さんがオリオンで練習していたのはご存知なかったんですよね」

皇の問いに文吾はゆっくりうなずいた。何度も繰り返されたやり取りだが、声を出したくない内容だった。

ペットボトルの茶を手に朝草が戻ってきて3か所に置いた。

「ありがとうございます」

喉が渇いていた。文吾は礼を言ってそれを飲んだ。

「そうそう、西本さんが出る予定のコンサートに出演されるそうですね」

皇に嫌味はないのかもしれないが、その話題を人から聞くと文吾は胸が痛くなる。

「まあ」

「先程はその練習ですか」

「ええ」

こんな世間話のようなことで気を許すのを待っているのかと、文吾は皇を警戒した。

「ちょっと気になったんですが、何かさっき布でチェロを拭いていましたね」

まただ。皇の鋭い観察眼に文吾は冷や汗をかく思いだった。

「師匠の西本賢司さんのチェロケースにはあのような布が入っていなかったのですが、どうしてかご存知ですか?」

皇は帽子の下に小学生のような屈託のない表情を浮かべている。

「いや、わかりません」

文吾はそういうのが精一杯だった。あの時指紋を消すためにクロスを持ち出してしまった。SUVに触れたところも丁寧に拭いた後、凶器となってしまった西本の特注エンドピンと共に自宅である賃貸マンションの押し入れの奥に隠してあった。

「あのう、池尻さん。先程からあちらの女性がこちらを見ているようなんですけど」

皇の言葉に文吾は振り返った。確かに後方にこちらを向いて少し俯いている吉川愛美よしかわまなみがいた。会いたくない2人と同時に会っている自分を認めて自虐心がくすぐられ、文吾は声を上げて笑いたい気分になった。

「警部」

朝草が囁いて目配せをした。

「ではわれわれはこれで失礼します」

そう言うと皇は立ち上がって、

「このお茶、あの女性に飲んでもらってください」

と文吾にペットボトルを指さした。

「全く手を触れていません」

「あ、わかりました。ありがとうございます」

文吾は軽く頭を下げてから後ろを盗み見ると、吉川愛美が近づいて来ていた。

皇与一が店の入口近くの売店に向かったので、朝草優香も従った。


愛美は文吾の前に来て立ち止まると俯いたまま、

「久しぶり」

と声を発した。


サーバーがコーヒーを注ぎ終わるとカップと豆乳を持った皇は、朝草と共に入口付近の席に座った。そこから2人の様子がよく見えた。


「大変なことになったね」

愛美が言いにくそうに切り出した。

「うん。そこ座ったら?これさっきの刑事さんが君にどうぞって」

「ありがとう」

文吾にすすめられるまま愛美は皇がいた椅子に腰を下ろした。


カップの縁に近いところまでコーヒーが満たしていたので、しかたなく豆乳を少しだけコーヒーの上に注ぎ皇は口をつけてすすった。

「あちっ!」

「カップもうひとつ貰ってきましょうか?」

「そうだね。ありがとう」


「文吾、つらいよね。わたしもちょっとショックが強すぎて、久しぶりにようやく今日大学に来られたんだ」

それは文吾にとってなぜか複雑な気持ちにさせる忌むべき言葉に思えた。

文吾が言葉を選んでいると、耐えかねたのか愛美が言葉を続けた。

「西本さんの代わりに出演するんだってね」

文吾はますます言葉を紡げなくなった。


朝草の待ってきてくれた新しいカップに皇は慎重にコーヒーを半分注いだ。続いてその上から強めに豆乳を投入した。妙な音がして豆乳はブクブクと泡立った。

「ちょっと!」

朝草の表情がみるみる曇った。


「迷ったんだけど」

文吾はテーブルを見つめたまま答えた。顔が上げられない。

「うん」

愛美が相づちをうった。

「やっぱやろうかなって」

なんとか文吾はその言葉を絞り出した。


満足のいく豆乳コーヒーを一口味わい、人心地のついた皇が

「あの2人は微妙なところだろうね」

と言った。 それを受けて朝草が

「さっきの聴取で、吉川さんの友人たちの話だと吉川さんは西本さんと怪しいって、まあ噂だとは言ってましたけど」

と言った。


「頑張ってね。大変だと思うけど、楽しみにしてる」

愛美もペットボトルには一度も手を触れずにそう言って立ち去った。文吾はうなずいてお茶のペットボトルを見つめた。結局一度も愛美の目を見られない情けない自分を思い知った。


「彼女、帰りましたね」

朝草には反応せず、皇はカップにコーヒーと豆乳を注いだ。今回は音が出ないように注意を払った。

「池尻文吾さんは彼女を師匠にとられたから犯行に及んだということですか」

朝草の問いに皇は首をかしげた。

「警部、池尻さんを疑ってますよね」

皇はコーヒーを飲んだ。

「池尻さんの友人によると、西本さんは理不尽に厳しいと言ってたので、憎しみを抱いていた可能性は高いですよね。加えて彼女も奪われたとなると……」

朝草はそう言って口ごもった。

皇与一は口の周りに豆乳コーヒーを少しつけたまま、

「犯人はそれらの動機で、あの日に、計画的に、犯行に及んだと本気で思う?」

と朝草に問いかけた。

「高級車盗難犯を装って、自転車で店長と遭遇してわざわざ殺人を犯したと思う?」

皇は畳み掛けた。

その口撃に太刀打ちできずに、たまらず朝草は

「うわーっ」

と声を上げた。

「今日はどうだったかな?」

皇の声の調子が少し優しく変化した。

「え?」

朝草は頭を必死に働かせた。何だったか。前も聞かれたこと・・・。・・・そうだ!

「あっ、はい。見ました。右手。お茶を飲む時。ペットボトルを持つ時に。池尻さんの右手の手のひらに絆創膏がありました!」

皇がうなずいて微笑んだ。


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