重い足跡、軽い足取り
「子供時代というものは、あっという間に過ぎ去るものだ」
風が吹いて、立ち上がったミリアの髪をなぶっていく。
ミリアは、髪を耳にかけた。
「それ故に、子供時代は貴重だ。君が今日踏み出した一歩は、そういう意味でも大きなものだと、私は考える。明日踏み出していたら、当然だが、今日の一歩は無かったからな」
レドは、目を見開いた。
ミリアは、迷いながら踏み出した一歩を肯定してくれたのだ。
だが、すぐに悪い癖が出る。
レドは、おろおろしながら言った。
「でも、無駄な一歩かもしれません。道を間違えているのかも」
「そうしたら、別の道に進めば良い。大丈夫だよレド。隣の道にだって、君の一歩をもってすればあっという間だ」
「……!」
「なぜ泣くのかはわからないが、良い意味の涙であることを祈るよ。ここは危ない、送っていこう」
そう言って、ミリアはレドの手を取った。あの日、スウェンに化けていた男のように。
「でも、神父様を守らなければいけないんでしょう?」
「君を一人にして人質にでもされたら、それこそ神父を守れなくなってしまう。人気のないところで走る理由があるのだろうが、人の目があるところで走る方が良い」
「……はい」
レドは少し憂鬱になった。
ミリアの言っている事は正解だ。
だが、ラーシュに見つかることが、まだ少し怖かった。
ぎゅっと服を握ったレドに、ミリアは淡々と言った。
「人の目がないところで走ることも大事だが、誰かにそれを見せることも大事だ」
「どういう意味ですか?」
「いずれわかるさ」
「あ……」
「どうした?」
「いえ……」
レドは、ミリアと繋いでいない方の手で……先程、服を握った方の手で、口を押さえた。
言ってしまいそうになった。本当に、ミリアと、スウェンに化けていた男は似ている。
けれど、二人には、決定的な違いがある。
ミリアは誰かの命を守って、あの男はスウェンの命を奪った。それなのに、二人は似たようなことを手を繋ぎながら言う。
「騎士団長」
「ミリアで良い。騎士団長だと長いだろう」
ーーそういう問題なのかな。
レドはそう思ったが、おずおずと、「ミリアさん」と言ってみた。
「なんだ?」
「その、ありがとう、ございます」
この無愛想な騎士団長にお礼を言うのは、なんだか照れ臭かったが、レドはどうしても、言っておきたかった。
レドの行く道を照らしてくれた彼女に。
「やっぱり君は不思議だな」
ミリアは静かに言った。
「あれは、私の後悔の話なのに」
「はっ、はっ」
やっぱり、人のいないところで走る方が良かったんじゃないか、とか。
こんなところを人に見られたくない、とか。
そういう思いが頭の中でぐるぐる渦巻いている。
早朝。
汗を流して走るレドを、村人達は嫌そうに見て、何かを話している。
レドは、頭を振った。
まだ、一歩目だ。先なんて見えるはずがない。
ーーこの一歩を、取り逃さないようにしないと。
それに。
不思議と……嫌悪の目で見られれば見られるほど、レドには、走ることが大事だと、大きな一歩だと思えてきた。
「はぁっ、はぁっ」
きっと、ミリアが言っていたのは、こういうことなんだろう。
ーー子供の一歩なんて、たかが知れてるって思ってた。
だけど、そこには、葛藤があって、恥じらいがある。それらが混じり合った足跡には、重みがあった。
「はぁっ、きゅ、休憩」
昨日みたいになる前に。
レドは、自分で足を止めて、持ってきていた水筒に口をつけた。
喉を流れるぬるい水は、いつもと変わらない井戸水だけれど、不思議とおいしかった。
「よしっ」
レドは立ち上がって、今度は、歩いて家に帰ることにした。
「いきなり走り出して、どうしたんだ?」
「スキル無しが頑張ったところで……」
心ない声、だが事実を孕んだ声が、レドに突き刺さった。
だが、その声が、レドの足跡を重く、深いものにしていく。
ーーそうだ、どうせ疎まれるなら。
「はっ、はっ……」
息を切らして、今日もレドは走った。聞こえてくる声は、決して良いものではない。
だが、レドは走った。まだ、正しいゴールも、間違ったゴールも見えていないからだ。
雨が強く体を打った。
レインコートを着て、今日もレドは走った。
途中、ぬかるみに足を取られて転んだけれど、ぬかるみだったせいか、痛くなかった。
風が向こうから吹いてきた。
いつもより重い足を動かして、レドは走ったが、体が宙に浮いた。
「馬鹿か!」
叱る声が飛んできて、レドは誰かの家に放り込まれた。
「それを飲んだら帰れ」
意図のわからないことを言うのは、この村で一番歳をとっているおじいさんだ。
レドは、お礼を言って、ホットミルクを飲んだ。
体がぽかぽかと温まった。
おじいさんは、苛ついた様子で、レドのことをじっと見ている。
「今日みたいな日に走るなんて、なんて無能だ。晴れとか、曇りの日とか、雨の日に走れ。いや、雨の日も走るな。晴れてから走れ」
「でも、走らないと」
「死ぬわけじゃないだろう」
「そうですけど、でも」
「でもじゃない。走るなとは言ってないだろう。いいか、わかったな。安全な日に走れと言っているんだ」
「よし、昨日は走っていなかったな」
「は、はい」
雨の日の翌日。
家の前をおっかなびっくり通りすぎると、おじいさんが声をかけてきた。
「家の前で死なれたらかなわんからな」
「すみません……」
「謝るんじゃない。謝っている暇があったら走れ」
「は、はい?」
レドの葛藤と、恥じらいの詰まった足跡は、少しだけ軽くなってしまった。
なぜなら。
「走れレド坊。ほら!」
周囲の人間の反応なんかお構いなしに、おじいさんがレドの名前を呼んで、声をかけてくるようになったからだ。
毎日ではないけれど、週に一回は、必ずレドに声をかけてくれる。
反感と蔑みしかない視線に慣れていたレドは、困惑した。
応援なんて、ドロシィ以外にされたことがない。いや、応援といえるかわからないが。
でも、どうしてだろう。
レドは、風を切りながら思った。
ーーとっても、足が軽いのは!