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銀色の湖

「私のオフィスに案内しよう。まずはお茶でも」

ラバールに先導されながら三人はエレベーターに乗り込んだ。周囲からの視線を感じる。名のある教授が神父を連れ回していれば注目されないわけはなかったのだが、二人はそれを無視して世間話をし始めていた。

「別件のお仕事は何用で?」

「地方の教会の経営について意見交換をする会議が行われるんです。本当は見習いだけを連れてくる予定でしたが、あなたから連絡を頂いたのでついでに出席しようかと思いまして」

師匠が客人と話す間、涼音は聞き耳を立てたまま黙っていた。高身長の涼音が見上げるほど背が高いフィンとラバール。異なるタイプのハンサムを二人並べて見ていると、段々と自分が場違いな気がしてくる。唐突に今回の研究に不安が現れた。

エレベーターが短い上昇を終え、目的階に着いた。軽い案内をしながら長い廊下を進みラバールのオフィスの前で止まる。

「ここです。どうぞ」

ラバールがドアを開けてフィンを中に招いた。

革製のソファーが部屋の中央にポツンと置かれている。上に乗っていた書物は今日のために全部除けられていた。元々散らかってはいなかった部屋はソファーを片付けるだけで済んだのだが、本棚だけが破裂寸前でお世辞にも綺麗とは言えない。逆に考えれば大学教授らしい部屋なのだろう。フィンはオフィス全体を大きく見回して時々壁飾りや本棚に目を止めていた。

「飲み物は何がよかったかな」

「では、紅茶を」

「淹れてきます」

「いや、スズはフィンと話を進めておきなさい。君の客なんだから君が相手しなくちゃ。何を飲む?」

「え、あ…、では、紅茶を」

ラバールが出た後、部屋のドアが重い音を立てて閉まった。出る直前に意味ありげな目配せをしてきたから彼としては何か考えがあるに違いないが、唐突にこんな美人と二人きりにされてはたまったものではない。軽いパニックになった頭を抱えながら振り返る。フィンは壁際に立っていた。ラバールの行動は彼にとっても意外だったのか、数秒間はそのままでいたが、やがてソファーに近づきゆっくりと腰を下ろした。

「困った教授ですね。ですが彼の言うことも一理ある。どうぞかけて」

フィンの指先が真正面の席をさしている。再び高鳴る心臓を抑えて涼音はその席に座った。目の前に世界一美しい神父がいる光景は圧巻だった。窓から差し込む日差しがフィンの横顔に当たり、完璧なその造形を浮き彫りにしている。ロビーの蛍光灯の下で見たときとは違った印象があった。

背もたれに軽く身を預け、例の優しい口調でフィンは質問した。

「日本人…ですね?イギリスには何年目?」

「五年目です」

「なるほど、英語が御上手なわけだ。ラバールと知り合ったのもそれくらいですか?」

「ええ、ここに来たと同時に入学したので。ラバール教授には昔から可愛がっていただいてます」

「なるほど…」

フィンが前のめりになり、涼音と彼の距離が近づいた。

「失礼ながら…、君に恋人は?」

「え?」

思いがけない質問に涼音は多少の困惑を覚えた。フィンが自分に興味を持ったとは考えにくいが、それでも一瞬だけ期待してしまいそうになる。広大な湖のように静かな瞳がこちらを覗き込んでいる。

「いません…今は」

意味もなく赤面しそうになるのを必死に抑えた。無意識に全身に力が入る。涼音の様子に気がついたフィンが軽く笑って謝罪の言葉を口にした。

「変なことを聞きましたね、失礼をお許しください」

「いえ、質問の意図はわかりませんでしたが気にしていませんので」

フィンの微笑みに合わせて涼音も表情を緩めた。完全にこの場の主導権を握られていると思う。これも仕事柄なのだろうか、初対面にも関わらず彼に心を開くよう誘導されている気分だ。

フィンはあくまでも礼儀正しく背もたれに体を戻した。そして寄り添うような温かさを含んだ口調で次の言葉を話した。

「恋愛に対して何かトラウマを抱えている。恐らく過去の恋人だ原因でしょうが…ひどい裏切りを受けた。金銭絡みの」

「…どうしてそれを」

「伝わってくるものを言語化したまでです」

涼音は驚きを通り越して思わず笑顔になっていた。昔、日本で占い師に見てもらったときの感覚と近い。不意打ちなのはいただけないが、見通され言い当てられ素直にすごいと思い、尊敬の眼差しでフィンを見つめ返す。例えそれが過去のトラウマを抉るような内容だとしても、今の涼音にはそれすら問題ではないようだった。

「フィン教授は超能力者?」

「まさか。超能力など存在しない。ただ、あなたの表情が過去の出来事を素直に物語っていた。過去を後悔していると」

「ええ、確かにあまり誇れる経験ではないです…。でももう終わったことだから、気にしていません」

「そのようだ」

その言い方に違和感を感じ、涼音はふと笑うのをやめた。フィンを見るとフィンもまた涼音を見ていた。静かで冷たいあの目が、いまだにこちらを探るように動いていた。

大分時間が経ったように感じた。フィンの静かな口調が静寂を破った。

「ラバールはあなたに振り向きません」

「…え?」

「彼はあなたの薄々気持ちに気づいている。はっきりさせないのはあなたが行動に出るのを待っているからでしょう。酷い人だとお思いになるかも知れないが、不器用な彼にとってはそれが最善策だった。責めることはできない」

温かみが薄れたその声がやけに腹に響いた。涼音の口角はさっきまでの笑いを張り付けたまま固まっている。今何と言われたのか。耳鳴りがして、心臓から指先まで急速に冷え始める。自分の背筋が本当に真っ直ぐになっているのかもわからなくなり、今すぐ体を預けられる何かが欲しくなった。

またしばらく沈黙が続いた。多分次は涼音が発言をする番なのだろう。脳をフル回転させ、何を話すべきか、何を聞くべきか必死に考える。聞きたいことが山ほどあって追い付かない。目の前でフィンが何もなかったような表情をして優雅に座っていた。長い睫毛を通して見るグレーの虹彩が美しい。初めて見た時から感じていた何もかも見抜いてしまいそうな不気味さは間違っていなかったのだと、涼音は自分の勘の良さに笑った。

「何か?」

「あ…、フィン教授、あなたのことを考えていました」

自分のものではない唇を動かしている気がした。思っていたよりも滑らかに喋られる。

「人を分析するのがお得意なんですね」

「職業柄、得意にもなります」

「私がラバール教授に好意を抱いていると、本気でそうお思いですか?」

「では違うんですか?」

自信に満ち溢れた聞き返し。涼音は白旗をあげた。ハッタリという可能性も0.01パーセント程度はあったが、それよりも天才精神分析家が涼音の恋心を言い当てる可能性の方が高い。それに、何を隠そう、恋心の存在自体は事実なのだ。

真っ直ぐに目を見据え、倒れそうな体を筋肉で保ちながら単純な質問に答えた。

「…違いません」

「ならば私が申し上げたいこともおわかりですね?」

「諦めろと言うのでしょう?ご安心ください。とっくにそのつもりでした」

「そうでしょう。あなたは賢い。無垢で愚かな子供とは違う」

フィンの優しい言葉が緊張した涼音の心を癒させた。いつの間にか優しい抑揚に戻っている。罪人の告白を聞いた神父の優しさは、クリスチャンでもない者の精神をも包み込むのだろう。

「あなたは若い。ラバールのことはこれから時間をかけて忘れていけばいい。いつか素敵な人があなたの傷を癒してくれる」

フィンの手が伸び、涼音の手を取って軽く握った。その瞬間涙腺が熱を帯びたのを感じた。咄嗟に目を伏せる。涙は流せない。もうすぐ、ラバールが給湯室から帰ってくる…。

そんなことを考えると同時に、秘密を荒らされてもなお彼に対して怒りが湧かない自分に違和感を覚えざるを得ないのだが。



誰かがドアをノックした。返事を待たずに扉が開かれる。

「おまたせ」

「あ、ありがとうございます」

ラバールが慎重な足取りで部屋に入ってきた。トレーに並べられたティーカップを不慣れな手つきで机に並べる。涼音はラバールの不器用な仕草が面白く見え、赤らめた目を押さえながら微かにほほ笑んだ。大学教授が一生徒のために給仕をする姿はある意味滑稽に見えるものがあり、それを至って真剣にこなす彼の表情もまた滑稽さに拍車をかけていた。

「それで…、二人でどんな話をしていたんだい?」

「世間話の範囲です…。研究の話はまだですけど」

「親睦を深められたならよかった。…まって。スズ、君、泣いたのか?」

涼音の異変に気が付いたラバールが屈みながら涼音の顔を覗き込んだ。赤みが引いていない目にラバールの指先がふれる。思わずドキリとする。ラバールに触れられたからではなく、事情を聞かれるのを恐れたからだ。咄嗟に身を引き、ラバールから離れながらありがちな嘘をついた。

「泣いていません!寝不足のせいで欠伸が出ただけです…」

「いいや、確かに泣いている。フィン、涼音に何かあったのかい」

視界の端でフィンが優雅に紅茶を口にしていた。なぜこの場で、ここまで冷静にいられるのか、涼音には不思議で仕方がなかった。

「何があったのかは言えません。守秘義務があるので」

「つまり、カウンセリングを?」

フィンが頷く。ラバールはどこかほっとしたような浅いため息をつき、涼音の方を振り返ることなく立ち上がった。

「そうか…あなたが先生でよかった。君もお母様が亡くなられたばかりだったな。気遣えなかった。すまない」

その言葉で涼音は一週間ぶりに母親を思い出したが口に出さなかった。いい大人が恋愛相談で泣いたと言うよりは、母親を亡くした悲しみで泣いたと言った方が面子が保てる。フィンにとっては寝耳に水だろうが、彼の表情は見事なまでに変わっていなかった。流石と言うべきか、それとも母の死まで読まれていたのか…。

涙を落とすことなく涙腺の勢いは終息したが、潤んだ目を気にしたのかラバールがポケットからハンカチを出した。必要ないと言う暇もなく、何も考えずにそれを受け取る。騙しているのに厚意を貰っているようで引け目を覚えるがこの際開き直るしかない。ハンカチで鼻と口を覆い鼻水を抑える。目の前の共犯者に目を向けると一瞬の間の後直ぐに目が合った。ハンカチに気がついて意味深に笑う。そしてティーカップを口につける瞬間、声を出さずにこう言った。

『お悔やみを』

たまたまだろう。彼がそれを笑いながら言ったのは。


涼音は深く深呼吸をした。鼻腔いっぱいにラバールの匂いが広がったが、何故か胸の高鳴りを感じることは無かった。

彼はすべてを見破ってくる

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