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プレリュード 怒りと殺人(1)


1

ママチャリでも3段変速なので池尻文吾いけじりぶんごはそれなりに快適なサイクリングを楽しもうとした。通り過ぎた生垣にツツジが赤い色を覗かせていた。

「もう五月か」

気づけば大学4年、就職先を考えなければいけない。音大を出てプロになれる者などひと握りだ。腕に覚えはあったが師匠と仰ぐ西本賢司からは罵詈雑言を浴びせられていた。

西本は音楽の世界ではチェリストとして注目の若手プレイヤーだ。同じ大学卒の4年先輩である。教授の仲介で半年前から指導を受けるていた。

今日はその西本にしもとに頼まれて楽器店からエンドピンを運んできていた。

チェロはバイオリン族の中では大きい部類で、バイオリンやビオラのように顎と肩に挟んで弾けるような大きさではない。そこでチェロを立てた状態で弾くため楽器の底部に穴があり、そこに金属の棒を挟み込んである。演奏者が椅子に座って膝に抱えられるようにその棒の高さを調節してチェロを床から10cmから20cm程上で固定する。その金属の棒がエンドピンだ。

西本は特注でエンドピンを作ってもらっていた。焼きを入れて硬度を高めたものらしい。楽器は繊細で木製の楽器と金属の相性もあり、様々な要因で音質に変化が出る。

西本は今回特殊な5弦チェロを使う。本来チェロは4弦のため、5弦チェロの製造本数は少ない。選択肢が少ない中で自分の納得の行く音にするためのひとつの選択肢がエンドピンの交換という訳だ。西本はエンドピンの硬度が高い方が良い音がすると判断したらしい。

文吾は5弦チェロを弾いたことはない。弾く必要がないからだ。西本が5弦チェロで今回弾く曲を文吾は4弦チェロで難なく弾けていた。



文吾は馴染みのスタジオ『オリオン』の駐輪場に自転車をとめた。このスタジオは文吾が西本に紹介した。文吾はチェロとは別にバンドでエレキギターも弾いていてこのスタジオをよく利用していた。

スタジオはビルの地下にある。階段を1階分下りて重いドアを開けて中に入った。

「ちわーっす」

軽く声をかけたが受付には誰もいなかった。

勝手は知っているので、通常西本が利用しているCスタジオに向かった。案の定細長いドアガラス越しに西本の姿が確認できた。

防音のため密閉する都合でドアはかなり開けにくい。大きいハンドルを押し下げてドアを開けるとチェロの音色が耳に飛び込んできた。良い音色だが文吾は嫌悪感を覚えてしまう。体を部屋の中に入れると、音漏れを避けるため、すかさずドアを閉めて入口に立って演奏が終わるのを待った。

Cスタジオは広い。ドラムセットに2台のギターアンプとベースアンプ。それら使われていない機材に囲まれて1人椅子に座ってチェロを弾く西本賢司の姿は、違和感があり不可思議な構図だったが、お世辞抜きに格好良かった。心底軽蔑している西本だったが人気が出るのは納得せざるを得ない。文吾はその点では西本を認めていた。クラッシックの世界だとて、アピールするにはルックス要素も不可欠だ。

最近気にかかるのは愛美まなみが西本を時折褒めることだ。2か月前何の気まぐれか文吾達のバンドのライブに西本が顔を見せことがあった。それまで常に『ギターやめろよ。チェロに集中しろ』となじられていたので、ライブ後にその姿を見かけてかなり驚いたし慌てた。仕方なく西本に挨拶に行き、来てくれたことの礼を述べた。その流れで見に来ていた吉川愛美よしかわまなみを紹介せざるを得ない状況になった。

『へぇ、可愛いね』

それが西本の愛美に対する第一声だった。不快感が込み上げたのを忘れられない。その後も数回西本の用事で会う際に愛美も同席になったことがあった。いつしか愛美は動画サイトで西本の演奏をチェックするようになっていて、『凄いね』などと文吾に伝えてきた。

細かいヴィブラートのロングトーンで曲を終えると、西本はチェロを膝で挟んだまま弓を左手に持ち替えて右手の指で弓の根元を何度か回して弓の張りを緩めた。

「あの、取ってきました」

その声に西本はちらりと文吾を見やると、弓を隣のパイプ椅子に載せた。

「頼むわ」

西本はチェロを手にしたまま立ち上がると、チェロをゆっくり倒しながら側面を下にして床に寝かせた。

「?」

しばし文吾は考えをめぐらせて直ぐに西本の意図を察した。自分が取ってきたエンドピンと今寝かせたチェロのエンドピンを交換しろ、という意味だ。

西本賢司にしもとけんじという男は頼み事をしておいて礼のひとつもいわずに、命令を被せてくるクソ野郎だったことを文吾は思い出した。


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