プロローグ
初投稿です、仕様が分からないので調整していきます。
清田涼音はもう長いこと機体の揺れを全身で感じていた。
二重層の小さな窓から見える景色は二時間前から変わっていない。細身な月と眼下に灰色の雲が広がっているだけだ。涼音は夜を愛していたが、代わり映えのしないその景色にとっくの昔に飽きていた。
スマートフォンの明るさを最小に設定し、真っ白なメモ機能を開いたまま指が止まっている。しかし、特別書き込みたい内容があったわけでもなかった。何かを書き残したいが何も浮かばない。まるで雲を掴むような無謀な欲望と涼音は戦っていた。
機内は薄暗かった。乗客の何人かが読書灯を使用しているのが見える。さっきから聞こえている微かなタイプ音は、このうちの誰が鳴らしているのだろうかと涼音はぼんやりと考えた。いつの間にかスマホはしまわれていた。自分が無駄を働いていることに気付いたからだ。なるべく音をたてないようにシートベルトを外す。航空法では正当な理由がないとき以外にシートベルトを外すことを禁じているらしい。法に対して小心者の涼音はそれを知った時心底震えたが、「そんな些細なことでいちいち罰金を食らわせるメリットはない」とラバールに笑い飛ばされてからはもう気にしていない。
隣で静かに寝ている初老の紳士を気遣いながらゆっくりと体勢を変えた。靴を脱ぎ、窓に向かって膝を抱える。成人女性にしては行儀の悪い体勢だったが明かりが乏しい今ばれやしないだろう。どのみちまだ眠れない。眠りに落ちる前に戻ればいいだけの話だ。
涼音は自分の不眠体質について恨みがましく考えた。もとから電池が切れてからでしか眠れない体質なのだが、一人でいるときは思う存分夜更かしすればいい。起床時間が早い日でも若さに任せて無理やり起きれば済む話だった。しかしその他大勢がいる場面では他と合わせないわけにはいかない。膝を抱き締め、眼をつぶって睡魔を誘い込む。そんな涼音の願いとは裏腹に頭はどんどん冴えてきた。こうなるとわかっていたらラバール教授の言うとおりビジネスクラスにしておけばよかったわ!もしかするとラバールは本当に涼音の不眠体質を見抜いてビジネスクラスを勧めたのだろうか。だとしたら涼音は彼の臨床心理士の腕に震えるしかない。
温厚で物腰の柔らかいラバール。涼音はラバールに対してある種の憧れを抱いていた。日本から逃げるようにイギリスに飛び込んだ私をたった一人受け入れてくれた人物。今回も母親の葬式で帰国する涼音のために実験の助手を数人よこしてくれた。おかげで数週間は大学を空けられる。問題は数週間暇があってもどうしようもないということ。懐かしいはずの日本で羽を伸ばそうにもどうも落ち着かない。母親が死んだ今、ずっと疎遠だった親戚を頼ることも有り得ない。日本という国は涼音が不在の間に大きく変貌してしまったようだ。そのことを身をもって知った涼音は結局葬式が終わってすぐにイギリス行のチケットを取った。
窓に反射する自分を眺めながらそろそろ姿勢を戻そうと思った。待ちわびていた眠気が襲ってきたのだ。足をおろし正面を向く。激しい睡魔のせいで靴を履く気力はもう残っていない。この時せめて前の座席の下にでも押し込んでいれば、起きたとき恥をかかずに済んだのだが。深い眠りに落ちていく。