第2輪「嘘のような現実」
音の正体は、保健室の引き戸だった。純希が今いる手洗い場の斜め左に、引き戸がある。故に、入ってきた男子生徒との距離はわずか数センチ。
その男子生徒は純希にとってのもう一人の幼馴染、斎藤明仁。つむじから双葉のような黒髪が生えており全体的に落ち着いた髪型のため、雰囲気も純希のような派手さはない。黒縁眼鏡の奥には、茶色の瞳が輝いている。
明仁は純希を見ると、ホッとしたように笑顔を見せた。
「あっ、真咲。起き……、えっ」
優しい口調で話し始めた明仁は、純希が変な顔で両胸に両手をあてているのを見て瞬きを繰り返す。
そんな明仁を見て、純希はハッとしてすぐさま胸から手を退けた。本当の園原真咲なら、絶対にこんな事はしない。表情も引き締めようとしたが、苦笑いをするのが限界だった。
「なっ……なはは、その……違う!! 誤解だから!! そんな顔すんなって!」
だんだんと怪訝な表情へと変わっていく明仁を見て、純希は弁明しようとする。しかし、明仁は怪しいとでも言いたげな様子で純希に顔を近づけてきた。
「何か、変な感じだ……」
「っ……」
明仁から鋭い目で見つめられ、純希は冷や汗を流す。こういう時、どうするべきなのだろうか。
純希の身に起きた不可思議現象を説明する? もしくは、園原真咲を装って騙しきる?
頭の中で二つの選択肢が浮かび上がったものの、家が隣同士で幼馴染歴十七年の明仁相手に、騙しきるというのは不可能だ。ならば、正直に説明するしかない。
「あっ明仁……。俺……ッ!!」
覚悟を決めて真実を話し始めようとした時。いきなり明仁から押し倒された。最初はそう思ったが、明仁も「うわっ!?」という驚きの声とともに倒れかかってきたため、意図的ではないとわかる。
「何っ!? 今度は何だよ!?」
立て続けに起こる出来事に、純希は戸惑いの声を上げた。同時に、明仁の背後から純希のよく知る顔が出てくる。
十七年間を過ごしてきた、自分自身。紀伊純希が、滅多に出さない涙を溢しながら口を開いた。
「アンタ、誰なの!? 勝手に人の身体使って、何してるのよ!?」
その発言を聞いて、確信する。
紀伊純希と園原真咲は、入れ替わっていると。
純希と真咲の間に挟まれた明仁が苦しそうな声を出した事で、純希と真咲は明仁から離れる。明仁は、ホッとしたように息を吐き出してから純希と真咲を見た。
明仁は、園原真咲から発せられた「俺」、紀伊純希から発せられた「アンタ、誰なの!? 勝手に人の身体使って、何してるのよ!?」という言葉を聞いている。
三人の中で最も優秀な明仁が、幼馴染の身に起こった状況を判断できないはずはない。
「……とにかく、冷静になって話し合おうか」
明仁の落ち着く優しい声を聞いて、純希と真咲はゆっくりと首を縦に振る。そして、いつ先生が戻ってきてもおかしくない保健室から明仁の家まで移動する事にした。
なるべく人に会わない細い道を使って家まで向かう三人。明仁は歩きながら純希と真咲に質問をする。たとえば身長、血液型、誕生日。加えて、幼馴染間でしか知らない園原真咲の事を純希が、紀伊純希の事を真咲が話した。
「確かに、真咲が髪を右下の方で束ねるようになった理由も、純希が人助けを始めたきっかけも……僕たちしか知らない。本当に、入れ替わったんだ……」
信じられなくても、信じざるを得ない。それが伝わってくる明仁の言葉を聞いて、真咲は溜息をつく。
「そのようね。でも、私は誰かさんと違って普通に終業式に参加して、普通に明仁と帰ろうとしていただけよ。……自分の水筒からお茶を飲んだら、急に眠気に襲われたけど」
「いや、最後に普通じゃない事が起こってんじゃねぇか!!」
真咲の発言に純希がツッコミを入れると、真咲は瞬時に純希を睨みつけてきた。眉間に皺が刻まれた紀伊純希の怒り顔を見て、普段自分が怒った時はこんな顔をしているのかと新たな発見をする。
そんな態度の純希が気に食わなかったのか、真咲は自分自身の身体であるにも関わらず純希を両手で突き飛ばした。
「私のせいにしないでくれる!? どうせ、アンタがまた変な事に巻き込まれたんじゃないの!? 自己満足でしかない危険な人助けなんてもうやめたら!?」
真咲はそれだけ吐き捨てると、純希や明仁を置いて先を行く。マシンガンで一気に身体を撃ち抜かれたかのような言葉の数々を受けて、純希は項垂れた。片思いをしている相手から言われるのは、交番の警察官から説教されるより何億倍も精神にくる。
明仁も純希を見て気の毒に思ったのか、純希の肩に手を置いた。
「今日の真咲は、いつにも増してツン全開……だね」
いつデレ期が来るのか。それは幼馴染でもわからなかった。
先を行く真咲からなるべく距離を置かないようについていき、十分後斎藤家に到着する。明仁が鍵を開けてお邪魔させてもらうと、明仁は「お茶を持っていくから、先に僕の部屋まで行ってて」と言った。
明仁の部屋は、二階にある。純希は未だに不機嫌そうな顔をしている真咲とともに階段を上がり、右に曲がって突き当たりにある部屋の扉を開けた。
壁には明仁が推している女性アイドルやガールズダンス&ボーカルグループのポスターが貼られており、入るたびに気恥ずかしくなる。
だが、別に明仁の趣味を否定するつもりはない。故に、何も言わず部屋の真ん中にある小机に向かい、座布団へ腰を下ろした。
真咲も同じようにしたものの純希と目を合わせる気はないようで、そっぽを向いている。
困ったなと思っていると、お盆に麦茶が入ったグラスを乗せた明仁が入ってきた。
「お待たせ」
明仁はそれだけ言って小机にグラスを置く。不機嫌な真咲に対しては、「桃味の飴、持ってきたよ。良かったら食べて」とビニール袋に入った飴を差し出した。
「桃味の飴」にすぐさま反応した真咲は、小さな声で感謝の言葉を口にし、飴を手に取る。
そんな真咲を見て微笑んだ明仁も、座布団の上に座った。そして、純希と既に飴を舐め始めている真咲を見る。
「……さて。なかなか受け入れられない、嘘のような話だけど……純希、真咲。現実から目を逸らさないように、今回の件は改めてちゃんと話し合おうか」
明仁の言葉を聞いて、純希と真咲はしっかりと頷いた。こうなってしまった以上、もう現実からは逃げられない。
純希たちにとって最初の作戦会議が、幕を開けた。