第十二と半分の章:しまうもの ―大晦日― 〈前〉
スーパーの自動ドアに追いやられる形で外に出る。その次の瞬間には自然、目を顰めざるを得なくなった。一週間ほど前に降り積もった雪が、夕焼けの光を集めてこちらに見せびらかしているのだ。突然の小さな衝撃に少々面食らうも、しばらくすれば目も慣れようと、一つ歩を進めて雑踏を見る。
雪を踏みしめても、足の埋まる深さは浅いものだった。ざくり、ざくりと、耳を掠める硬質な音が、真冬の訪れを思わせる。不規則にして連続的なその音の重なりは些か、昨日、一昨日よりも早く感じられ、周囲の人々が如何に忙しい思いを抱いているかが窺い知れた。
毎年のことながら、思う。人は、この日になると何故に、まるで焦っているかのように早足になるのだろうか、と。いや、自分が焦っているから、周囲もそういう風にしか見えなくなるのだろうか、と。
ふと首を上向けてみれば、夕空に浮かぶ薄い雲が風に流され散っていく。平生であれば心穏やかになれそうな、刹那の時。だがその様を眺めている間も、なぜか心臓は落ち着かない。特にこれといった用事も無いはずなのに、だ。何かに追われているような、急かされているような、妙な気分になる。まるで、鬼ごっこでもしているときのような。
「今年も、今日で終わり、かあ……」
思わず呟いた独り言に、溜息が混じる。この台詞、恐らく周囲の人々も今宵のうちに口にするのだろうな、と思いながら、胸に抱えた布袋をぎゅっと抱きしめた。突如、冷たい風が体を撫でていく。思わず息を詰まらせると、次には体がぶるりと震えた。ああ、早く帰りたい。そう思わずにはいられない。そしてそう思えることにどこか、こそばゆさを覚える。
ざくり、ざくりと雪が鳴く。行き交う人々の奏でる旋律に、小夜子も加わった。
* * *
外を歩けば、吸い込む空気に鼻がつんとする、虎落笛が鳴る、体が震えを起こす。順序は時折違えても、その繰り返しだ。歩いているうちに体が温まり始めても、冷たい風に晒されれば、思い出したかのように鳥肌に立ち始める。しかし『心屋』が目の前に現れれば知らず知らず両の足も早まり、不思議と寒さも薄れていくようだった。
マフラーで鼻を隠すようにしてから、心屋の敷居を跨ぐ。主の気配は居間にあった。
「ただいま戻りましたーっ」
ややくぐもった声になってしまったが、彼の耳にはちゃんと届いていたようで、居間の扉からひょっこりと顔を出してきた。玄関先に佇む小夜子を捉えたからか、その碧い目をゆったりと細め始める。次に視界に入るのは、彼の纏った茜色。奥の障子の隙間から漏れる夕闇と同化しているようで、思わずほう、と小夜子は息を吐いた。襷掛けをした着物から伸びる右手には、ハタキが握られている。どうやら、まだ掃除の途中であったらしい。
「おかえり、さよ」
彼――奏一郎は朗笑を浮かべつつ、いつもの穏やかな声色でそう言った。小夜子は布袋を台所に下ろす。中から取り出したのは醤油だ。
「このお醤油でよかったんですよね?」
「うん。重かったろう、買いに行かせてしまって悪かったね」
困ったようにそう言って笑うので、小夜子はいいえ、と笑みを返した。
「重くなんかなかったですよ。体育のときに重たいものを持つときもあるので、鍛えられたみたいです。ところで、お掃除の方はどうですか?」
洗面所で手洗いをしつつ、そう尋ねる。指先の霜焼けが気になったが、意識の網は奏一郎のいるところに張り巡らせていた。
「あとは床を拭いて終わりだ」
ハタキを仕舞い、今度は濡れ雑巾を手に廊下へと進む奏一郎。
「あ、それじゃ二階は私が拭いてきます!」
背中を追うようにして声をかけると、
「いいけど……」
と、奏一郎は真意の読めない笑みを浮かべた。困ったような、楽しそうな、それでいてどこか心配そうな。
「……勢い余って壁に頭をぶつけないようにね?」
ああ、そういうことか、と。納得し、彼の湛えるそれによく似た笑みを、小夜子もまた浮かべるのだった。
「気をつけます……」
彼女自身、自分ならやりかねないなと思ったからだ。
* * *
二階の廊下を無事拭き終えても、鼻と口を覆うマスクはまだ外せない。しばらくは障子を開けて風を通して、新鮮な空気を循環させなければならない。そのため、居間の空気は冷え冷えとしていたが、奏一郎がどこかから出した炬燵に下半身を委ね、ほうじ茶を体に注ぎ込めば、全身が温かくなったように感じられるくらいだった。
奏一郎はといえば、小夜子の向かいに腰掛けて、膝の上に顎を乗せているあんずの背中を撫でている。猫は炬燵で丸くなる、というフレーズはよく聞くが、あんずはそれにはどうやら当てはまらないらしい。彼女の子供たちは三匹とも、炬燵の中で文字通り丸くなっているというのに。
「……猫ちゃんたちの里親、見つからないですね……」
ふと、思い出したように不安めいた心境を口にする小夜子。
あんずの産んだ子猫は四匹。その内の一匹は桐谷が里親を申し出てくれたおかげで、生まれてからひと月ほどで貰われていった。しかし、それから里親を申し出てくれる者は一人としておらず、心屋には親猫のあんずと元気な三匹の子猫がいる状態である。
「もし誰も名乗り出てくれなかったら、奏一郎さんはどうするつもりですか?」
「この子達に任せるさ」
この子達、と言って炬燵の中を指差す彼。空の色をした碧い目が、小夜子は好きだ。そうしてそれが、何かの拍子にふわりと細められるのも。
「それと、流れにね」
流れ。それは、時の流れか。それとも、自然の流れということだろうか。どういう意味で彼がそう言ったのか気になる小夜子だったが、たとえ訊いてもはぐらかされるか、本当のことを教えてはくれないような気がした。彼は嘘はつかないが、本当のこともまた、言ってくれないことが多いから。
今章は、FC2小説には載せていない(作者のブログには載っている)ので、番外編、という扱いになります。
〈前〉〈中〉〈後〉から成ります。




