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白い月

作者: 泉 正人

朝だというに西の空の高いところに白い月が見えている。誠はその場に立ち止まって暫くその白い月の姿を眺めていた。

月読命ツクヨミノミコトはどうしているのだろう」

 古事記に登場する月神様のことだった。夜の月はウサギの住処として有名になり過ぎているから、もしかしたら月読命ツクヨミノミコトは、人間からはあまり関心を持たれることのない昼の月に移動してきているのかもしれないという気もしていた。天照大御神の弟神という高位にありながら、あまりその存在を知られていない謎多き神様へと想いを馳せた。

多くの人の出勤の時刻であったから、誠のように空を見上げて月を眺めているような人は誰もいなかった。勤め人は無表情に足早に歩き、学生たちはおしゃべりをしながら学校へと向かう。誠にとっては、こんなに美しい白い月の姿に誰も関心を示さないことはもったいないことのように思えた。神様がそこに存在していたとしても何らの不思議がないような神々しさがあった。

 誠にとって、こうして月を見上げることは、自分の意識を現実から遊離させることができる時間でもあった。身体は地上にあれども、心は空間を超越して月へ向かうことは自由だった。自分の意識が月へと向かう時には、ついさっきまで誠の心を覆っていた日常の苦悩は、一時的ではあったが忘れ去ることができていた。

SNSの中では日々声に出せずに行き場を失って、あてもなくさまよっていた無数の負の想いが錯綜している。無数に飛び交う悲しい負の想いに向けられる人の心の優しさも、また日々無数にSNS上では目にすることができていたのだから、人の心の優しさはまだ残っているのだろうと誠は思った。

誠は最近、一人の投稿者に関心を持っている。「かぐや姫」と名のるその投稿者からはくり返し月の画像が添付されていた。ある時は、まるで本物のかぐや姫がつぶやいているかのように「いつか月に帰りたい」といった投稿もあった。冗談とも思える内容ではあったが、少なくとも自分と同じように、月に向けての深い関心を持っていることが気にかかった。

「いつか月に帰りたいなんて、本気で自分のことをかぐや姫だと思っているのか、いやさすがにそれはないだろう」

誠はいつも心の中でそんな自問自答をしながら、かぐや姫と称する人物の投稿を見るのだった。

自分だって月の姿を見ては、ほんのひと時だけでも現実を忘れているのだから、この投稿者が月に憧れる気持ちは理解できた。

もう少しこのかぐや姫の心情に触れてみたいと思った誠は、何気ない風でコメントを書き込んでみた。

「月は綺麗でいいですよね」と。

 思いがけず反応は、ダイレクトメールですぐ来た。

「分かりますか、月の美しさが」

「ええ、現実を忘れたい時には月を見上げていますよ」

「現実には大変なことが多いです。だから私はずっとかぐや姫でいたい」

「そうですか、私も同じですよ。現実は辛いことばかり」

「何か別のものに姿を変えてみたらどうですか」

 かぐや姫は誠の予想を超える提案をしてきた。

「別のものね、それもいいかもしれないな」

「私は、いつもは人間の姿で人間の心で暮らしていますけれど、たまにかぐや姫に戻ります。たいていは月が綺麗な夜にですけれど」

「そうか、あなたは本当にかぐや姫なのですね」

「そうです、誰も信じてくれないけれど。あなたも信じていないのでしょう」

 誠は、自分の心を試されていることを感じて、すぐに返事ができなくなっていた。確かに今メールをやり取りしている相手が、かぐや姫であろうとは思えなかった。だいたい、かぐや姫という存在自体が古典文学の主人公なのであり、たとえ実在していたとしても、ずっとずっと以前の正確な記録も残っていない存在なのだから。

「確かにすぐには信じられないけれど、あなたが自分のことをかぐや姫だと思っているのなら、私はその考えを否定しませんよ」

 その日のメールでのやり取りはそこで終わった。

 かぐや姫の日々の投稿を見ていると、明らかに二つの傾向がみられた。それは二面性と言っても良かった。ひとつはごく普通の女性目線で日々の日常の様子をとらえた内容であり、もう一つの傾向はと言えば、全く異質な感じがして、同じ人間が投稿しているものとは思えないくらいだった。

 誠は、その両方を区別するために、一方を朝のかぐや姫、もう一方を夜のかぐや姫と勝手に名付けるようになっていた。夜のかぐや姫の投稿内容は詩の形式が多かった。時に難解なものもあり誰かに向けての暗号のようでもあった。


                       

                      ☆



かぐやもまた、メールのやり取りを通して、誠という人物に興味を持ち始めていた。何故なら自分が投稿している、月の話題やかぐや姫といった、少しばかり現実離れした話題に興味を示しているのだから。

「かぐや」というのは、作家としてこの世を生きるためのペンネームだった。

「かぐや姫」と称してSNSに投稿するのは、自分の投稿を見た人が、ほんの少しでも笑ったり、癒されたりすることが目的だった。相手の表情は見えなくても、気持ちの浮き沈みはその人の投稿内容やメールのやり取りを通じて感じ取ることはできていた。作家と称する職業を生業としていることから、人の心の動きには敏感に反応する習慣が身についてもいると思うのだ。

 かぐやのお気に入りの場所は、海の近くにある図書館だった。予約すれば新刊書だって読めるし、最近では電子本の貸し出しも始まっていた。重たくて場所を取る単行本などは、自分で購入するよりも図書館を利用する方法で十分だったし、作品を書くための資料集めのためには、図書館の存在は必要不可欠だった。

「そろそろ新作はできそうなの?」

 かぐやが来たことをカウンターの中から見ていた、顔見知りの司書の紗江が話しかけてきた。

「今ね、新しい試みとして、SNS上での小説の連載を始めたのよ」

「へえ、すごいじゃない。さすがは作家先生ね」

 少し大き目だった紗江の声を気にして、かぐやは思わず辺りを見たが、誰も反応を示す様子はなかった。自分が作家であることが知れたなら、人の目が気になってこの図書館にも気楽に出入りできなくなるそうな気がした。館内のカフェで静かにコーヒーを楽しんだり、読書室の椅子に座ったまま居眠りするという密かな楽しみや、ここへやってくる小さなお友達とのお遊びもできなくなってしまいかねないと思うのだ。

「反応はどうなの」

「毎日イイね!ボタンを押してくれる人が五十人前後といった感じね」

「作家先生の立場としては、多いのか少ないのか、微妙な数字ね」

 紗江は痛いところを指摘してきたが、読者目線の貴重な感想であるとも言えた。

「で、どんな内容なの」

「今回は児童文学という感じかな」

「それはまた意外ね。妖怪変化が登場する時代小説と純粋なファンタジーが専門かと思っていたけれど、ジャンルを広めたのね」

「意識したわけではないのだけれど、自分が書きたいと思ったものを書き始めたら、自然にその方向へ向っていた感じ」

「そうなの、何だか深いわね」

 紗江は丸い眼鏡の奥の大き目の目を瞬きしながら、何度もうなずいた。いかにも図書館勤務が似合っているもの静かで、温厚な紗江の性格はかぐやも好きだった。

 書棚の間を歩いているうちに、ふとかぐやの目にとまった一冊があった。古典全集の中の竹取物語だった。今更自分のことを読んでどうするのだろうという思いもあったが、ふと手に取って見たくなったのだった。

 空いている窓際の席に腰かけて、午前の心地良い光の中でページを繰り始めた。内容は分かっているつもりでいても、改めて読み返す時には、その都度、感想は微妙に違っていた。

かぐや姫を自称する自分ではあったが、もう既に月の世界での記憶は何も残ってはいなかった。

貴族の男性達からの求婚の申し出を、無理難題を課することで避け続け、最後には帝からの申し出までも断るというかぐや姫。そこまでしても月の世界に帰りたかったかぐや姫の心情を思う時、どうして自分は、こうしてまた地上に戻って来たのだろうかという疑問が心に湧いた。

「そう言えば、私を育ててくれた翁もきっとどこかへ生まれ変わっているのでしょうね。どこにいるのかしら、できることなら会ってみたいわ」

 そんな思いが次には浮かんできた。

「翁との再会を果たして、改めてあの頃の私を育んでくれたお礼が言いたい」

そして、そんな思いがにわかに膨らみだした。あれから千年の時が過ぎていたから、翁が、一度かあるいは二度くらい、あの世とこの世の間を行き来していたとしても不思議はないように思われた。

「もしかしたら、翁と再会するために私はまた地上に戻って来たのではないのか」

 という思いがかぐやの心の中には浮かび上がって来ていた。

「かぐやちゃん、お客さんよ」

 不意に呼びかけられた紗江の声で、かぐやの意識は半分夢心地だったところから覚醒した。

「え、私に」

 ここは図書館であるはずなのに、自分に来客だなんて、紗江のほうが寝ぼけているのではないかとかぐやは思った。

「この人が作家のかぐやさんです」

そう言う紗江の横にはスーツにネクタイという、図書館であまり見かけない正装をした、温厚そうな中年の男性が自然な柔らかい表情で立っていた。

「突然に失礼します。先ほどお姿をお見掛けして、作家のかぐや先生ではないかと思い、この方にお尋ねしたところ、そうだというご返事でしたので、是非ともご紹介いただきたいとお願いした次第です」

 怪しい素振りが全く見られない男性だったので、かぐやは館内にあるカフェへ場所を移して、男性の話を聞いてみることにした。

 改めて男性が差し出した名刺には、児童養護施設長 本館詩朗ホンタテシロウと刷り込まれていた。

「何だか図書館で、詩の朗読をしそうなお名前ですね」

 不意に思ったことが口に出てしまったかぐやは小さく笑った。つられて詩朗も笑顔になり、互いの間の空気は和んだ。

「よく言われますよ、仕事を間違えたのではないのかと」

「児童養護施設のお仕事も立派なお仕事だと思います」

 かぐやは、今度は笑わずにそう言った。

「今日は、偶然かぐや先生にお会いできて本当に良かった。子供達が読む本を借りに来たんですけれど、本当に運が良かった」

 詩朗は心から嬉しそうに見えた。

「私は、時々ここへ息抜きに来るんですよ。でも私であることがばれてしまうなら、あまり居眠りはできませんね」

 かぐやは苦笑した。

「施設の子供の中にかぐや先生の童話が読みたいという子供がいまして、こうして借りに来たのです。そこへ丁度お姿が見えたので、これは何かの運命かと思いました」

「私の童話を読みたいという子供さんがいることは嬉しいことですが、ここには私の本は置いていないんですよ」

「そうだったんですか、かぐや先生のように著名な方の本がないなんて不思議な気がします」

「現実の出版となると、様々な事情があって簡単にはいかないものですから」

「事情はお察しいたします」

「ご理解いただいて、ありがとうございます」

「でも、残念だな。子供達ががっかりするな。そうだ、せめて子供達に先生のサインを頂けないでしょうか」

 落胆した表情を見せていた詩朗は、また笑顔になった。かぐやは快くサインを書き終えると、少し間を置いて言った。

「お邪魔でなければ、私が施設をお尋ねして子供達の前で私の童話を読みに行ってはいけませんか」

 にわかには信じられないという様子を見せていた詩朗だったが、かぐやが本心からそう言っていることを理解して、満面の笑顔を見せた。                

 かぐやが児童養護施設を訪れるのは、これが初めてだった。正直なところは、大勢の子供達が共同生活をしている特殊な環境の場所へ行くのに、どのような心構えをもって行けばいいのかという迷いはあった。

 玄関で迎えてくれた詩朗に案内されたのは、ホールと称する比較的広い一室だった。入所している子供達が食事をしたり、集会をしたりする共用スペースなのだろうと思われた。白い壁を背にして、自分の為に準備されたらしい一脚の白い椅子と小さなテーブルが置かれていた。そこに向き合うような形で、三十脚ほどの椅子が三列に整然と並べられている。

 最前列には既に数人の小さな子供達の姿があった。部屋に入ってきたかぐやに気が付くと、声も立てずに自分の動きを視線で追いかけてくるのを感じた。かぐやは子供達の期待の大きさをひしひしと感じ始めていた。ほどなくもう少し年齢の上の子供達が集まり出した。その場に集まった皆の表情が硬いことがかぐやには気になった。

 詩朗に紹介されて皆の前に出たかぐやは、自分の表情までが硬くなっていることに気付いた。その場の雰囲気にのまれたらしかった。用意された椅子に腰かけて、持ってきた自分の作品である童話本を手にすると、少し気持ちが落ち着いてきて、あたりを見回す余裕も出てきた。

 最前列に座っている幼稚園くらいの女の子と視線が合った時に、どちらからともなく笑い出していた。

 かぐやが朗読をしている十分くらいの間、集まった子供達の視線はひたすらにかぐやのほうへ向けられていて、かぐやの声以外には誰の話し声も聞こえなかった。

 読み終えたかぐやが顔を上げると、相変わらず子供達の視線は、真っ直ぐにかぐやのほうへと向けられていた。

「麻未ちゃん」

 詩朗の呼びかけで、前髪を目の上で切りそろえた中学生くらいに見える女の子が、後列から遠慮がちに前に出てきた。寂しそうな眼差しをしているというのが、かぐやの麻未に対する第一印象だった。

「こんにちは」

 明るく話しかけたかぐやに対しても、無表情で

「こんにちは」

 とだけ小さな声で答えた。

「この子がかぐや先生のファンで、先生の本が読みたいというもので、私が図書館へ出向いた訳です」

 詩朗が事の成り行きを説明した。

「まあ、そうだったの、ありがとう」

 かぐやは麻未に対して、精一杯の笑顔を向けたつもりであったが、麻未の表情は和まなかった。

「この子は心に深い傷を負っている。かつての自分と同じような」

 かぐやは確信的にそう思った。

「麻未ちゃん、せっかくのチャンスなのだから、かぐや先生に聞きたいことはないのかい」

 詩朗はそう麻未に促した。

「私も作家になりたいんです。どうしたら作家になれますか」

 相変わらず固い麻未の表情だったが、寂しそうに見えていた眼差しがにわかに力を帯びてきたことから、麻未が真剣にそう思っていることが伺えた。かぐやは少し考えこんだ。

「好きな作家さんを見つけて、その作家さんの書いたものを沢山読んでみて、その後は他の本も読んでみることかしら。そのうち自分らしい文章の書き方も見つかって来ると思うから」

 かぐやが話している間、麻未は驚くほど真剣な眼差しでかぐやのほうを見詰め続けていた。

「あとは、夢を実現するためには強い動機も必要なのよ。どうして自分は作家になりたいのかという問いかけを自分に向けてみること。麻未さんはどうして作家になりたいの」

「私はこのような施設で暮らしている子供達の声に出せない思いを、みんなの代わりに言葉にして表したいんです。本当は泣いている子供だって沢山いるんですから」

「そうなの、それだけ強い思いがあれば、麻未さんはきっと作家になれるわよ。それまで、私も麻未さんのことを応援するから、頑張ってみなさいよ」

 その場に集まった施設の他の子供達は、童話作家先生と親し気に話し始めた麻未のことを驚いたような表情で見詰めている。

「先生の新作の本が読みたいんですけれど、今度いつ出版されますか」

「ありがとう、できている作品はいくつかあるんだけれど、出版の予定は立っていないわね」

「そうなんですか」

 麻未は残念そうな表情になった。

「麻未ちゃんは、どうして私のようなほとんど無名の者が書いた小説を読んでくれるの。著名な作家先生は大勢いるのに」

「かぐや先生の書く物語は優しいから」

「ありがとう、自分ではなかなか気付いていないかもしれないけれど」                

「私、今まで誰かに優しくするっていう意味がよく分からなかったんです。でも、かぐや先生の物語を読んでいると、友達とか周囲の人に対して思いやりの心を持って接することが、優しくするっていうことなのかなって思うようになってきました」

「そうよね、相手がどうしたら喜んでくれるだろうかとか、どうして欲しいと思っているのかを想像しながら行動することなのかもしれないわね」

「私もいつか、かぐや先生のような優しい物語を書けるようになりたいんです」

詩朗が子供達に向かって問いかけた。

「他にかぐや先生に質問がある人はいませんか」

 すぐに一人の手が上った。真ん中くらいの席に座っていた小学校高学年くらいの女子だった。詩朗に指名されて立ち上がった女子はどこか真剣な表情に見えた。

「先生の物語の中に出て来る人や動物達はみんな幸せそうです。なのにどうして私は幸せになれないんですか」

 女子の言いたいことがすぐには理解できずに、かぐやは言葉に詰まった。少しだけ静かな時間が過ぎた。自分の考えが整理できたと思ったかぐやは子供達に向けて答えた。

「本当はね、私自身はこの世での幸せは感じていないのよ」 

 子供達の表情は驚きと共に、かぐやの次の言葉を待っているようだった。

「この世では苦しい出来事が多いから、せめて物語の中では幸せになりたいと思って物語を書いています。物語の中では、この世の苦しみから解放されることができるのよ。物語の中に出てくる人達や動物にも幸せになってもらいたいから、私はみんなが幸せになる物語を書いています」

 質問をしてきた女子は、初めて笑顔を見せた。

 また次の手が上っていた。今度は男子だった。

「先生はさっき、夢を持つことは大事だと言ったけど、いくら夢があっても叶うかどうかは分からないですよね」

 男子の言葉はもの静かではあったが、強い思いがこもっているように感じられた。

「そうね、確かに叶うかどうかは分からないけれど、夢を持っていたほうが楽しいじゃない」

「僕も夢を持ってもいいんですか」

「あたり前じゃないの。君も自分の夢を持って下さい。私は応援するから」

 いつしか子供達は、次々と素直な感情をかぐやに向けては、その答えを求めるようになっていた。

「先生の夢は何ですか」

 そんな問いかけもあった。

「今の私の夢はね、いつか月に帰ることよ」

 賑やかだった子供達は、一瞬静まりかえった。

「どうやって帰るんですか。スペースシャトルですか、ソユーズですか」

「どちらでもないわ。私は、月の光に導かれながら、天の薄衣を着て、舞いながらゆっくりゆっくり、楽しみながら月へと向かうのよ」

「自分で月まで到着できるんですか」

「大丈夫よ、その時は月にいる龍が迎えに来てくれることになっているから。行く道を月の光で照らしてくれるのよ」

 そこまで言うと、子供達の表情にかすかな羨望が浮かんできた様子を見て、かぐやは嬉しくなった。


                    


   ☆



ある日のかぐや姫の投稿には、SNS上での小説の連載を始めるという、不特定多数へ向けての通知がなされた。その日からは予告通りに、毎日ほぼ同時刻に限られた文字数での小説の連載が始まった。

誠はかぐや姫の投稿する連載小説を毎日読んでいた。かぐや姫の内面を知るためには、それが一番良い方法だと思ったからだ。

「とっても面白い小説ですね」

 誠はダイレクトメールでそう送ってみた。返信はすぐに来た。

「ありがとうございます。恥ずかしながら、これでも物書きとして多少の収入を得ている者ですから」

「本物の作家先生だったのですね」

「かぐやと言います」

「夜は、詩も投稿されていますよね」

「私の仕事は作家ですけど、たまには編集者の想いを離れて自分の書きたいものを書きたくなったの。それで子供向けの物語の連載や、夜には別人の顔で、かぐや姫の名前を借りて、私自身の心の中の想いを綴ってみたのです」

「そうですか、私は毎日、かぐや先生が書かれる物語を楽しみに読ませて貰っていますよ。読んでいると何だか元気が出てくるのです。現実は本当に毎日が大変ですけれど、物語の世界に入り込んでいる間は、そんなことも忘れられる気がしますよ」

「皆さんがそう言って下さるから、私は物語をつむぎ続けることができるのです」

 そんなかぐやの言葉を見て、作家先生にしては謙虚な姿勢だと誠は感じた。日々SNS上には、作家志望者の作品宣伝が溢れていた。だからと言って、誠の関心がその中の誰かの作品に向かうことは稀だった。そんな時に、かぐやと称する人物の書いた物語が、誠の心に留まったのだった。朝のかぐやと夜のかぐやで代弁されるような二面性があり、月へ寄せる深い関心を持ち、更には、自分のことをかぐや姫と称する内面の不可思議さに興味を持ったのだ。

「相談があります。のっていただけますか」

 それはかぐやから誠にむけた思いがけない申し出だった。現役の作家であることも分かって、どこか自分とは異質な世界に生きているような距離感を感じはじめていたかぐやから、思いがけない相談を持ち掛けられたことで、誠は嬉しさと同時に軽いプレッシャーのようなものを感じた。自分に応えられるだろうかという思いだった。

「内容によってはのりましょう」

「あなたはきっと力になって下さると思っています」

 かぐやからの申し出は思いがけないものだった。少部数で良いので本を作って欲しいというものだった。誠にとっては、れっきとした作家先生からの仕事の依頼であったので、ありがたい話であったから断る理由は何もなかった。

ただし、依頼についてかぐやからは、一つだけ条件が付けられていた。誠がその条件をのんでくれるなら、正式に仕事として依頼したいというものだった。そのただ一つの条件とは

「プロフィールで拝見したんですけれど、本作りの他にも、誠さんってご自分でも物語を作られているんですよね」

「ええ、かぐや先生のようにプロとして活動している訳ではありませんけれどもね」

「よかったわ、これはお願いではなくて、提案なんですけれど」

 条件と言っていた割には、かぐやは丁重な姿勢を見せた。

「何でしょうか、私に出来ることでしょうか」

「ええ、誠さんならきっとできると思います」

 誠は、かぐやの次の答えを待つつもりで返信を控えた。ほどなくかぐやからの次のメールが届いた。

「あなたに、物語を書いて頂きたいのです」

 あまりにも唐突なかぐやからの提案だった。

「かぐや先生は現役の作家さんなのに、どうして私が」

 誠には事情が全くのみこめなかった。

「あなたに書いて頂きたいのは、かぐや姫の物語なんです」

 誠はますます事の成り行きが理解できなくなっていた。返信をためらっていると、かぐやからの追伸が来た。

「いつか、私が自分はかぐや姫だと言った時に、あなたはそれを否定することはなかったでしょ。だから、あなたなら、現代のかぐや姫の物語が書けると思うのです」

 確かに否定はしないとしても、実際のかぐや姫の姿を見たことも、見たことがあるという情報さえも聞いたことがないのに、どうやって現代に蘇ったかぐや姫の姿をイメージしたらいいのかが、全く思い浮かばなかった。

 誠が尚沈黙していると、決心を促すかのようにかぐやからの次のメールが届いた。

「ごめんなさいね、唐突に意味の解らないお願いをして。失礼でしたね」

「失礼なんてことはありませんよ。ただ、自分の中では気持ちの整理がついていない感じです。作家の先生から物語の制作を依頼されるなんて」

 誠にとっては、夢の中をさまよっているかのような現実離れした話にも思えた。

「きっと驚き、不審にも思っていることでしょうね、でも私は本気です」

 この最後の言葉で、かぐやがいかに真剣にこのことを考えているのかということが、誠にも理解ができた。

「でも、どうして立派な作家であるかぐや先生がお書きにならないのですか」

 誠は、率直な疑問をかぐやに向けてみた。

「今は多くを話せません。そのあたりの事情も含めて受けて頂ければありがたいのですが」

 心の迷いが消えたわけではなかったが、そうすることがより良い選択のような気がして誠は返信した。

「分かりました、やってみましょう。それでは、私が物語を完成させるご希望の期日はいつ頃までに」

「かぐや姫が月に帰る時までに」

「古典の「竹取物語」の中でのかぐや姫の昇天は、旧暦の八月十五日、中秋の名月の日と記されています。その日付けを今年のカレンダーに重ね合わせると、九月の十三日ということになるのです」

確定的にそう告げたかぐやの言葉からは、一片の迷いも感じられなかった。

 


                   ☆



その日から誠は、かぐや姫の物語をつむぎ続けた。現代のかぐや姫との約束を果たすために。そして、その過程においては、誠の心の中には、様々な想いが浮かんできていた。書き始めるにあたって改めて目を通した竹取物語からは、以前とは違った感想も持った。

学生時代の教科書で見た折には、かぐや姫という女性は、名だたる貴公子五人から求婚されていながら、とてもできそうもないような無理難題を突き付けて、五人の貴公子達のことを時には世間の嘲笑の的におとしめ、時には生命の危険にまで合わせてしまうような危ない女。あきらかな玉の輿と言える帝からの求婚までも断るという理解不能な女。育ててもらった翁の引き留めを振り切って、この地上とは異なる優雅な暮らしが待っているのであろう天界へと帰ってしまう冷たい女。などという悪女的な印象を持ったことも事実であり、名作文学と言われながらも、子供達にかかわるイベントなどでは、他の童話に比べてあまり取り上げられる機会がないことも、そんな理由からかもしれないと、自分なりの解釈もしてきたものであった。

あれから長い時間を経た今、改めて読んでみた竹取物語は、誠の心に以前とは異なる印象を残した。

「好きでもない男達から言い寄られたとしても、断る自由はあるだろう。たとえ玉の輿であっても、自分の生きる価値観と相いれないのなら、それを断る自由もまたあるだろう。逆に考えれば自分の人生だと言っても、全てが自分の意思通りにいくものでもないだろう。あの時月に帰ることが月読命ツクヨミノミコトの意思だとしたら、いくらかぐや姫だとしても逆らえなかったことだろう」

 といった感じで、かぐや姫に対して同情的な感情を持っている自分自身の心の変化に気が付いた。それは、多分自分自身がこの世で経験してきた、思うようにはいかなかった出来事を振り返ってみた時に初めて理解できる、かぐや姫の深い感情なのだろうと思うのだった。

 SNS上のかぐや姫の投稿は、朝も夜も続いていた。毎日決まった時間に、不特定多数のフォロワーや読み手に向けて、自分の感情を発信し続けることには、膨大なエネルギーを要することだろうと誠は想像した。原則的に顔が見えないSNS上においては、そこにあげられた言葉が全てなのである。秘めた想いも、感情も限られた文字数の中に込められているはずであった。

 誠は、言葉の中に込められているであろう、現代のかぐや姫の心の中を感じ取ろうと試みた。

 朝の投稿は、相変わらず只々明るい内容が殆どだった。明るくて人の好いかぐや姫の姿を演出していた。

 一方、午後十一時から午前零時にかけての夜の投稿は、極めて内省的な内容が多く、文字数も朝の投稿に比べると格段に少なかった。多くは詩形式をとり、意識的に韻を踏むこともまた多かった。それは、

「誰か、言葉の中に秘められた本当の私を見つけて」

 という特定の相手に向けた謎かけであるかのようにも思えた。本当の自分を秘さなければならない“自分”とは何者なのだろうかと誠は考えた。様々な憶測を経て行き着いた結論は、あのSNS上のかぐや姫は、本当に月の世界から来たかぐや姫なのではないのかという思いであった。

「あり得ない、それは」

 誠は、我に返って、そう否定した。

 誠がつむいできた、現代のかぐや姫の物語は中盤にさしかかっていた。この先どのように展開させて、最後をどのように完結させるのかという点では、まだ誠の心は固まってはいなかった。

 SNS上の自称かぐや姫をただの人だったということにするのか、古典の竹取物語を踏襲して、旧暦の八月十五日の月夜に再び昇天させるのか、あるいは、全く異なる第三の結末を迎えるのか、誠の心には未だその時の情景は浮かんできてはいなかった。

 誠は、ふと思い立って“作家 かぐや”とネット検索をしてみた。どうして、もっと早くに検索しなかったのだろうかという、自分の心に向けての率直な疑問も湧いてきた。その答えはすぐに思いついた。

 誠がネット上で出会って関心を持ったのは、顔の見えない、影のようなかぐや姫という不可解な存在なのであって、世間から普通に認識されている作家ではなかったということなのだ。

検索の結果はすぐに出てきた。作家としてのかぐやの姿は誠の想像を超えていた。長い黒髪と白い肌に少し赤い頬、童女の愛らしさがそのまま年齢を重ねたかのような不思議な表情だった。言葉を変えれば、この世に存在していそうにないような様子とでもいうのだろうという気がした。



                      ☆


「私に本作りを依頼するにあたって、かぐや先生が条件を付けた理由は、私に物語を書くきっかけをくれようとしたのでしょう。そうすることによって、私自身の心が救われていくことをあなたは知っていた。そんな優しい心を持つ人は、きっとかぐや姫その人に違いないと、今はそう思っています。何故なら、翁との別れを泣いて惜しんだかぐや姫なのですから」

 現代のかぐや姫の物語が完成したことの報告と共に、誠はこのようなメッセージをかぐやへと送った。

 数時間後には、かぐやから早くも読後の感想が届けられた。

「物語を完成させて頂いてありがとうございました。早速拝見いたしました。私が思っていた通りの方でした。そして、物語の内容は私が思っていた以上の出来ばえでした」

「ありがとうございます。かぐや先生とメールにての様々なやり取りを通して、具体的なかぐや姫のイメージ作りができたことで、完成することができました」

「物語の完成期限はかぐや姫が昇天するまでという私の我がままな申し出に対して、誠さんはちゃんと期限を守って完成させて下さいましたね」

「間に合って良かったです」

物語を書き終えた誠にとっては、このかぐや姫が何らかの使命を持って、あの月読命から遣わされてきたとしても、決して否定するべきことではないような気がするのだ。この地上に来てはみたものの、あまりにも悲惨な地上の現実を目の当たりにして、夢のようだった月の世界へ帰りたくなったとしても、何らの不思議もないような気がするのだから。

「私の一方的な提案に対して、真摯に取り組んで下さった誠さんのご厚意には、心から感謝しています。そこで、私からもう一つ提案があるとしたら、あなたは受け入れる気持ちはありますか。受け入れるかどうかは、あなたの意思に任されています」

 かぐやは、再び謎かけのような問いかけをした。

「受け入れることができる内容なら、受け入れましょう」

 ここまで来たら、かぐやの更なる提案を断るつもりはなかった。

「そして、またしても私のわがままなのですが」

 そう意味ありげな前置きをしてから、かぐやは次のメールを送って来た。

「今後の本作りの打ち合わせの為に一度お会いしたいのです。勿論、必要な旅費はこちらで用意いたしますから、お時間の都合をつけて頂ければありがたいことです」

 この申し出には、誠も驚いた。まさかそんな内容であろうとは予想していなかったから。すぐの返信はためらわれた。一時間後、誠は返信をした。

「場所と日時はどうなりますか」

「待ち合わせ日は、月遅れ盆にあたる八月十五日の午前十時、場所は、琵琶湖東岸の高月町にある渡岸寺ドウガンジの本堂の中で」というものだった。

「分かりました、その提案を受け入れましょう」

「あなたはきっと受け入れてくれると思っていました。ありがとうございます。これできっと全てがうまくいくと思います」

 かぐやは、最後にもまた謎かけのような言葉を残したが、これ以上言葉の意味を尋ねるつもりは、誠にはなかった。それよりも、作家であるかぐやと面会できることが、思いがけず決まったことに対する期待が心に広がりつつあった。

 渡岸寺へは、二年ほど前に誠自身も一人で行ったことがあった。平安時代初期に製作されたとされる、国宝の十一面観音様にお会いするためだった。人がこの世に生を受けて、苦しみながらも生きていく意味を尋ねたくなったからだった。収蔵庫の中で初めてお会いした観音様の姿は、生きて魂がこもっているかのようであり、予想以上に美しく、そして優しさと気品に満ちていた。これほどに人の心を惹きつける観音様が、この世に下生して下さっているのなら、この世というものも、そんなに悪い所ではないのかもしれないと、その時に誠は感じたのだった。

 そして、更にもう一つ感じたことは、もしかしたら、この優美な姿の観音様とお会いしたのは、これが初めてではないのではないかという、心の奥底の深い所の記憶の中に浮かび上がるような不思議な感情だった。この度、かぐやから渡岸寺という場所の指定を受けたことで、二年前の高揚した感情が鮮明に思い起こされて来ていた。




                     ☆




 かぐやとの待ち合わせの日、誠は少し早めに琵琶湖東岸の長浜市内の宿を後にした。朝の青空には、誠がここに来たことを歓迎してくれているかのような、白い月の姿が浮かんでいた。誠は、いよいよ現代に蘇ったかぐや姫と出会う時が来たことを実感し始めていた。

 のどかな田園風景に囲まれた渡岸寺の門前に立った時は未だ九時だった。かぐやが指定してきた本堂は、境内を真っ直ぐに歩いた突き当りに見えている。二度目になる訪問を楽しむように、ゆっくりと境内を歩くと、何だか本来の自分を取り戻せるような穏やかな気持ちになってきた。

 国宝の十一面観音様との再会も待ち遠しかったが、誠は古い趣の本堂の方へと向かった。靴を脱いで階段を上がると、ご本尊である阿弥陀如来坐像に拝礼した。誰もいない静かな空間で、かすかに漂う香のかおりを感じていると、現世の苦悩を終えて、このまま極楽浄土へ連れて行ってもらえそうな錯覚さえしてきた。

 ほどなく、木の階段を踏む小さな足音と、何かが近づく気配を誠は感じた。振り返ると、そこにいたのは一人の小柄で華奢な感じの女性だった。つやつやと輝く長い黒髪、大きな瞳、白い肌に際立つ赤い唇、女童子のようなあどけない顔立ち。瞬間、誠はこの世のものではない者と対面している錯覚におちいるほどだった。そしてすぐに、この人物がかぐやであろうことを思った。

 階段を登り切ったかぐやと誠の視線が合った。

「誠さんですか」

「そうですが、かぐや先生ですね」

「はい、私がかぐや姫です」

 かぐやはSNS上の名前を名乗った。現役の作家が、自分の名前を古典の主人公であると名乗った面白さに対して、誠は笑顔で応えた。

「この度は、私の我がままにお付き合いくださって、心から感謝いたします」

 かぐやは丁重にそう答えた。

「こちらこそ、かぐや姫にお会いできて光栄です」

「怪しい奴だと思ったのではないですか」

「怪しいと思ったら、ここまで来たりしませんよ」

「それは良かったわ」

「確かに良い場所です。由緒ある場所ですし、私は一度来たことがありますから」

「そうだったんですか、来たことがあるのですね」

「ええ、国宝の十一面観音像に会うために来ました」

 何故か、かぐやは黙ったままだった。沈黙の中で、十一面観音像が安置されている収蔵庫へと向かう観光客の話し声が本堂の外から聞こえてきていた。

「私は竹取物語の舞台は、この辺りだったのではないかと思っています」

 あまりにも唐突なかぐやの言葉を聞いて、誠はかぐやの顔を改めてまじまじと見詰めた。かぐやは言葉を続けた。

「この辺りには、この渡岸寺の十一面観音像が作られる少し前に、幻の都と言われる信楽宮が置かれていた時代があるのです」

「竹取物語で読んだけれど、かぐや姫は天の羽衣をまとった瞬間にこの地上での記憶はすっかり忘れてしまったはずではないのですか」

「その通りです。私はこの世で暮らしていたことの記憶は失いました。でも翁との別れを嘆いていた私の姿を不憫に思った月読命様が、千年後の今、こうして再び私をこの世に戻してくれたのです」

 誠にとっては、にわかに信じられる話ではなかった。自然な形で、誠の視線は阿弥陀如来像の方へと向いた。こんな信じられないような話を、限られた自分の思考の範囲で判断することは所詮無理だということを悟ったのだった。再び二人の間には沈黙が始まっていた。

十分ほどたった時に、先に言葉を発したのは、誠のほうだった。

「あなたは本当にかぐや姫なのですか」

 それは誠にとっては疑いの言葉ではなく、真実を知りたいという思いであった。

「それを決めるのは、あなたの心ではないでしょうか」

 かぐやの言葉は、何ものにもとらわれないような清々しい響きがあった。

「もう一つお聞きしたいことがあります」

「何でしょう」

「どうして私が、現代のかぐや姫の物語を書けると思ったのですか。もし書くことができなかったらどうなっていましたか」

「あなたとメールでお話していると、この人ならきっとかぐや姫の物語を書けると思いました。それに、あなたでなければ、現代に生きるかぐや姫の物語を書くことはできないとも思いました。もし、あなたが書けなかったなら、間もなくやって来る旧暦の十五夜、今年の九月十三日をもって、私がこの世に生きたという記憶を残す人は誰もいなかったことでしょう」

 ここまではっきり言われると、誠は言葉を無くしていた。

「そろそろ、十一面観音様の拝観に行きませんか」

 かぐやにそう促されて、誠は我に返ったような気がした。ほぼ二年振りで再会した十一面観音像は、以前にも増して神々しくなったように誠には思えた。

「十一面観音様は、今日こうして私達が再会できたことをきっと喜んでいると思いますよ」

 かぐやはいきなり核心を突くようなことを言ったが、誠にとっては、まだ気持ちの整理がついてはいなかった。

「そんなものですかね」

 かぐやは笑うだけで、それには何も答えなかった。

 二人は、他の観光客に交じって、それぞれ思い思いに国宝の観音像と対話する時間を過ごした。収蔵庫の出口で再び合流した時にかぐやが尋ねた。

「今日の飛行機でお帰りになりますか」

「いえ、今日はもう一度長浜の宿に泊まって、明日帰ります」

「良ければ、この近くのお寺を案内しますが、どうですか」

 かぐやは夕暮れが近づいた頃、安土城の近くにあるかくれ里の異名を持つ教林坊へ案内すると誠に告げた。田園を抜けて門前で車を降りると、既に門前から参道にかけてオレンジ色の淡い光のライトが燈されていた。歩き始めた頃には足元はまだ明るかったが、奥の庭園に着くころには、辺りは薄暮に包まれて来ていた。小堀遠州作とされる寺院の広い庭は散策路があり回遊できるようになっていた。道なりに木々の間を抜け、いくつかの勾配を越えるとほどなく青緑色の孟宗竹の竹林の前に出た。下からの光を受けた竹林はその姿を青白く浮かび上がらせていて、幽玄の世界が広がっていた。

 立ち止まったかぐやは、

「この場所を見せたかったの」

 振り返りながらそう言った。そして指さした竹林の上には、薄暗がりの空に、昇り始めた柿色の円い月の姿が見えていた。

「まさに、竹取物語の世界ですね」

 誠の言葉に、かぐやは黙って頷いた。誠の目には、月に向かって舞うように登ってゆくかぐや姫の姿が見えるような気がした。

「この場所に来てもらったのは、あなたに渡したいものがあるからです」

かぐやは幽玄な薄明りの中で、ちょっといたずらっぽく笑って見せた。かぐやはバックの中から封筒を取り出した。

「この中には既に私が書いたかぐや姫の物語が入ったUSBメモリーが入っています。そしてこれからあなたに追加して書いて欲しい物語の概要が入っています。ただし、今は読まないで」

「いつならいいんですか」

 誠にはかぐやの言うことがさっぱり分からなかった。

「十五夜が過ぎて、その後に私のSNSへの投稿が途絶えたなら、その時はこの封筒を開いて中を読んでみて下さいね。既に私が作った物語と誠さんが作ってくれた物語とを合わせて、そしてこの中に書かれた新しい事実を加えて現代のかぐや姫の物語を完成させて下さい。そして本として残すことで、後世の人に託して欲しいのです」

 手渡された封筒には封印がなされていた。

「私ね、白い月も好きなんですよ」

 かぐやは突然そんなことを言い出した。

「夜の月は沢山の人が関心を持って見詰めるけれど、朝とか夕方に見える白い月に関心を示す人はあまりいないでしょう。でも白い月もまた幻想的だと思うのよ」

「私も白い月は好きですよ、誰にも関心を寄せられなくても、実に堂々として見えるから」

「それは良かったは、これからは、白い月を見かけたら私がここにいてこうして話していたことを思い出して下さいね」


 

                    ☆

 


誠が近江への旅から帰った一月後、旧暦の十五夜にあたる九月十三日の夜を迎えていた。誠は、外に出て夜空を見上げ続けていたが、空は黒い雲に覆われていて、雨粒が落ち続けていた。劇的なかぐや姫の昇天の夜だというのに、かぐや姫が向かって行くべき月の姿さえ見えていないことは、ことのほか残念に思えた。もしかしたら、この暗さなら昇天は中止になるかもしれないと、心の中ではそれを密かに望んでもいた。竹取物語に登場する翁の心境が、この日初めて実感として理解できるような気がした。

今年は中秋の名月は見られないと諦めていた夜半過ぎ、ふと窓の外へ目を向けると、黒い雲にまだ半分ほど隠されてはいたが、黄金色に輝く大きな月が確かに漆黒の夜空に見えていた。窓を全開にした誠は、夜空を見上げた。頬を風が撫でていくのが分かった。確かに風があるのだ。ゆっくりではあったが、大きな雲の切れ目が移動しているのが見えた。その時、明滅する蛍の光のような優しい小さな光が揺れながらゆっくりゆっくり登っていくのが見えたような気がした。それはこの世に生まれて初めて目にした、不思議な光であるような気がしていた。かぐやが自分の望みを果たしたのだとそういう確信が心に広がった。そして理由のわからない感動がこみあげてきた。

朝と夜に毎日続いていたかぐや姫の投稿は、その翌日から更新されることはなかった。

誠は、かぐやから託された封筒を開けてみた。中には、USBメモリーと一緒に数枚の便箋が入っていた。かぐやの手書きの丁寧な文字で書かれていたのは、次のような内容だった。



竹取物語の翁にまつわる後日談


中秋の名月の夜にかぐや姫が薄衣を纏って、月の光に導かれながら、まるで優雅に舞うかのように静かにゆっくりと天に向かって登ってゆく姿を泣く泣く見送った翁と媼。ほどなく媼は病の床につき、かぐや姫のことを思いながら黄泉の国へと旅立って行きました。

かぐや姫と媼の両方を失った翁は、深い失意の中、毎日、渡岸寺の観音堂へ参りながらかぐや姫と媼の幸せを祈り続けていました。そこで向き合う十一面観音様の表情は慈悲に溢れ、翁は自分の心の内の全てを話すことができるような気がしていました。

日が経つうちに、翁の願いは、もう一度かぐや姫と再会と再会したいという願いに変わっていきました。それが叶うのが来世であっても、その先の来世であってもいいから、もう一度愛らしかったかぐや姫の姿を自分の目で見たいという願いでした。

そんな日が三年間続いたあと、翁も媼の迎えを受け入れて、黄泉の国へと旅立って行きました。それから百年の時が過ぎた頃には、この辺りに、かぐや姫という謎の姫と翁、媼がいたことを知っている人はもういなくなりました。

千年の時が過ぎた時、月読命は、翁がこの世に転生したのを見ていて、機をみてかぐや姫もまたこの地上へ下ることを許したのです。翁と再会するためだけに。月読命はかつてかぐや姫を月に呼び戻したことによって、かぐや姫自身は勿論、翁や媼にまでも深い悲しみを与えてしまったことを後悔していました。

かぐや姫は、それが自分の使命であるかのようにこの地上で翁のことを捜しました。この広い世界の中でたった一人の翁のことを。

既に地上に下りてから三十年を超える月日が過ぎていました。それでもかぐや姫は翁を捜すことをやめませんでした。自分でできる全ての方法を使いながら。

ある時、SNS上でのかぐや姫のの書き込みに関心を示す人が現われました。でもその人は翁ではありませんでした。かぐや姫には分かるのです。また別の人も関心を持ちましたが、それは一人の人間としての関心でしたから、翁ではないことにかぐや姫は気付きました。

また暫くの時間が過ぎました。かつてかぐや姫に求婚した帝を含めた数と同じ六人の人違いを重ねた七人目でした。

「あなたは本当にかぐや姫なのですね」

 そう書き込んだ男性が現われたのです、ついに。かぐや姫はその男性こそ捜し続けてきた翁であることを確かめるために、自分達がかつて出会い、暮らしていた場所で会うことにしました。あの時、素性の知れない私を愛情いっぱいに育んでくれたお礼を言うために。そうすればきっと心残りなく、月へ帰ることができるでしょうから。

誠さん、きっとあなたは、月への旅行が夢ではなくなったこの時代に、いったいどうやって月に帰るのかと考えていることでしょうね。子供達は私に尋ねましたよ

「スペースシャトルかソユーズで行くのかと」

 答えはどちらでもありません。月に帰るためにはこのどちらも必要ないのです。必要なのは、人の心の痛みが分かる優しい心なのです。そして、かぐや姫は見つけました。人の心の痛みが分かる優しい心を。月の輝く夜、夢の中で会うことができるのです。

かぐや姫の魂はもうすぐ訪れる十五夜の夜に、その優しい心の持ち主の力を借りて月へと登っていくことでしょう。そしてかぐや姫の魂の抜けた肉体は、自分がかぐや姫であった時の記憶を失います。

 そこで誠さん、あなたへのお願いがあります。こうしてかぐや姫と出会ったことや一緒に月の話をしたこと、かつて共に生きた近江の地での再会を果たしたこと、そして現代のかぐや姫が本当に月に帰って行ったことを物語にして欲しいのです。現代のかぐや姫が確かに存在していた証人として。

そして、子供達に聞かせてあげて欲しいのです。かぐや姫が翁との再会を果たして、とても幸せな気持ちで月に帰って行ったことや、月に帰る協力したのは、スペースシャトルでもソユーズでもなく、人の心の痛みが分かる優しい人の心だったのだということを。

 翁がまたいつか転生した時には、かぐや姫はまた月読命にお願いして、きっとまた月から下りて来ます。その時には新しいかぐや姫の物語をまた一緒につむぎましょうね。

ありがとう また会いましょう


月夜の光に導かれ

薄衣を纏いて

舞を舞うが如く

月に登りし

我が名は輝夜


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