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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十二章:さけるもの ―師走・中旬― 其の五

 ――熱い。


 火傷しそうなほどに熱い目頭。涙が零れてしまいそうだ。軽蔑されたかもしれない、そんな想像をしただけで、こんなにも心はかき乱される。

 自分勝手な感情の塊――それは、ひどく、醜い。


 視界の悪さに、救われた。奏一郎からはきっと、見えないだろうから。

 滲む世界。徐々に歪んでいく足元。それらが少し和らいで、頬に温かいものが伝った時――。


 風が、凪いだ気がした。雪の音が、止んだ気がした。


「ごめんね、さよ」


 代わりに聞こえてきたのは、奏一郎の息遣いに近い声。右耳だけが、それを捉えている。


 その「ごめん」に、どんな意味があるのか?

 小夜子は様々な可能性を思い描いて、その中でも最悪の想像に吐き気をも催さんとしていた。


 が、

「僕も、同じようなものだ」

 聞こえてきた奏一郎の声色は、穏やかだった。むしろ、悲しんでいるような。安堵したような。


 そして、彼が紡いでいく言葉は――、


「さよに、怖がられたくなかった。化け物だなんて、思われたくなかった。嫌われたくなかった。……そのくせ、確かめる勇気も無かったんだ。だから、離れることしかできなかったんだ」


 自分の声なんじゃないかと錯覚してしまえそうなほどの、“小夜子の言葉”だった。


「……僕は、弱いね」


 奏一郎の髪に、雪の白さが違和感なく溶け込んでいくのが小夜子には見えた。それも、かなりの至近距離で。番傘の柄の部分が雪に浅く突き刺さっているのが、遠目で確認できる。この時初めて、小夜子は奏一郎に抱きしめられているのだということを、知った。


 なぜ抱きしめられているのか、とか。奏一郎が風邪をひいてしまう、だとか。思考は渦潮のように回って巡るけれど……一番気になったのは、どうしてこんな自分を抱きしめてくれているのか、ということだ。


「私のこと……どうでもいいとか、嫌いとか、思ってないんですか……?」


 すんなりと口から出てきた、そしてずっと出てきてくれなかった疑問。知りたくなくて、自覚したくなくて、受け入れたくなくて、ずっと答えを遠ざけてきた疑問。答えを知るのを、避けてきた疑問。


 しかし、それすらも一気に霧散してしまう。


「そんなこと、思うわけない……!」


 たった一言で。あまりにも真摯な眼差しで。少し怒ったような、苦しそうな表情で。今までに無いくらいの強い口調で、彼が否定するから。


 小夜子の心の中で、すとん、という音が響いた気がした。


 奏一郎が、今度はか細い声で続ける。あまりにも小さなその声は、聞き間違えたんじゃないかと思うほどに――苦しそうだった。


「……待ってた……」


 ようやく聞こえてきた、雪の舞い降りる音。さくり、さくり、と、雪が音を鳴らし始めた。


「さよのこと、ずっと待ってた。学校に行くさよを、見送る時だって。夕飯の食材の買い出しに行く時だって。早く……早く帰ってこないかなぁって、いつも……いつも思うんだ」


 奏一郎の言葉が、沁みていく。静かなはずのそれには、疑う気持ちを起こさせないくらいの必死さが混じっていた。


「ごめんね。僕は大人なんだから、我慢しなきゃいけなかったのにね。ずっと言うのを我慢してたのに……ごめんね。本当に、弱くて、ごめんね」


 彼が言葉を零すたびに、背中に回された腕の力も増していく。


 初めて見る奏一郎の一面に、そして滅多に聞くことのできない本音に、小夜子の涙も思わず止まる。頬に流れた雫が、乾いていく。


「耳を……塞いでしまって、ごめんね。さよ……」


 それでも、次第に涙は目尻に溜まって――また一つ、新たな一筋が頬を伝った。何度も繰り返される「ごめん」に、暖かみと、悲しみと、後悔とが綯交ぜになっているのがわかる。


 奏一郎の体は冷たかった。衣越しでも、わかるほどに。一体どれくらいの間、外にいたのだろう。寒くなかったろうか。寂しく、なかったろうか。こんな寒空の下、独りで。

 ずっと、独りで。


 「ごめん」はこちらの台詞だと、小夜子は涙ながらに思った。


 そっと、背中に手を伸ばす。温めてあげたいと、思った。

 自分の体も冷たくなっていることをわかっていたけれど、ほんの少しでも奏一郎を温めてあげられたら――それだけで良いと。それだけで幸せなんじゃないかと、思ったのだ。


 こんな感情、小夜子は知らない。この感情の名は、何という?


「奏一郎、さん……」


 どうして名前を呼んだのか。それすらもわからない。どんな言葉を続けようか。今伝えたいことは何か。奏一郎も、続きを待っているようだ。息遣いがこんなにも人の心を豊かに表してくれるだなんて、小夜子は知らなかった。


「私……奏一郎さんのこと」


 辺りは、静かだった。……だからこそ、残酷だった。


 高らかに、だが鈍重に木霊するは腹の音。空腹を訴える、腹の音。

 全身が冷えていく一方で、顔だけが急速に熱く火照っていくのを、小夜子は自覚せざるを得なかった。

 続く沈黙。代わりに腹の音だけが一人、空腹を口走っている。


「…………」

「…………っふ……」

 言うまでもなく、吹き出したのは奏一郎だ。これまでの緊張感を一掃してしまえた音の正体に、くつくつと耐えるように笑っている。肩が震えているので、耐えられていないことは一目瞭然なのだけれど。


「……えーっと、さよ。何と言えばいいのかな。……お腹が空いた、んだね?」

「……う……」

 認めたくはないが事実だ。伝えたいこととは確実に違うけれど、渋々、ゆっくり首を縦に振る。そこで奏一郎は、意地悪なことに――耐えも隠しもせずに、肩を盛大に震わせ笑い出したのだった。


「っふ、はははは……っ」

 久しく見ることのなかった彼の無邪気な笑顔。今までで一番輝いて見えるそれに、驚きさえ覚えてしまう。だが、だからといって看過できるものではない。


「わ、笑わないでくださいよ! 何も鳴らしたくて鳴らしているわけじゃ……っ」

 ない、と続けようとしたのだが――そこでまた一つ、胃袋が鳴き始める。このときには既に、奏一郎はあからさまに腹を抱えたがっていた。彼の背中に回そうとしていた手を、小夜子はぐっと力をこめて元の位置に戻す。


「あ、あの……奏一郎さん」

「ん? ……ああ」

 小夜子の言いたいことを察してか、奏一郎は事も無げに小夜子を抱擁から解放した。

 一体どれくらいの間抱きしめられていたのだろうか。辺りが暗くて助かった、と小夜子は本気で思う。誰かに見られでもしたら恥ずかしすぎることこの上ない。


 奏一郎はといえば、きょとんとした目をこちらに向けている。小夜子の今置かれている状態に、彼もやっと気づいたようだった。小夜子は髪を始め、顔から爪先まで溶けた雪で濡らしてしまっている。

 最初はそれに困ったような笑みを浮かべる奏一郎だったが、肩の羽織を視界に入れたところで、表情をふっと柔らかくさせた。


「さてと。とりあえず、中に入ろうか」

 再び冷えを覚えた体に、小夜子は鳥肌を立たせた。そうして、気づく。自分は奏一郎を温めてやりたいと思っていたけれど、ひょっとしたら逆だったのだろうか。温められていたのは、自分の方だったのではないか、と。


 心屋の中に入れば、迎えてくれたのは温かみのあるオレンジの明かりだ。玄関先だから冷えるはずだろうに、その明かりを見ただけでも鳥肌は、些かながらも治まっていく。


「……傘もささずに走ってくるなんて、無茶をする。このままでは風邪をひいてしまうね」

 まあ僕も、この状態だけどね。そう言って、奏一郎は笑って自分の湿った髪を摘んでみせた。彼もまた、小夜子ほどではないが体を濡らしてしまったようだ。

「こういうときは、温かいお風呂に入って、温かいご飯を食べて、温かい布団で眠らなくてはね」

「そ、そうですね……」

 体がひどく冷たい。彼の提案は、今すぐにでも飛びつきたいくらい魅力的なものだ。


「お風呂は沸かしてあるから良いとして……」

 そう言って奏一郎は天井に目線を送りつつ、小夜子の頭にバスタオルを優しくかける。ふわふわとした温もり。その香りは、羽織から発せられるそれに少しだけ近いもののように小夜子は感じた。


「ただ、ご飯が、ね。問題だ」

「え、な、何がですか?」

「作るのに自信がない」


 珍しいこともあるものだ、と目を瞬かせる。食事を作るのに、奏一郎が戸惑うだなんて。


 小夜子が不思議そうな目をしているのに気がついたのだろう、困ったような微笑みを浮かべる彼。

「なにせ、初めて作るものだからね。食べたのも一度きりだし、美味しく作れるかどうか」


 そう言う彼が向かったのは、台所だ。後を追って暖簾をくぐって見てみれば、俎板の傍らにあったのは人参、じゃがいも、玉葱……そして、ここでは見慣れないが、どこのスーパーでも見られそうなカレーのルーだった。


 小夜子の目は、自然に丸くなってしまう。もしかして、と思った時には、先ほどの寒さはどこへやら、体中の熱が上がったような感覚がした。


 そこへ、奏一郎の声が降ってくる。


「……約束、したでしょう。さよががんばったら、カレーを作ってあげるって」

 だから、今夜はカレーなんだ。彼はそう言って、朗笑を浮かべた。


 思い出されるのはほんの少し前の、けれどだいぶ昔に感じてしまう、眩しい記憶。

 奏一郎と約束を交わしたのは、文化祭の時だったか。


 ――「さよが劇をがんばったら、今夜はカレーにするからね」――


 結局、その日の“今夜”は、訪れなかったけれど――。


「……やり直そうと、してくれているんですね……」

 あの日から崩れていって、裂けていったものがあった。それを、奏一郎はやり直そうとしてくれているのだ。

 まずは、“あの日の約束”から。少しずつ。また少しずつ。また、積み重ねていこうとしてくれている。

 重要なのは、どちらから、ということではない。

 どちらも、お互いにそれを望んでいる、ということだ。そしてそれはきっと、この上ない幸福だ。


「何か、言った? さよ」

 本当は聞こえていたのか、本当に聞こえていなかったのか。そんなことはわからなかったけれど、小夜子にはもう、どちらでもよかった。

 ただ――。


「……あまり作ったことないですし、お料理も下手ですから。私も、あまり自信ないです」

 自然と浮かべてしまうのは、笑み。姿を目にしただけで心臓は踊る。本当の言葉を聞けば心は安らぐ。


「だから……作りましょう、一緒に」


 そう、今みたいに。嬉しそうな彼の顔を見れば、ああよかったと心身ともに温まる。


 こんなにも、こんなにも、愛おしさが湧いてくる。


 この感情の名は、何という?


 世界中に言いふらしたいくらい、ものすごく口にしたくて、それでもやっぱり口にするのは躊躇われて、それに少しばかりの勇気が要る。


 この感情の、名は――……。

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