第1輪「運命の日」
ジリジリと肌を焼くように照りつける太陽。ミンミンと聴覚を刺激するどころか鬱陶しく思うほどの鳴き声で自己主張をする蝉。
そんな暑い夏の日に、くるくると跳ねた茶髪と真っ赤な瞳が目立つ男子高校生、紀伊純希はムスッとした表情を浮かべつつとある場所から出てきた。ワイシャツは第二ボタンまで開けられており、緑色のネクタイは結び目がだいぶ下の方にある。
「はぁ……っ、マジでやってらんねぇ……」
疲れた様子を隠そうともせず頭を掻く純希は、深い溜息をついた。ちらりと後ろを向くと純希が出てきた建物こと交番がある。
別に罪を犯したわけではない。寧ろ、良い事をしただけだ。
終業式が行われる学校へ行く道すがら、通勤中の女性が不審な男に引ったくられたのを目撃し、見事鞄を取り返した上に男を気絶させたのだから。
にも関わらず、やって来た警察官に事情聴取だとかで交番まで連れてこられ、事実を話したらしこたま怒られた。
「あのなぁ、毎度毎度危なっかしい事ばっかりして! 相手がただの大した事ない引ったくりだったから良かったが、武器とか持ってたらどうするんだ!!」
「危ない事に関わると、危ない事に巻き込まれる可能性もあるんですからね!」
「それに、高校生はまだ未成年で子どもなの。子どもが大人の世界に首を突っ込むと危ないって事くらいわかるだろう?」
純希の趣味は、人助け。今回の引ったくり犯だけでなく、これまでに万引き犯や轢き逃げ犯、詐欺師など悪い輩の逮捕に貢献してきたため、交番の警察官とは知らない仲ではない。
警察からの感謝状も数多くもらっているが、純希の行き過ぎた人助けは警察官にとって目に余るものがあるようだ。
純希からしたら、良い事をしたはずが怒られてばかりで不満が募る。口を尖らせながら交番を一瞥し、歩き出した。すると、ズボンのポケットに入れていたスマートフォンが振動する。
額から頬まで伝ってきた汗を左手の甲で拭いながら右手でスマートフォンを取り出した。画面を見ると、幼馴染からのメッセージが表示されている。
園原真咲。二人いる幼馴染の中でも気が強く、真面目でどこまでも自分の信念を貫く女の子。純希が五歳の頃から片思いをしている相手である。
『終業式サボるとか何考えてるの!? 人助けしてる暇あるなら受験生らしく勉強しなさいよ!』
ごもっとも過ぎて何も言えないメッセージを見て、純希の気分は更に落ち込んだ。純希は幼い頃から真咲の事が好きだが、真咲の目には純希など幼馴染以下の存在としか映っていないのかもしれない。
純希に笑顔を見せる事はほぼないし、いつも不貞腐れたような表情を向けてくる。片思いが本当に片思いで終わりそうで、純希は溜息をついた。その時。
後ろから、純希の左肩に衝撃が走る。
「いって!」
純希は反射的にそう言ったものの、純希の横を走り抜けていく黒マントを纏った謎の人物は謝る事もせず去っていく。同時に、肩から滑ってアスファルトの上に落ちかけた鞄をその手に持って。
「……えっ? はっ!? ちょっ、待て!! それ、俺の鞄!!」
そう声を掛けたが、黒マントは止まらない。そのまま路地裏の方へと入っていく。
引ったくり犯を捕まえたと思いきや、今度は自分が鞄を引ったくられるとは。紀伊純希の人生に、そんな汚点は残したくない。
「クソッ! 絶対捕まえてやる……っ!!」
そう宣言し、純希は黒マントを追いかけ始める。路地裏に入るとご親切な事に黒マントは待っていて、純希が現れた瞬間再び走り出した。
フードを目深に被っている事から、黒マントの顔ははっきりとわからない。わかったのは首の辺りからちらりと見えた、髪の毛先が黒だという事だけ。
くるぶしまである丈の長い黒マントは完全に謎の人物の容姿を隠し、純希は走りながら舌打ちを漏らす。ここで逃したら、証拠は何もない。その上、黒マントの走るスピードは脚力に自信がある純希でも追いつけないほどだ。
「っ、どこ行きやがった……」
いつの間にか黒マントを見失ってしまい、純希は焦る。周りを見回してみるが、黒マントの姿は見えない。
「こっちじゃなかったの……うおっ!?」
次の瞬間、背中を蹴り飛ばされて純希は前に転がる。慌てて後ろを見ると、純希の鞄を持った黒マントが立っていた。鎖骨あたりにあるマントの留め金には、菊の花の紋章が彫られている。
「っ……何者だ、テメェ!」
そう声を張り上げたが、黒マントは何も言わずに左手を突き出した。純希は身構えたが、突然現れた青色の光が純希の身体を貫いたと同時に身体の動きが重たくなる。
「なっ……!」
驚く純希とは正反対に黒マントは通常のスピードで動けており、スッと純希の目の前までやって来た。そして、マントの下から黄緑色の錠剤と天然水のラベルが貼られたペットポトルを取り出す。
これから何をされるのか何となくわかったが、身体が思うように動かない。黒マントは純希の顔を上に向かせ、無理矢理こじ開けた口に錠剤を落とした。
水を流し込みながら、鼻を塞いでくるからタチが悪い。水を飲み込まなれば呼吸できない状況を作り出されてしまい、純希は耐えきれなくなって錠剤を飲み込む。
口の端から溢しつつ、ペットボトルの中に入っている水を空になるまで飲まされた純希。
黒マントが指を鳴らすと漸く身体の自由が利くようになり、すぐに咳き込んだ。だが確実に怪しげな薬を飲んでしまったため、もうどうしようもない。
「っ……、テメェ、何、が……っ、目的だ……っ」
息絶え絶えになりながら純希はそう言うが、黒マントはそれに答える事なく純希の鞄を投げ捨てて去っていく。黒マントは手に黒色の革手袋をしており、錠剤が入っていたシートも空のペットボトルもマントの下に消えていった。
純希がここで追いかけなければ、黒マントを捕まえる事はできない。
勿論、追いかけたい気持ちは山々だ。しかし、抗えないほどの眠気に襲われ視界がぼやける。黒マントを追いかけられる力は少しも残っていない。
「っ……クソ……ッ」
純希は下唇を噛みながら手を伸ばしたが、そのままアスファルトの上に倒れ込み意識を手放した。
耳にチャイムの音が聞こえ、純希はゆっくりと目を開ける。まず見えたものは、白色の天井。どうやら、純希は室内にいるらしい。記憶を手繰り寄せ、意識を失っている間に誰かがここまで運んでくれたのだろうかと解釈する。
起き上がって右を見ると、ベッドが見えた。そのベッドには見覚えがある。純希が通う高校の保健室にあるベッドだ。つまり、純希は誰かによって高校まで運ばれたという事だろう。こういう時ばかりは、制服を着ていた事に感謝した。
純希は自身が寝ていたベッドから降りる。助けてくれた誰かが近くにいるかもしれない。お礼を言わなければ気が済まなかった。
しかし、立ち上がったと同時に違和感を覚える。何だか、いつもより目線が低い。加えて、足元がスースーする。まるで、ズボンを履いていないかのようだ。
「えっ?」
思考がそこまで至った時、間抜けた声を漏らす。声を出し、下を向いた瞬間……純希は目を見開いた。
今の純希は、ズボンを履いてない。否、この言い方では誤解が生じる。正しく言えば、ズボンではないものを履いていた。
丈は太もものあたりまで。裾がヒラヒラしていて、そこから下は靴下のところまで足が剥き出しになっている。
これはスカートと呼ばれるものだ。男子である純希が一度も履いた事のない代物である。なぜ純希がスカートを履いているのだろうか。おまけに、先ほど自分の口から飛び出した声は、やけに高いし聞き覚えがある。
「えっ、いや……、だって、えっ……!? 待て待て待てっ、待って!!」
驚きを声に出しながら、純希は保健室内にある手洗い場まで走った。再び声を出した瞬間、これは純希の声ではないと改めてわかる。もう既に声変わりはしているはずだが、もう一度声変わりが起こったのかと動揺した。
しかし、手洗い場の上に取りつけられている鏡を見て、純希の思考は完全に停止する。
鏡に映ったその姿は、紀伊純希ではない。
焦げ茶色の髪に桃色の瞳、右肩には黒色のシュシュで束ねた髪が乗っている。制服としてつけていたネクタイは消えてリボンに変わっているし、着ていなかった水色のベストも見えた。
毎日のように見てきた、園原真咲そのものである。
「えっ……、えぇえええぇえええっ!?」
なぜ純希が真咲の姿をしているのか、さっぱりわからない。信じる事もできずに大声を上げ、頭を抱えた。
それでも何とか落ち着こうと、身体を触って現実を受け入れようする。その時、胸のあたりに膨らみがある事に気づいた。
「……っ」
ゴクリと、唾を飲み込む。先ほどまで驚いていたが、一気に冷静さを取り戻した。こんな機会、滅多にないかもしれない。それどころか、一生叶わないかもしれないのだ。少しだけなら、構わないだろう。誰もこの部屋にはいないのだから。
そう勝手に自分を納得させ、膨らみを手で包み込んで感触を確かめる。小さいながらも、半端なく柔らかい。これが神秘かと惚けた表情で天を仰いていると、ガラッという音が聞こえた。