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フィン・レディ

フィン・レディからの返事はメールを送った一週間後に来た。答えは"喜んで協力する"。涼音はその結果に心底驚いた。そして同時にラバール教授の影響力にも感服せざるを得なかった。大袈裟な言い方をしないラバールがあれだけの評価をする人物ということは、かなりの大物研究者に違いない。となると、体がひとつでは足りないほど忙しいはずだ。若い無名の研究者のメールなど無視されてもおかしくなかった。いい返事を貰えた最大の理由はラバールの後押しのおかげだろうと容易に想像できた。


「そこまでの権力が私にあればよかったのだが。でも残念、理由は他にもあるみたいだよ」

金縁のメガネを外しながらラバールは答えた。涼音は思わず拍子抜けした。想像もしていない答えだ。教授の紹介が影響していないなんてありえるの?抗議の声が喉まで出かかった。

「で、でも、それならどうして…」

「君は僕を買いかぶり過ぎているようだな。ちょっと人より論文を書いているからって、そんな権力は持たないよ」

あの論文たちを「ちょっと」と表現するのはおかしな話だ。過度な謙遜をしながらも恥ずかしそうに笑うラバール。普段は感情の変動を見せないラバール教授が人間らしい表情を見せるたびに涼音は不思議な気持ちになった。同時に、彼の感情は深海のように触れにくいところに存在していることを思い知らされるのだが。

「レディ氏については調べたかい?」

「ええ、バーミンガム大学で宗教学を教えていらっしゃいます。研究内容も興味深いものばかりでした」

「そうだね。優秀な宗教学者だ。それと同時にカトリック教会の司祭でもある。今回はそっちの用事でロンドンに出向くことになっていたらしい。我々に会ってくれるのはそのついでだと思うよ」

急に話の辻褄が合う感覚を覚えた。やはりラバールは謙遜しすぎていただけだ。用事の片手間に他の研究を手伝うような神父兼研究者はそうそういない。十中八九ラバールのために時間を割いてくれたのだろうと察しがついた。

「教授、レディ教授はどのような方なのですか。以前は私の研究に最適だと仰っていましたが…」

涼音は思い出したように質問した。

それは協力をお願いする手紙を書いた時からの疑問だった。正直、副職に大学教授をやっている協会関係者は多いと聞く。その中でフィンを適任と断言する理由は難しい。ただの研究者ではなさそうだ。

ラバールは清潔感のある栗色の髪を右手でくしゃりと揉んだ。優しい笑みを浮かべその先の発言に期待を持たせる。涼音はそれをラバールなりの演出だと思った。やがて前のめりになり、形のいい唇を動かした。

「彼は精神分析家の資格を持っている。最近は刑務所にも出入りしながらそこのクリスチャン相手に説教しているらしい。君の論文の内容はまるで彼のためにあるようなものだと思わないかい?」

涼音はゆっくりとうなずいた。宗教家と精神分析家の二つの面を持ちながら刑務所に出入りする人物。罠かと思うほど涼音にとって都合がいい。

「心理学は専門内?しかもプロですか?」

「本当に、驚きだよ。医師免許を持つバリスタだ」

バリスタとは日本で言う弁護士にあたる。ラバールの例えはわかりやすかった。司法試験を満点で通過する者はいても、医師免許と弁護士バッジを同時に持つ者はそう居ないだろう。それでも、フィンならそれをやってのけるかもしれない。

精神分析家は臨床心理士とは違う、かなり難易度の高いものだ。資格取得には長い年月と根気、並外れた知識を要する。今では心理学出身者にも門を開けているが、一時期は医学部出身でないと取得出来なかった程に高いハードルを構えていた。それを、同じくハードルの高い司祭の人間が有している。「持っていたら人生勝ち組だろう」と言える肩書きを、少なくとも三つも持つのだから脳内に蓄えた知識量は超人並みだろう。

「…そんな凄い人を紹介いただけるなんて。本当にありがとうございます、教授」

「いやそんな大したことはしていない。ただ、君がこのチャンスを活かしてくれることを願っているだけだよ。まあスズなら心配なさそうだがね」

ラバールは一段落つけたかのように肩の力を抜いてマグの中身を飲み干した。彼の惜しみない評価の言葉に胸の高鳴りを感じざるを得ない。顔が緩まないように唇を結ぶ。ラバールの言葉には教育心理学に基づく技法が節々に散りばめられているのだが、そんなことは気にならないほど涼音はこのとき盲目だった。


ラバールはディスクから立ち上がって椅子にかけていたジャケットを軽やかに羽織った。

「さてと。ところでスズ、昼食はまだかい?」

「ええ、そうですが」

「たまには一緒に食べよう。この前若い子が好きそうな店を見つけてね。君もそろそろ学食に飽きてきたんじゃないか?」

紺の生地に薄いストライプが入ったジャケットが彼の細いスタイルを一層引き立たせた。ラバールは涼音の返事を待たずに、腰まである本の山を縫ってドアまで進み部屋の照明を切った。

「よ、よろしいんですか?」

「大丈夫だよ。私たちが、その、君の言う"噂される仲"じゃないってことは周知の事実だからね」

「一体何の話でしょう」

愛妻家で有名なラバールにそんな噂が立つとも思えない。彼がふざけて言っているのだろうと確信して涼音は苦笑して見せた。ラバールも同じように笑った後、一足先に部屋を出た。誰もいなくなったオフィスに取り残されふいに非日常感に襲われる。急いでデスク上の資料をかき集めた後、ラバールにおいて行かれないよう足早にオフィスを後にした。



しばらく更新ゆっくりめです

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