レドの一歩
「はっ、はっ」
レドは、息を切らせて走っていた。
よく、わからなくなっていた。
スキル判定をしてくれた神父様、ドロシィの泣き顔、レドをベッドから引き摺り出した男、そして、スウェンに化けていた男。
それらが頭の中を駆け巡って、レドをわからなくさせていた。
……強くなろうと思った。
レドのことを心配してしまう、優しい幼馴染を泣かせないため。
その決心は、一昨日の襲撃に役立った。
村長に、村の危機を話すことができた。
ドロシィの母を助けることができた。レドは計画を立てただけだけど。
二つの進歩があって、
『レド!』
父親の叱責が、耳を打った。あそこで、レドは一歩下がった。
『いずれ、レドにもわかるよ』
そう優しく言った人は、人を殺していた。
よく、わからなくなっていた。
できたことが二つと、できなかったことが一つ。心の奥底にこびりついた言葉が一つ。
こうして走っていることは、正しいことなのか。
今まで痛感してきたように、スキルの前には無駄なことなのではないか。
ぜいたくな話だが、レドはそんなことを思っていた。
レドが恐れていることは、自分の努力が無駄になること。ラーシュにいつまでも敵わないで、ドロシィがまた、泣いてしまうこと。
ーー保証が欲しい。
この努力が、無駄にならないという保証が。
王都には、学校があるらしい。
けれど、学校というものは、貴族や、ごく一部の……ドロシィのような優れた人間が通うところで、レドには手が出せない。
だから、レドは走っていた。漠然と。学校という、知識の身につく場所に、自分は到底通えない。
情けない話だが、自分はラーシュに敵わない。
剣聖のスキルを持っているラーシュは、木の棒一本でも名剣に変えてしまう。
立ち向かったとして、勝てる自信がない。
だからせめて、傷つかないようにしようと思った。
たぶん、ラーシュは、レドが逃げるのを笑うだろう。だけど構いやしない。
だって、逃げる事は、今までレドがやってこなかったことだからだ。
言われるままに森に行って、気を失うまでスキルでこてんぱんにされて。
逃げられるなんて、思っていなかった。
けれど、ドロシィに泣かれたことで。レドの中には、“逃げる”という選択肢ができたのだ。
小さな村の、なにもない村人が考え出した強くなる方法は、それしかなかった。
けれど、レドは加減を知らなかった。
「あ、れ?」
ひたすら走っていたレドは、足がもつれるのを感じて、
「あっ」
地面に倒れた。治りかけていた膝の傷が開いて、レドは唇を噛み締めた。
ーーだめだ、強くなろうと決めたじゃないか。
強くなるためには、もっと走らないと。
誰よりも、誰よりも努力して、一日で走る時間を長くして、ラーシュが追いつけないようにして。
「……」
じわりと、涙が目に浮かんだ。
「そんなこと、本当に、できるのかな」
思えば、ラーシュに初めて森に連れて行かれた時。自分は、抵抗したのだ。
地面を蹴って、ラーシュ達から逃げて、でも、あっけなく捕まった。逃げる選択肢は、あの日に奪い去られていた。
無力感が、レドを支配していた。
もしも、逃げた末に捕まったら? 普段よりもひどいことをされるかもしれない。
人気のないところを選んで走っているけれど、それが見られていたとしたら? 生意気だと、もっともっと、ひどいことをされるかも。
考え出したら、止まらなかった。
スキルのない自分に伸び代はない。だけど、ラーシュにはある。レドは見たことがないけれど、ステータスをどんどん上げて、どんどん強くなっていく。
レドが頑張ったとして、蟻の一歩だ。自分より大きい生物には、敵わない。
いつまでも自分は、踏み潰される側だ。
「う、うぅっ」
レドは泣いた。そんなことを考える自分が嫌だった。
ドロシィを泣かせないと決めたのに、自分が泣いていたら世話がない。
レドにはわからなかった。どっちが、正解なんだろう。どっちが、ドロシィを泣かせないんだろう。
「ばかみたいだ、はは……」
卑屈な笑みがこぼれた。
前進だ、後退だと、一喜一憂していたが、そんなの、自分から見たものにすぎない。
「わからない、わからないよ……」
何が正解なのか、レドにはわからない。目に見えて大きな一歩が欲しいのに。
そう。
「何をしてるんだ、レド少年?」
この人みたいに、自信のある一歩を踏み出したいのに。
「騎士団長様、どうして」
「どうしてもなにも、それは私の台詞なのだが」
相変わらず、無表情に近い顔で、ミリアはそう言った。
「こんな人気のないところでうずくまっていれば、今度こそ殺されてしまうよ。家に帰りなさい」
「は、はい、すみません」
レドは立ち上がった。
「それで、何がわからないんだ?」
「い゛っ!?」
泣き言を聞かれていたとわかって、レドは変な声を出した。
「ばかみたい、とも言っていたが」
「い、いやそれは」
「それは、君が走っていたことに関係するのか?」
すべてを当てられて、レドは目を泳がせた。
「えっと、あのっ」
「君は子供なのに、後ろ向きなことばかり言っているね。子供なのに」
「す、すみません」
「やっぱり君は不思議な子だね。すぐに謝る」
「すみま、あっ」
レドが口に手を当てて、謝罪を封じていると。
「ふっ」
聞いたことのない音が、頭上から降ってくる。
「……僕は、悩んでるんですけど」
「いやすまない。面白かったもので」
ミリアは、少しだけ口の端を吊り上げていた。目は相変わらずだったが。
「君は子供なのに、難しいことを考えているね」
さっきから、子供なのに。と言われて、レドは少し不満を抱いた。
子供だって、子供なりに考えているのに。
ミリアは屈んで、レドに目線を合わせた。
「謝罪ついでに、良いことを教えてやろう。レド、子供の一歩は、大人の一歩よりも大きい」
「へ?」
レドは、思わず自分の足を見た。そんな馬鹿な。
「馬鹿正直に受け取るな。これは比喩だよ。子供だからこそ伸び代がある。私が今から走ったところで、君ほどには伸びない」
おめでとう、とミリアは言った。
「君は、誰よりも大きな一歩を踏み出したんだよ」