第十二章:さけるもの ―師走・中旬― 其の四
店先に在るは、小豆色の番傘。寒空の下、雪色の髪を冷風になびかせる彼。
雪が積もりつつある傘を少しだけ傾けて、その碧の瞳に闇夜のみを映している。時折瞬きをしているからには、ただぼんやりとしているわけではないのだろう。何か目的があって、空を見つめているのだろう。
「…………そう……」
声をかけるか、かけないかというタイミングで、碧の瞳は空から視線を逸らし、肩を上下させる小夜子を捉えた。小夜子を、と言うよりも、上半身を覆う羽織を、と言ったほうが正確だったかもしれない。刹那、目が丸くなったかと思えば、すぐさまそれは弱々しく細められる。
「……奏、一郎さん……。何を、しているんですか?」
声を震わせないよう努めるも、それも無理な話のようだった。言葉の後半は声をひっくり返してしまうし、久々の会話だというのに格好がつかない。
一方の奏一郎は、再び空に視線を向ける。否、小夜子を視界に入れないようにしているかのよう――。
「……待っていたんだ」
そう答える小さな声は、掠れていた。
「真っ暗な空に、すっと現れてくれるのを……ずっと、期待してた。でも……」
抑揚のない声色。穏やかな口吻だが、その分、寂しそうに小夜子の耳には響く。
「でも、今日は、ダメみたいだ。この空模様ではね……期待したところで、無意味だから。もう、期待はしないことにしたんだ」
伏せられた目は、諦観に揺れていた。碧いはずの瞳が、闇夜と同じ色に染められている。
彼が何を待っているのか、否、待っていたのか。どうして、そんなに儚げな瞳をしているのか。
わかってあげられない自分が、小夜子にはもどかしく感じられた。鼻頭が何故か、つんとする。
体が、心が、裂けそうだ――。
ゆっくりと開かれる、彼の唇。どのような言葉が紡がれるのか――ある程度、予想はできているけれど。
「……さよ。どうして、戻ってきたの?」
――そんなことは、どうでもいい。
「今夜は遅くなるって、とーすいくんが言って……」
「奏一郎さん。私は」
言葉を遮った小夜子の声に、
「綺麗で、いたかったんです」
もう、震えはなかった。
黙る両者の間を、乾いた風が通り抜ける。雪は相変わらず、視界の所々を遮っていた。だが、小夜子にとってそれは返って好都合だった。
今の自分の顔は、きっと酷く歪んでいる――そう思った。
「最初は……一緒にいられるって、思っていたんです。……気づいていないふりを、していればいい。おかしいなって思うところがあっても、何事も無かったかのように、振る舞ってしまえば……」
――……そうすれば、また次の朝には笑って、「おはようございます」が言えたから。
「一緒にご飯を食べて、お話しして、楽しく……ずっとそうやって過ごせるって。ずっと、目を背けていたんです。奏一郎さんが、人間じゃないかもしれない……ってことから、逃げていたんです」
だが、小夜子は知ってしまった。訊いてしまったから。
――「奏一郎さんは、本当は何者なんですか?」――
秋の空気が深まりつつあった闇夜での問いに、答えたのは他でもない彼だった。
――「僕は人間だよ。そういうことにしといていくれ、今は」――
その答えによって導かれるは、誤魔化されたようでいて、ぼかされたようでいて、明瞭な事実。
奏一郎はやはり人間ではないのだという――そのただ一点のみだった。しかし。
「……でも、仮に人間じゃなかったとしても、別に良いって思っていたんです」
そう、思った。犬や猫だって、人間と違う生き物でも人間と一緒に暮らしている。それに今までだって、ずっと平穏に暮らしてきたのだから、なんの問題も無いはずだと――。
「奏一郎さんと一緒にいることは、不可能なんかじゃ……不自然なことなんかじゃ、ないんだって。思って、いたかったんです」
紡がれる平穏な日々。毎日が優しくて、落ち着いていて、温かだった。美味しい食事。柔らかな笑顔。安らぎの言葉たち。
積み重なっていくすべてを、大切にしたいと思えた。
「……でも、あの日」
繰り返し思い出される、薄闇の記憶。鬼を彷彿とさせる、残虐な薄い笑み。視界に入れてしまった、非道な行為。胸を突き刺すような、冷たい声。
――「どうして、止めたの?」――
非難するわけでなく、本当に疑問に思ったようなそんな口ぶりだった。
“すべて”が崩れたのは、
「奏一郎さんの目を見てから」
突然にして、
「言葉を、聞いてから」
ほんの一瞬だった。
「無理なんじゃないかって、思い始めてしまったんです。怖くなって、しまったんです」
奏一郎が病室に一度も訪れなかったことに、一抹の悲しみを覚えはすれどその反面、ほっと胸を撫で下ろす自分がいたことを、小夜子は自覚していた。安堵していた。でも、それは奏一郎が恐ろしかったのではなかった。正確には、それだけではなかった。それ以上に、恐ろしかったのは。
「私は……奏一郎さんにとって綺麗な存在でいたかったんです。奏一郎さんを受け入れられる、そんな人になりたいって、そんな人でありたいって……思っていたんです」
――「僕のこと、怖くなった?」――
かつてはその問いに、二つ返事で否定した。そんなことない、と言った。
彼があまりにも寂しそうな瞳をしていたから、そう答えたのかもしれなかった。
そうしたら、彼は笑ったのだ。
――「ありがとうね」――
と。あまりにも綺麗な笑顔だった。彼の嬉しそうな表情に、心が締め付けられる思いだった。きっと彼はその奇異な存在ゆえに、今までずっと独りだったから――だから、こんなにも嬉しそうに笑うのだろう、と。
それと同時に思ったのだ。
ああ、これが正解だ、と。
「……お料理もろくにできないし、家事だって少ししか手伝えないで、奏一郎さんの優しさに甘えてばかり。そんな私に、唯一できることが、それだと思いました」
奏一郎を受け入れる。彼という存在を、受け入れる。
今までの他の誰もができなかったことを、自分ができるようになれば――。
それは、ひどく甘美で理想的な展開だった。
「だから奏一郎さんを、ほんの一瞬でも怖いと思ってしまった、あの時」
眼前に現れたのは、“奏一郎を受け入れられない自分”。
「……今まで知らなかった、そんな自分がいたことに気がついて」
恐怖よりも、焦燥が勝った。
「……奏一郎さんに、知られたくないと……思って……」
だんだんと声を小さくして、終いには黙ってしまった小夜子。奏一郎が小首を傾げたのが、俯いている彼女にもわかった。
心の中で、もう一人の“彼女”が首を振る。
そんな綺麗な言葉じゃないでしょう、と、口にする。
「……嫌われたく、ない」
“彼女”は笑う。
そう、それで正解だ、と笑う。
「奏一郎さんを受け入れられない私なんて、何の価値も無いから。だから、ここから……心屋から出ていくように、言われた時。嫌われたんだって。もしかしたら、どうでもよくなっちゃったんじゃないかって思って。……でも確かめたくなくて、傷つきたくなくて……だから、離れました。奏一郎さんから、離れました。 奏一郎さんのことを、避けていました」
決壊してしまえば、次々に言葉は支離滅裂に吐き出されていく。一気に溢れ出した台詞は、これまでの何よりも本心からの気持ちだった。それがあまりにも、小夜子にとっては醜かった。
一番可愛かったのは、自分だ。
「……でも……」
声が上擦る。
「やっぱり、嫌……」
これも、本音だ。
風が強まる。吹雪が襲う。短くなった髪を容易くさらい、雪片は体を突き刺していく。足の爪先の感覚はもう無い。
感覚がはっきりしているのは手指だけだ。腕だけだ。肩だけだ。背中だけだ。羽織が包んでくれる、そこだけだ。
「奏一郎さんの優しさは、私にはとても眩しかったけれど……とても、温かくて、嬉しかった……!」
どうして忘れていたのか。忘れることができたのか。小夜子が問うも、答えてくれる自分はいない。
純白の地に舞う、金銀の蝶。これを生み出したのは――他でもない“彼”だったじゃないか。
――「一刻も早く、さよに見せたかったんだ」――
そう言って、笑った。あの時の彼の言葉は、表情は――あたたかさに満ちていた。
あの笑顔を見た瞬間、救われた気がした。
――「言いたいことをたくさん言って。さよを理解できるのは、僕が嬉しいから」――
自分を笑って受け入れてくれたのは、いつも奏一郎だったじゃないか。
あの笑顔が、柔らかな言葉が、嘘だったはずがないじゃないか。
「……自分のことしか考えていないのは、わかってます。自分には何もできないのも、わかってます……だけど」
こんな自己中心的な自分を、小夜子は知りたくなかったのに。
「一緒に、いたいです……!」
なんて我侭で、
「奏一郎さんと、もっと話したいです」
なんて、利己的な精神をしているのか、と。
「子猫たちの里親探しも、一緒にしたいです」
相手の迷惑も顧みず、
「お料理だって、もっと教えてもらいたいです。一緒に、作りたいです……!」
それでも、伝えたい。
「一緒に……したいことが、他にもたくさん……!」
吹き抜ける風に、小夜子の声は阻まれる。
言葉を続けたいのに、声は思うように出てくれない。ここへ来て、ぶり返してきた恐怖も邪魔をする。
奏一郎は何を思ったろうか。こんな自分を、軽蔑しただろうか。何もできないで、奏一郎を受け入れることも難しくなってしまったと、自覚し、またそれを露にしてしまった自分を。そのくせ、一緒にいたいだなどと口にする我侭な自分を。




