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出会い

涼音は一時間前からそわそわと時計を気にしていた。

フィンからのメールを受信してから二週間が経つ。その間、涼音は類似の論文がないかありとあらゆるところを調べ回り、時間のほとんどを分析に充てた。時間が足りるはずもなく進捗は芳しくない。時間を要することは覚悟していたが、フィンとの約束が涼音の気持ちを急き立てていた。自分が論文を書くと言い出した以上、協力者と対等に話せるだけの知識がほしい。向こうの内容が難なく理解できる程度の予備知識が必要だった。涼音はその焦りだけをエンジンに、黙々と資料を読むことに没頭していた。

最後の大詰めとして今も資料を握っている。しかし、それが読み進められることはなかった。五分おきに時計をチェックする自分が情けない。


「サンタの到着を待つ子供みたいだね」

「仰りたいことは分かってます。忙しなくてすみません」

「いやいいんだ。こんなスズは滅多に見られるものじゃないからね、興味深いなと思って」

そのからかいに乗る余裕はもうなかった。フィンの到着まであと十分、もういつ来てもおかしくない。

涼音は諦めて資料を片付けた。ラバールに離席を伝え部屋を出る。廊下に面する窓は開いており、新たな秋風が吹きこんで涼音の頬を撫でた。昼休憩の時間だからか、廊下や窓の外から学生たちの声が多く聞こえる。昼食を食べに出る二、三人のグループが走って敷地外に飛び出していった。涼音は廊下を喋りながら歩く女学生二人組を追い越して女子トイレに駆け込んだ。

小走りで洗面台まで進む。綺麗に磨かれた鏡に自分の容姿を映した。艶のある黒髪、主張しすぎないメイク、今朝アイロンまでかけてきたカーディガンと黒いスキニ―ジーンズ。何度も確認した身だしなみに最終チェックを入れる。

余計なおしゃれをしなかったのはちゃんとした研究者に見られたかったからだ。涼音は普段、キングス・カレッジ・ロンドンの学者以外との交流を持つタイプではなかった。よって業界の空気には疎いが、風の噂では女性学者は差別的偏見を持たれやすいらしい。きっと嫉妬心の強い誰かが女性学者の地位を陥れるためにやっているのだろう。女は自分のセックスを武器にも足枷にも出来る。嫉妬心の強い誰かはその手のゴシックを流したに違いない。

それは涼音が最も嫌う手法でもあった。陥れるほうではない、色仕掛けのほうだ。地味な格好は慣れないおしゃれをするより媚びて見えまい。それに、(これはついでだが)実力相応の格好をすることで好印象にもなる。

鏡に向かい前髪の並びを軽く整える。扉が開いて新たな利用者と入れ違いに女子トイレを出た。


それからオフィスに戻るとラバールが出る準備をしていた。受付からフィンの到着を知らされたらしい。覚悟を決め、ラバールに先導されるようにロビーに向かう。その足取りはいつもよりテンポが早い。

「教授も緊張するんですね」

「なんだって?」

「早足だから」

指摘されて初めて気が付いたのだろう。階段を下るスピードが急に遅くなった。

「すまない、配慮が足りなかった」

「いえ、そういうつもりじゃないんです。教授のそういう態度が珍しく思えただけで」

「それはさっきの仕返しかな?スズ」

目を細めて笑うラバール。振り返って涼音を階段の先へ行かせた。歩きながらラバールは至極落ち着いた声で答えた。

「私の心臓は鋼でできている。緊張なんてするわけないじゃないか。強いて言うなら彼と久しぶりに話せることが楽しみで仕方がない」

「心臓が鋼でできている設定はどこにいったんですか」

最後の一段をおり、思い扉のドアノブに手をかける。無機質な非常階段から扉の向こうに出ればそこには待ちに待った天才がいると理屈と肌で分かっていた。

扉を押し開けながら涼音はラバールのジョークの返事を聞いた。自分の恩師とは思えないほどつまらないオチに思わず口角が上がる。風が吹き込み、広いロビーに体をねじ込んだ。


学生で賑わうそこは静かとは言えない。よくいえば活気溢れる空間だが、だからこそ、その空間で神父の立ち姿は目立ちすぎていた。

遠目で見てもわかるほどスラリと高い背、ひと目で聖職者と分かる漆黒のキャソックがその身長によく映えていた。服の上からでもわかるしっかりとした体つきは神父のイメージと相反してとても色っぽい。全ての要素が大学に相応しくなく、横切る学生たちは不思議そうな目でフィンを見ている。

「どれが彼か当ててごらん」

二度目のジョークは笑えるものだったがニヤけただけで反応しなかった。

ラバールが涼音を追い越し、大きな歩幅で近づきながら声を張り上げた。

「フィン教授!」

フィンが振り返り涼音は初めてハッキリとその容姿を見た。思わず息を飲む。刹那の間、論文のことをきれいさっぱり忘れた。もはやどうでもいいとさえ思うほど、一瞬で涼音の脳内は完全に支配された。

氷の彫刻かのごとく美しい顔立ち。人間ではない、なにかとても恐ろしいものを見ている気分に涼音は陥った。彫りの深い目元に通った鼻筋と薄い唇。見た目は三十代後半に見えるだろうか。決して若くは見えないがそれを欠点としていない。むしろ余計に艶めかしい。自然に整えられた髪の毛はベージュ系のブロンドでなめらかな質感を引き立ている。6フィートはある身長とダビデ像を彷彿とさせる端正な肉体は完璧そのものだった。これまで数多の老若男女を虜にしてきたに違いない。

妖艶な神父はラバールを見つけると同時に柔らかく微笑んだ。右手を差し伸ばす動作ひとつで、その洗練された身のこなしが見て取れた。優しく、柔らかく、優雅。ただ、彼のグレーの眼だけが何かを見据えたように飄々としている。

「ようこそ、キングス・カレッジ・ロンドンへ。長旅はどうだった」

ラバールがフィンの手を握ったのを見て、涼音は自分が呆けた顔をしていることに気がついた。

「おかげさまでいいものでしたよ」

低くあたたかい声。日曜日の協会用の声なのではと疑うほどよく似合っていた。父親のような温かさの中に近寄り難い気高さを感じる。恐ろしいほど神々しい。すれ違う学生たちがフィンに向けていた視線の正体は、崇高な物を見てしまった畏怖に違いない。

涼音が笑顔も作らずに立ち尽くしていると、ラバールがフィンの手を離しながら振り返り涼音の背中を軽く叩いた。はっと我に返る。

「メールにも書いたね。紹介しよう、僕の愛弟子のスズネ・キヨタだ」

フィンと涼音の視線が合う。バチッと効果音が鳴ったような気がした。グレーの瞳に吸い込まれ、心臓が一瞬で凍る。やっとの思いで顔に笑顔を貼り付け、平常を装いながら右手を差し出した。

「はじめまして、レディ教授。お会いできて光栄です」

「どうぞフィンと呼んでください、ミス・キヨタ。レディなんて可愛らしい呼び方は私に似合わないでしょう」

確かに、と涼音は思った。姦しく愚かしいレディなんて、あなたの呼ぶ名にふさわしくない。

「分かりました、フィン教授。私の方こそ『ミス・キヨタ』なんてかしこまった言い方されると困りますよ。どうぞ気軽にお呼びください」

「では、スズネ、宜しくどうぞ」

白い大きな手が涼音の右手を包んだ。涼音は体中の毛穴が浮き立つのを感じた。長く憧れていた著名人と初めて握手したらきっとこんな気分なのではないか。

「スズは君の到着をずっと心待ちにしていたよ。おかげで私まで落ち着かなかった」

ラバールの指先が涼音の腕に軽く触れた。さっきからの自分の浮かれ具合を思い出し、一瞬で顔に血が上った。

「お恥ずかしい限りです。ラバール教授からフィン教授のことは伺っていたので、本当に楽しみにしていました」

「はは、ラバールが誇張し過ぎていないといいのですが。私もあなたの優秀ぶりをラバールから聞いていますよ。私が力になれるなら幸いだ」

まるで典型文を読み上げるような慣れた受け答え。今までどれだけの人に同じような賞賛を受けてきたか、それだけで見て取れた。

同時に、(妙なことだがこの時点で)彼が本物の天才であることを確信した。微笑みは優しいが表情豊かとは言えない。俗に言う営業スマイル。口角の上げ方ひとつ取っても、まるでその形が自分の顔を一番美しく見せることを知っているかのようだ。もっとも、知り合って一分も経っていない相手に心からの笑顔を振りまける人間も珍しいのだろうが。

涼音は改めてフィン・レディを注視した。神に仕える人間のはずなのにどことなくエロティシズムを感じるのは何故だろう。ただ単に自分が欲求不満なだけだったらとんでもなく不謹慎な考えに違いない。しかし、彼の存在は明らかに「神に仕える者」の範囲に収まるものではなかった。神そのものか、もしくは悪魔か。美の女神がヴィーナスなら、フィンは美の悪魔だ。キャソックの漆黒が別の意味に思えてきた。悪魔が持つ醜い翼でさえ、彼なら自分のものにしてしまうかもしれない。

涼音は自分の心が徐々に美の悪魔に侵略されていることに気づけないままでいた。彼が涼音を見つめ、また微笑んだ。



美人だ

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