第十二章:さけるもの ―師走・中旬― 其の六
* * *
初めて作ったカレーは、人参が一口大よりも少し大きくて食べづらくて、じゃがいもも煮込みすぎてかほとんどが溶けてルーと同化してしまうし、玉ねぎを入れすぎたせいか甘味は増してしまうしで、思っていたものとは少し味が違うものになってしまった。
それでも、
「美味しかったなぁ」
奏一郎は満足だった。心身ともに、満ち足りていた。
彼は店のシャッターを開放すると、既に散り散りになり始め、それでも未だ重たげな暗雲が、空闇に溶け込んでいく様を見つめている。積み重なり終えた雪に一瞥をくれることもなく、ただ、ひたすらに。明かりも点けずに。
椅子に腰掛けてからもなお、その視線はそこから外してはいない。膝に掛かっているのは、少し湿り気を帯びた白色の羽織だ。それ以外に身につけているものといえば緋色の着物のみ、という大して厚着もしていない彼だが、とくに凍えているような素振りは微塵も見えない。それどころか、穏やかな笑みさえ湛えている。
変わらず、ここは静かだ。
と、そこへ声変わりのしていなさそうな声が、静寂を断ち切る。
「……ありゃあ、俺様の知ってるカレーとは大分違ったと思うぞ」
呆れたような口吻。君らしい意見だ、と奏一郎は笑った。興味ないとでも言いたげに積雪に一瞥をくれるだけで、あとは新聞に目を通すその姿も、非常に“らしい”。文章を追う目は、一定のリズムで上下している。
「多少違っても、美味しければそれでいいさ」
「そうかよ」
心底どうでもよさげに、とーすいはそれだけ返した。いつもよりも投げやりなその態度にも、奏一郎は微笑みを絶やさない。
「……君にも、迷惑をかけたな」
すまなかった、本当に。
そう伝えても、とーすいはふん、と鼻を鳴らしただけだった。
静かすぎる、凪いだ夜。この無音の世界には、もはや何物も存在しないかのようだ。
しかし、二階から感じる微かながら確かな人の気配に、奏一郎の目は細められる。もう彼女は、安心して眠ったろうか、と。
「……一緒にいたいと言われたのは……初めてだな」
「あ?」
独り言に似た呟きに、とーすいが反応する。彼の動きにつられて、新聞が乾いた音を立てた。
「とても嬉しくて……少し切ないことを言われてしまったなあ、と思ってな」
指が、膝に掛かった羽織を撫でる。
これに小夜子が触れている間、奏一郎には伝わっていた。彼女の想いが。
それは、言葉にするならば言い知れぬ恐れ。終りの見えぬ焦燥。自己への嫌悪。小夜子が己の気持ちを吐露すれば、それと時を同じくして、彼女の心は自然、奏一郎に流れていった。
痛々しいほどに彼女は必死で、かつ正直だった。賭けていたのだろう、と奏一郎は思う。己の本心を口にすることで、僕の本意を知ろうとしたのだろう、と。
正直に言ってしまえば、言葉など要らなかったのかもしれない。言葉よりも、直に伝わってくる気持ちの方が“鮮明”で“明快”だった。小夜子が話し始めた時から、それには気づいていたのだけれど。
それでも言葉を待ったのは、彼女の言葉を聞きたかったからだ。彼女自身が紡ぐ本当の言葉を、奏一郎が聞きたいと思ったからだ。
そう思えたのは。そのきっかけを作ったのは――やはり、小夜子だったように思う。
「……とーすいくん。……ここ最近、僕はあの場所に通い続けていたけれど、ただずっと佇んでいたわけじゃなかったんだ」
無音の世界に、低く細い声が浸透する。ずっと動き続けていたとーすいの目が、そこでぴたりと止まった。奏一郎に視線を向けると、そこにあったのは満面の笑みだ。
「君に言われた通りにね、暗闇の中を歩いてみることにしたんだよ」
碧の眼を薄く開かせて、柔らかな笑みを浮かべる彼。雪明りもないはずなのに、とーすいにはそれがはっきりと見えるのである。その笑みは嬉しそうにも、悲しそうにも見え、そうして、いつの間にやら消えてしまっていそうな予感を抱かせる。
「するとね、気づいたんだ」
以前、とーすいは奏一郎に問うた。おまえが恐れているのは、暗闇なのか、と。本当に恐れているものは、その暗闇のさらに奥にあるものなのではないか、と。
その時は首を傾げて答えを求めたけれど、自分で考えろと突き放された。たまには暗闇の中を歩いてみろ、とまで言われたのだった。
だから、昼夜を問わず森の中、あの場所に通い続けたのだ。今度は、“暗闇”を意識しながら。
暗闇の中を、歩いて、歩いて。もがいて、足掻いて。そうやって、人間は自分の答えを見つけるのだととーすいは言った。それをヒントに暗闇の中を歩いてみる――が、どんなに歩けど、歩けど、奏一郎は連日続くこの惰性的な行為の繰り返しに、何一つも苦しみを覚えることができなかったのだった。
彼は、さてどうしようか、と思案を巡らせた。
これではもがくことができない。
これでは足掻くことができない。
このままでは、自分の答えを導き出せないではないか、と。
そもそも、ここは常闇ではないではないか、と奏一郎は森の中、夜空を仰ぎ見た。
そう、ここは常闇ではない。完全な闇など無い。
なぜなら首を上向ければ、そこには――。
「目から鱗が落ちるとは、まさにこのことだ、と思ったよ。……知っていた、はずだったのにね」
闇を切り裂く下弦の月。ちらちらと、笑うように瞬く星々が、そこにはあった。
そして、次に碧の眼が捉えたのは――。
「……知っていたはずなのに、忘れてしまっていたようだ。暗闇だからこそ、見えるものもたくさんあるんだって。どうして、忘れてしまえたんだろうね」
そこでようやく、気づいた。
自分が恐れていたのは、暗闇などではなかったのだと。その、さらに奥深くの――暗闇の、意味するところだったのだと。
「僕が恐れていたのは……光を失うことだったんだ」
――だから、離れたんだ。
怖がられたくなかったから、離れた。
離れてほしくなかったから、自分から離れた。
そして、待っていた。
向こうから来てくれるのを、待っていた。
「だから、今日もずっと待っていたんだ。待っていられたんだ」
――そうしたら、本当に来てくれた。
待っていれば、来てくれる。
耳を傾ければ、欲しいと思った言葉を、くれる。
優しくて、愛しい、光。
――君を見ていると、欲張りになって。無い物ねだりに、なってしまう。
我侭になってしまう。独り善がりになってしまう。
どれだけ望んでも、叶わないと知っていても。
君を見つけると、君を見ていると――願わずには、いられなくなる。
「……だから、言ったのに。君にこの役は、ぴったりすぎたんだ……」
ひと撫で、するり、と。羽織が鳴いた。
奏一郎はその音に目を細めると、まるで慈しむように羽織の上を掌で行き来する。するり、するり、と、一定の調子で刻まれる衣の音。しかしそれも次第に小さく、力無い弱きものに変わっていき――いつの間にか、心屋は再び無音の世界に溶け込んでいった。
見つめるのは、己の指先。
――だけれど……君は、いつも突然現れて。
いつだって……すぐに消えてしまうじゃないか。
「かなしい、ね」
彼は、思った。
今なら、涙をこぼせるんじゃないか、と。
ちぐはぐな笑みを浮かべながら、そう思った。
《第十二章:さけるもの 終》
避けて 裂けて 咲けて
想い 花開く
次回は番外編のような、総集編のような。
そう、行われるのは……一年の振り返り。
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