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始まり

きっかけに過ぎない

クリストフ・ラバールは国内有数の心理学者であり、キングス・カレッジ・ロンドン心理学部の教授でもある。研究者としての実力は本物だが、近年、自分の研究より教授としての仕事に力を入れるようになった。温厚な人柄と甘いマスクで学生からの人気は高く、肩書きも含め典型的なイギリス紳士だ。


「なかなかに面白い研究を思いついたな。しかし資料集めが面倒なことになりそうだぞ、スズ」

ラバールは資料を丁寧に閉じながら涼音に目を向けた。

ラバール専用のオフィスはあくまでも整理整頓されていた。ハリー・ポッターの世界を彷彿とさせるほど大きく美しい木目調の棚を大量の資料が隙間なく埋めている。同じく美しいアンティークデスクはラバールがこの部屋に来る前からあったもで、自前で持ってきた日本製のオフィスチェアがかなりアンバランスだった。部屋の構造自体は近代的なのに対してちぐはぐなその空間をラバールはあまり好きになれなかったが、それでも長いこと利用している分愛着があるのも事実だ。

「専門外であることは承知しています、しかし…」

「分かっている。君が頑固さはこの数年で身に染みているよ」

茶化した笑いが口から洩れる。しかし冗談のつもりはなかった。事実、涼音の確固たる意志に、ラバールは何度も驚かされている。


椅子に深く腰かけたラバール。デスクを挟んで向こう側に立つ涼音を見上げる。染めも巻きもしていない美しい黒髪が胸のあたりで揺れている。眉下で揃えられた前髪は、もともと持っている日本人独特の幼さを誇張させていた。しかし、彼女の5.6フィートもある高身長が幼い印象を一変させる。スラリとした手足と引き締まった体は欧州人の好みそのものだ。眼は髪色と同じで漆黒。くりくりと大きく、吸い込まれるような魅力を放っている。彼女が愛想さえ持ち合わせていれば言い寄ってくる男性の一人や二人いただろう。

出会ったころと比べると大違いだな。蛹から蝶とはよく言ったものだ。


ラバールは資料へと視線を戻した。内容は犯罪心理と宗教。涼音がこれまで出してきた論文からは一歩逸れている。犯罪心理学はラバールも涼音も専門外だが、どういわけか涼音は以前からその研究をやりたがった。仕事の合間を縫って勉強していることも知っている。ラバールは気付かれない程度に小さくため息をついた。

最近の若い研究者が犯罪心理に惹かれる傾向は噂には聞いていた。理由は大体想像がつく。数年前に流行った犯罪ドラマの影響だろう。ラバールは自分の妻と娘がリビングでテレビに食いついている姿を思い出した。確かに犯罪者の心理を読み取りながら事件を解決していく主人公は魅力的に思えた、憧れるのも無理はない。しかし、だからと言って研究職が流行りに右往左往されるのは頂けない。ラバールは完全な偏見だとは知りつつも、若い犯罪心理学者を見かける度に顔をしかめずにはいられなかった。

「君は優秀な研究員だ」

脈絡もなくラバールが言った。涼音は驚いて顔を赤らめる。

「ありがとうございます。教授のおかげです」

賞賛に対して素直に照れる涼音を見て、聞きたかった疑問を喉の奥に押し込んだ。危うく彼女に関係ない嫌味を言ってしまうところだった。八つ当たりは紳士ではない。

「どうしてもこれをやりたいのかい?」

「ええ、できるなら。被験者集めが難しいので今すぐ結果を出せるとは思ってはいませんが」

「なるほど。後回しにしてでもやりたいのだね」

涼音は訛りのほとんどない英語で”Yes”と答えた。声を荒らげなくても涼音の強い意志は感じ取れた。

彼女の研究は彼女が決めるべき。例え彼女が私を恩師と崇めようとも筋の通らない理屈で引き止めてはいけない。

「頑張りなさい、君ならできるだろう。サンプルの心当たりはあるかね?」

「いえ、今のところは…。とりあえず論文を探すところから始めようと思います」

「そうか、たまにはゆっくり時間をかけて仕上げるのもいいだろう。ここ最近の君は飛ばしすぎている。焦りは禁物だよ」

涼音は一瞬体を硬直させた。どうやら焦りを感じていたのは事実らしい。

「…ご忠告ありがとうございます」

顔に羞恥の色を浮かべて涼音は頭を下げてその場を去ろうとした。ラバールは涼音が無意識に日本式の挨拶をしたことが気になったが何も言わなかった。その代わり、突如脳裏に浮かんだ人物の名前を口にしていた。

「フィン・レディを知っているか?」

涼音が振り向く。

「はい?」

深く腰をかけていたデスクチェアから体を剥がした。涼音と目線の高さが合う。咄嗟に閃いた男について、様々な考えが頭を回った。そうだ、あの男以外の適任はいない。我ながらよく思いついた。

きょとんとした自分の教え子に向かって、緩んだ口をゆっくりと開けた。

「きっと力になってくれる。私は何回か顔を合わせた程度だから協力してくれるかは分からないが、メールを書いてもバチは当たらないさ」

「どういった方なんですか?その人は」

「レディと名につくが女性ではない、ただのファミリーネームだ。可愛らしいその苗字を彼は嫌がっているがね…。一言では表せない色んな肩書きを持つ人だよ。でも彼に本業を問うたらきっと聖職者と答えるだろう」

わかりやすく困惑している涼音。それもそうだ。彼は私にも理解に至らない人物なのだから…。

ラバールが笑みを浮かべながら最後のひと押しをした。

「メールは私からも書こう。もし彼が君に協力すると言ったら君にとって最高の出来事になるはずだよ」

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