愛しきブランよ
明るい金の髪はその性格の明るさを写したように。美しいエメラルドグリーンの瞳は海のさざ波のように人々のあいだを揺れて。
私は彼が渡り鳥と言われるような人間だと知っていたのに。止まり木から止まり木へと居心地の良い場所を求めてヒラヒラと飛び去ってしまうと知っていたのに。
どうしてそれを、仕方のないことだなんて諦めることができたのだろう。
どうしてそれでもいいと思ってしまったのだろう。
どうして見なければないと同じことだと思えたのだろう。
こんなにも痛くて辛いことならば、初めから捨ててしまえばよかったのに、どうして私は与えられたそれをひと束の藁のように握りしめてしまったのだろう。
それでも、それでも、私はあなたの隣が欲しかった。
だからこの痛みは、あなたが私に与えた罰なのかもしれない。
あなたを独り占めしようとした浅ましい私への、罰。
「おかえりなさい、スワン」
越冬することで有名な鳥の名を冠した彼はとっぷりと夜も更けた時間に帰宅した。
「まだ……起きていたのかい?」
面倒そうに、言葉だけは心配する様子を見せるなんて器用なことをしながらスワンは私にコートを差し出した。
その慣れた手つきにこのやりとりが初めてではないことはわかるだろうか。
「私は、妻ですから」
「……そうだね、君も早く寝たまえ。僕も寝るとするから」
念を押すようにお互いわかりきったことを言うと彼は至極鬱陶しそうな顔で答えた。私たちの寝室は夫婦であるが違う。
そもそも私たちの関係は歪に始まったこともあり、真っ当な夫婦とはとても呼べないものだった。
町長の息子という町一番の力を持つが女遊びの激しい彼と、父が商売で不正を働いために捕まった犯罪者の娘の私。
もともと幼馴染で面識のあった私たちを権力者であるスワンの父が纏めて厄介払いに結婚させたというのが事の始まりだった。
事件以降、村八分にされていた私はともかく婦女子方に人気のある彼が私と結婚すると決まった時は、たくさんのため息とえげつない量の石が私に降りかかったものだ。もはや懐かしい思い出だけど。あの時できた額の傷は半年以上過ぎた今でも残っている。
もとより貰い手もなかったことだし、現状は貰われているし、自分の容姿に絶対の自信があった訳でもなし、前髪に隠れた傷を思い出すことは少ない。
……スワンが時折その傷を見つけては嫌そうにする時以外は。
スワンという男は根っからの女好きだった。赤ん坊の頃から女性を追っかけていたというのだから筋金入りといえよう。私の母が昔教えてくれた。
だから彼はどんな女でも声を荒げて怒ったりしないし、ほかの男のように無駄に威張りくさった態度も取らない。どこまでも優しく甘く丁寧だった。
けれど、そのさまを遠くから見ていた私は彼の「女」というカテゴリーから外れた唯一の人間であった。
性愛的な意味合いはもちろんない彼の母親ですらフェミニストぶりは発揮されるというのに。
私に対して壁を一枚隔てているような、目の前にいるのに見えていないような、人形に話しかけているような態度に気づくのは簡単だった。だって私にだけ素っ気ないのだから誰だって気づくし、実際住民のほとんどが知っていた。
私のことが嫌いなのだ。女好きで名うてのたらしであるはずの彼は、冴えないどこにでもいるような容姿の私が、嫌いでしかたないのだ。
けれど可哀想な彼は自分の浮ついた性分のせいで天敵と言える私なんかと結婚しなくてはならなかったなんて。笑える話だ。私は笑えないけど。
そんな始まりで、そんな関係だったとしても。
馬鹿でまぬけな暗い町娘のメアリーが、町で一番の人気者であるスワンの伴侶という権利を得たのだ。
私は嬉しかった。だってあんなに綺麗で美しくそして素敵な男性と結婚できたのだから。
私たちがお互いこんな立場にいなければありえなかったことだ。
なによりも。私は愛する人の、もっともそばにいられるのだ。その権利は一夫一妻制のこの国で私だけに与えられたもの。
私にとってスワンはそれこそ御伽噺の王子様だった。幼い頃から。嫌われていると知っても私にはスワンが誰より眩しく見えた。
彼がいくら渡り鳥だったとしても。帰り着く場所はここしかない。歪んだ独占欲とも言えるこの思いを抱いて私は渡り鳥の帰郷を待っている。
──なんて。
綺麗事だけで生きていられたら良かったのにね。
所詮人間なんて絵に描いた食事で腹は膨れないものなのだ。理想論と思い込みだけじゃいつかは現実に追いつかれてしまう。現実はひどい飢餓感を一緒に運んできて私の体を内側から食い破ろうとしていた。
こんなことなら。見てるだけで、良かったのに。
絶対に手に入らないと諦めていられたのに。
迂闊に近づかなければ、これほど激しい焦燥感に駆られることもなかっただろうに。
好きという感情はどこまでも欲深かで愚かだ。
いつかは、なんて。そんな根拠のない空虚な願いを唱えるようになってしまう。
いつかは、スワンにとって、私が口説くに値する「女」になれたら。それだけでいいのに。
すでに夫婦の関係において口説くだなんておかしな話であるけれど。
「ねーえスワン、今日も寄っていくでしょう?」
ちょっとした買い物の帰り、スワンを呼ぶ声に自然と体が反応した。声の主は私も知っている相手。
この町で色を売ることもある飲み屋の看板娘アマン。娼館なんて立派なもののない町での欲求の捌け口になっている店の一番人気の娘。
元は大きな街で働いていたらしいけど、訳あってかここに住むことになった外の人で、大輪の薔薇のような匂いたつ容姿と屈託のない笑い顔が特徴で、ついうちうちに篭もりがちな町娘たちと違っていいと男たちが笑っていた覚えがある。
そういう色事に五月蝿い婦人方からは正反対の評価を得ている彼女は私たちの世代のプリンスであるスワンに目をつけたようだ。目をつけたのはスワンも同じなのだろうけど。
スワンの返答など聞かずともわかる。眉尻を下げた甘ったるいバナナクリームパイのような笑顔で彼女の誘いを了承するのだろう。
そんな光景想像するだけで具合が悪くなってくる。私は買ったものを抱えて駆け出すことしか出来なかった。
今日も食べる人のない食卓に二人分の皿を並べる。結婚してからずっと二人分を作っては、一人で食べてきた。いっぺんに二人分を食べられるほど私が大食漢な訳じゃない。残された一人分が次の日の朝ごはんになるというだけだ。
ある意味、手間がなくていい。朝は朝というだけで慌ただしいものだから。
「いただきます」
スワンと結婚して与えられた町の片隅の一軒家は私とスワン二人が暮らすには少し広い。おまけに一人は寝に帰ってくる以外いないのだから私は実質一人で暮らしていた。
父が捕まり母が心労に倒れそのまま亡くなって、私は一人で生活しなければならなかったところをスワンとの結婚が決まってこの家に移ってきた。元の家はとうに取り壊されている。私の帰る家はここにしかない。
スープを啜る音だけがする静かな部屋は、あまりに寂しいので最近は仔犬でも飼おうかと考えている。そうすればやることも増えて気も紛れるんじゃないかと思ったのだ。
生活費はスワンの父、義父から毎月渡されているが私も繕いものや内職で僅かに蓄えがある。それから母が嫁入りするときにと残してくれたお金も。結局使い損ねたそのお金は、多くはないけれど仔犬くらいなら育てられるだろう。
本来なら仔犬よりも子どもをもうけるべきなのだろうけど、私たちのあいだにそんな関係はない。望んだだけでは子どもが生まれないことくらいは知っている。だから、仔犬なのだ。大きい犬がいい。きっと大きいと手間がかかるぶん体力も使う。持て余し気味の感情を忘れるには手っ取り早く何も考えられないようにしてしまえばいい。
じゃないと恨んでしまいそうになるから。この結婚の原因である父も、私を残して死んだ母も、厄介払いした義父も、振り向いてくれない幼馴染で初恋の夫も、自分自身もなにもかも。恨んでしまいそうになるから。
「アレクサンダー!」
「やあメアリー、元気かい?」
義父から紹介された小間使いの青年アレクサンダーは私の初めての頼み事を嬉嬉として受け入れてくれた人だ。「飛びっきりカワイイコを探してくるさ」とニコニコ顔で承知した彼は今日その約束を果たしてくれるらしい。
「ええ元気よ、あなたは?」
「もちろん! ……と言いたいところなんだけどね、ちょっと事情があって」
「何か、あったの?」
よく見ればアレクサンダーは何かを持ってる様子がない。約束を果たすなら小箱なり籠なりを持っていてもおかしくないのに。
「じつは生まれた仔犬の調子が少し良くないらしくてね……」
「まあ、それは……」
「いや、そう大変なことでもないらしいんだけど、まだ親元から離すには不安な状態なんだって。だから今日はここに連れてこられなかったんだ」
だからそんな泣きそうな顔しないで? とアレクサンダーは落ちた私の前髪を耳にかけ、それから慰めるように頭をひと撫でする。手のひらのあたたかさはあっという間に消えていったけれど、彼の優しい気持ちが私の心をしっかりあたためてくれた。
「そう……じゃあ仕方ないわね」
「もう少し大きくなったら君の元に届けられると思うんだけど」
「ううん。いいわ、無理に引き剥がしたい訳じゃないもの。縁がなかったのよ」
本当はすごく、すごく楽しみにしていたのだけど。親と突然別れさせれられる気持ちはよくわかるから。その仔犬は親元にいるべきだと余計に強く感じてしまって。
「……なら、一緒に見に行かない?」
「え?」
「引き取る、取らない関係なく、仔犬をさ。直接見るだけでも」
「でも……」
「何遠慮してるの? 大丈夫、相手は僕の知り合いの人だから気にしないでいいよ! どのコもとっても可愛いんだ!」
「迷惑、じゃない?」
「とんでもない。犬好きに悪いやつはいないってのが知り合いの口癖だからね。僕もそう思うよ」
私の背中にある後暗いレッテルを気にする人は多い。でもアレクサンダーを見ているとそんな小さなことを気にしている自分が少し馬鹿らしくなったりもする。彼の知り合いというのもそんな人なのだろう。屈託なく笑う笑顔がそう言っている気がした。
「ありがとう、じゃあぜひお邪魔したいわ」
「………………メアリー。君はもっと笑うべきだね、その笑顔とっても素敵だよ!」
「真面目な顔して何言ってるの? 冗談ならもっとわかりやすいのにしてよね」
「ええー! 本心なんだけどなあ」
「ならもっと悪いわね!」
「ひどいね君!」
なんて軽口を叩いて笑う。こういう普通のやりとりをどのくらいぶりにしただろうと考えて、私は思い出せなかったことを笑って忘れることにした。
「男が、出来たのかい」
スワンは珍しく宵の口に帰ってくるなりそう言った。コートも脱がないままに。私は意味がわからず差し出した手をおずおずと引っ込めた。
そんな様子の私を見てさらに苛立ったように言葉を続けるスワン。
「アレクサンダー、と言ったっけ。父が寄越した小間使いはずいぶん、気がきくみたいだね」
ずいぶんのところにつけられたアクセントがいやに強く、スワンの言わんとする意味を如実に現している。それでも意味がわからない。だってあなたがそれを言うなんて、おかしいじゃないの。
「アレクサンダーとはそういう仲ではありません。ご紹介していただいたお義父様に失礼です」
「……父がそういう意味であいつを用意したとしたら?」
「ひとえに、意味がわかりかねますが、そうであったとしても私はあなただけの妻ですから」
──あなたがそうでなくても。
と、言えたら良かったのに。言わなくてよかった、のだろうか。
頭を下げたままの私に苛立ちを募らせたのかスワンはコートを脱がずにそのまま出ていった。今日はきっと帰ってこない。確信があった。
私も今日やろうと思っていた編み物をやめてとっとと寝てしまうことにした。嫌なことは忘れてしまえ。寂しいことも辛いことも夢のなかまでは追っては来ない。楽しい夢を見よう。童話の本でも枕の下に隠して。いつか出会う仔犬の姿でもいい。幸せな夢が見たい。
吹きすさぶ心の中の風には気づかないふりをして。
「なんて可愛いの!」
白いモコモコとした毛の塊を抱えて私は飛び跳ねる。腕のなかではもぞもぞと居心地悪そうにした仔犬が一匹。
「でしょう? このふわふわは実際に触ってみないとね!」
アレクサンダーに連れられて約束していた彼の知人の家に私はやってきていた。何頭かいる仔犬は白地に黒茶のブチが二匹、真っ黒に茶白のブチが三匹、それから真っ白のこのコ。
「そのコがお嬢さんに渡すはずだったコだよ」
黒いモジャモジャのあごひげを蓄えたこの人がこの仔犬たちの飼い主でありアレクサンダーの知り合いらしい。初めて見たときあまりの髭に熊かと思った。けれど瞳はクリッとしていて可愛らしいギャップの持ち主だ。
「このコが……」
「でも人見知りが激しくてね、他人を見ると吠えて噛み付こうとするからもう少し躾をしようと思っていたんだ」
「でも、今とってもおとなしいですよ」
私が抱き方に慣れないせいだろう、うごうごと安定する場所を探しているような真っ白からは吠えようとか噛み付こうという意思は感じられない。
「ああ、だから俺もびっくりしているんだ」
「こいつ僕が来たときも牙剥き出しだったのに、女好きなのかー?」
「はは、そうかもな! 普段なら犬に懐かれるタイプのお前でもダメだったし、それにこいつはお母ちゃんや娘どもには唸らないからな!」
私はその話を聞いて思わず同居人の顔を思い浮かべた。そしてついに腕のなかでうとうとし始めた塊を見てぶんぶん首を振る。
あの人はこんなに可愛くない。綺麗ではあるけど。
「お嬢さん、まだ犬を飼う気はあるかい?」
「えっ、……それは、まあ」
「じゃあこいつ、貰ってってくれ!」
「そんな、でも」
「基本的な躾は終わってんだ。あとはこいつの気性だけで。お嬢さんとは、どうやら相性がいいみてえだし。俺は出来ればこいつらに幸せになってもらいてえんだ。お嬢さんとならそれが出来ると思う」
そう言われて嬉しかった。認められたようで。だけど私は。
「私……、私が犯罪者の娘でも?」
隠していた訳じゃない。それにたぶんおそらく私の事情は聞き及んでいるだろう。それでも黙っていられなかった。
「あんたが悪さしたんか?」
「いいえ、私は、してません。でも父は私たちのために悪さをしました。ならその罪は私も同じです」
直接罰されるのは父だけだが、原因である私もなんらかの形で罰せられるべきだと、ずっと思っていた。その一つがあの結婚。罰と呼べるかはわからない微妙なものだけど。
「…………なら、余計にあんたが貰ってくれや」
「え……? あの、聞いてましたか、私は……」
「だからだよ。オレはこいつらに幸せになってもらいてえ。それは飼ってるやつにも幸せになってもらいてえってことだ。犬だけじゃ幸せになんてなれない。飼い主も幸せになってこそ犬も幸せなんだ。大丈夫、こいつらは幸せの種を持ってる。ふたりで芽を吹かし、花を咲かして、また種を植えてくれ」
ヒゲもじゃの強面でもとびっきり優しい目をしたその人は慈悲深い心を持ったあたたかいひとだった。
「おっさんカッコつけすぎ」
「ちゃちゃいれんなやぁ、こっちだって小っ恥ずかしいんだ」
「──あの、私。必ず大切に育てます! このコは私の家族です!!」
「……おう、よろしく頼むなぁ」
思っていた通り、家族の増えた生活は豊かになった。まいにち走り回るスノー──雪のように白いからつけた仔犬の名前だ──を追いかけてはじゃれて一緒に眠る。ふたりでご飯を食べて、夜もベッドの上と下で眠った。気がつくと朝にはベッドの上にスノーがいることもあったけれどあたたかくて可愛いので叱れずにいる。
誰かのいる生活というのはなんて楽しくて幸せなのか。それだけじゃ消せない寂しさもあるにはあったけれど、スノーのいない空間を私はすぐに思い出せなくなるほど充実した毎日を送っていた。
「この犬はなに?」
意図してスワンには言わずに一ヶ月が過ぎていた。スノーはすっかり大きくなった。これからまだまだ大きくなるというらしいが。
スノーが来てから私は出迎えをやめた。まるで嫌味のような行為だと気付いたからだ。それにスノーと一緒にいると体力を使うこともあってすぐに眠くなってしまう。精神的にも肉体的にも待っていることが出来なくなっていた。
そういう訳で一ヶ月ぶりに早く帰宅したスワンとまさかこんな時間に帰ってくるとは思ってなかった私の結果、彼とスノーは出会うことになった。
ここに来てからずっと穏やかな表情をしていたスノーは今にも飛びかかりそうなほど物騒な顔をしている。具体的にいえば立派に生えた犬歯が剥き出しになりグルグルと低い音を喉で鳴らしているのだ。明らかに威嚇している。それでも飛びかからないところを見るとウェスティンさん──スノーを譲ってくれた人だ、あのあと名前を聞いた──の躾は無事に済んでいたらしい。
それに対しているスワンも不機嫌さを隠しもしない。やっぱりほとんどいないとはいえ同居人の許可を取るべきだったか。でも聞くタイミングもなかったのだ。それに今よりももっと精神的追い詰められていた私はスワンから許可が得られなかったら壊れていたかもしれないと思って聞くのが怖かった。
「アレクサンダーに譲ってもらいました」
本当はもう一人挟んでいるけれど、そこまで伝えずとも構わないだろう。スワンも細かく知りたいのではないだろうから。
「ふぅん。あの男は余計なことをするのが好きみたいだね」
気に入らないと顔に書いてある。前の私ならきっと怯んでいた。嫌われている上に蔑まれでもしたらきっと死んでしまいたくなっていたはずだ。でも今はスノーがいる。
「私が、彼に頼んだのです」
「君が? どうして? 僕の許可なく?」
「許可を得なかったことは謝ります。申し訳ありませんでした。ですが私はぬくもりが欲しかったのです、心の支えになるぬくもりが。
スノーは、……このコは私の大切な家族です」
怖い顔をしているスノーを宥めるように頭を撫でた。気持ちよさそうに目を細めるスノーの機嫌は幾分か良くなったみたいだった。
しかし一方では反対に、凄みの増したしかめっ面をしている。
「君の家族は、僕がいるだろう。そんな犬なんてただの獣じゃないか」
「……笑えない冗談が上手くなりましたね」
もっとも、私たちに冗談を言い合う機会なんてなかったけれど。
「冗談なんか言っていない。君は僕の妻だ。僕が父に言って君を娶らせた。僕が引き取らなかったら君はこの町の男たちの慰みものにされるところだったんだぞ!」
「なにを……言って……?」
「父親が捕まって母親も死んで後ろ盾のなくなった若い娘を、どうこうしたいと思うやつは少なくないって話だ。君から目を背けさせるために貸しのあるアマンを王都から連れてきたりもした! 彼女は派手だからな、上手く君から意識をやることが出来たと思えば!
君は僕の知らないところで男に現を抜かしているし、無断で犬まで飼っているなんて!」
「スワン……あなたが何を言っているか、よくわからないのですが」
「ああ、それだよ! 君はいつまで経っても敬語で他人行儀のまま! 僕たちは夫婦なんだぞ、どうして距離を取る? 僕の何が気に入らない? どうして君は僕から離れていくんだ!
──そんなに僕が嫌いなのか!!」
あまりに処理のしきれない情報が多すぎて、私は上手く理解出来なかった。ただ、ひとつだけ。
「……嫌っていたのは、あなたの方ではなかったのですか」
「僕が? ……君を?」
「ええ……私の記憶の中では昔からあなたは私だけを避けていた。話すことがあってもまるで距離を取って他人行儀で……先ほどあなたが私に対して言っていた言葉、そのままお返ししますわ」
「それは……いつ頃のこと?」
急に勢いが失せバツの悪い顔になったスワンは語気を落とすと伺うように尋ねてくる。
「七つか八つの歳の頃でしょうか」
「………………もし、君が、その頃の僕がそのまま大人になっているのだと思っているなら、それは僕が悪かった」
「え?」
「確かに当時の僕は、君に素っ気ない態度を取っていたよ。自分でもわかってた、でも君を前にすると上手く喋れなくなってたんだ。それまでは平気だったのに」
言われてみればもっともっと幼かった頃は普通に話していたような気もする。昔過ぎてあまり覚えていないけれど。そうだったような。
「そうでしたか。でもあなたは結局そのままでしたよね?」
「う……君が、そういうのなら、そうなんだろう。でも僕はね、昔から君への気持ちだけは変わってないよ」
「と、言いますと?」
「小さい頃から君が好きだった。大人になるまでにいろんな女の子と遊んだけど、やっぱり君が一番だった。君だけだよ」
「……笑えない冗談が本当に上手いですね」
ナンパ師の常套句にしか聞こえなかった。どうしてだろう。前はあんなに聞きたくてしようがなかった言葉なのに。今は詐欺師がカモから金を引き出すための誘い文句にしか聞こえないのだ。ロマンの欠片もない。
「冗談なんかじゃない!」
「……わかっています。だからこそ笑えないのです。だって本当なら嬉しいはずの言葉なのに、これっぽっちも喜べないんですから」
「え?」
「……私もずっと好きだったんです、あなたのこと」
「それじゃあ!」
「でもあなたの言葉を信じる根拠がまるでない。私、あなたの幼馴染なんですよ。あなたのしてきたことはずっと見ていました。されたことも忘れた訳じゃありません。あなたの言っていたことがおぞましいけれど、事実だったとして、その不幸から守ってくれたことは感謝します。けれど、それとあなたの言葉を信じるかは別です」
「なら、僕はどうしたらいい」
「信じさせて欲しい」
……これから長い時間をかけて。
寿命の違うスノーがいなくなったあとも、あなたがずっとそばにいてくれたら。
私はあなたを信じることが出来ると思う。
なんて、言ったらスワンはいつぞや想像したバナナクリームパイのように甘ったるい笑顔で、
「君が死ぬまでそばにいる。だから死ぬ直前までには僕のこと信用してね」
と、言ったのだった。
私は初めて自分に向けられたその甘ったるさに思わず赤面し、スノーは面白くなさそうにフンと一回、鼻息を吐いた。
無意識にその背を撫でたのは気持ちを落ち着けたかったからなのか、スノーを宥めたかったからなのかは、自分でもよくわからない。
END