第十二章:さけるもの ―師走・下旬― 其の参
赤い光が、瞬いて――、
「メリークリスマースっ!」
閃光の白が、時間を止めた。
同時に鳴り響くクラッカーの音。次には、ほんのり焦げた火薬の匂い。一気にざわめいて、散り散りになっていく気配。喧騒な教室。それでも、小夜子の耳は捉えていた。
「言わないんだよね、そういうこと」
呆れたような、それでいて微笑ましく思っているような口ぶりで紡がれた言葉を。
* * *
時計の針が七時に差し掛かっても、場は盛り上がっていた。
「次、十二番!」
「はーい、リーチ!」
「リーチの人は立ってー! さあさあ、そろそろビンゴが出るか!?」
どこから持ってきたのか――マイクを握り締めた静音が、ビンゴ大会の進行を務めている。景品はクラスの人数以上の数を持参して、全員に行き渡るようにしているようだ。平等を尊ぶ彼女らしい、と、リーチにもなりそうにない自身のカードを見ながらも、小夜子は朗笑を浮かべていた。
しかし――。
「五十六番!」
「ビンゴ~!」
「出ました、一人目のビンゴ! はい、おめでとー。くじ引いて、景品と交換!」
場は賑やかだが、小夜子はどこか物足りなく感じた。皆、教卓に立つ静音か、または己のビンゴカードか、あるいは景品の山しか見ていない。だから、誰も気がつくはずがなかったのだ。クラスの中でただ一人だけが、この催しに参加していないことに。小夜子を除いては。
二、三回辺りを見回してみれば、ベランダに佇むひとつの影。寒空の下、吹き荒ぶ風に煽られてしまいそうなほどの華奢な体がそこにはあった。
そっとビンゴカードを机に置き、肩の羽織をぎゅうと握り締めると、小夜子はなるべく静かにベランダへと移動する。その甲斐あってか、ひとつの視線もこちらに向けられてはいなかった。
夜空を映す琥珀色の瞳が、小夜子の気配で小さく揺らぐ。しかし、芽衣がそこから目線を逸らすことはなかった。
「楠木さん、寒く……」
虎落笛が耳に響いたかと思えば、一気に風が体中を包んでいく。見れば、一瞬ではあったが芽衣もぶるりと体を震わせていた。
「……ないわけ、ないよね。どうして独りでこんなところにいるの?」
「……うん。ちょっと、居づらい、のかな」
「え?」
芽衣の浮かべる、微笑み。それがひどく弱々しいものに、小夜子の目には映った。
「つい最近まで、誰に話しかけられても素っ気無くしてたし。こういうイベントとかにも極力、参加しないようにしてたし。……皆との距離感……って言うのかな。少しだけ、わからなくって」
「……そんな……」
小夜子には納得できなかった。
芽衣が誰に対しても素っ気無かったのも、必要以上に人と関わらないようにしていたのも――。
「全部、楠木さんの所為じゃないのに……」
では誰の所為か、と問われれば、小夜子は何も答えられないけれど。芽衣と梢の一件――二人が仲違いした理由を、その真実を、追及したいわけではないからだ。
「そう、思ってくれるんだ。萩尾さんは」
それだけでいい、十分嬉しいよ。芽衣はそう言って、目を細めた。
「いいんだ、どうせもうすぐクラス替えだし。三年になったら、もう少し積極的に人と関われるようになりたいと思ってるんだ。今は、その為のリハビリ期間だと思うことにしてる」
「リハビリ……?」
「うん。今日の打ち上げに参加しようと思ったのは、また別の目的があったんだけどね」
細められた目が、そのまま自分に向けられる。切なげに婉曲するその口元に、なぜか小夜子は魅せられた。
「でも、あんたのその顔見る限りは、失敗だったみたいだ」
風が髪をなびかせる。体を包み込む。だが、そこに寒さを覚えることは小夜子にはできなかった。視界を遮る瞬きも、今は止んでいる。
「萩尾さん……。萩尾さんは、言ったね。私が誰にも相談せずに、皆との距離を置いていたのは、皆を巻き込まないようにしてたんだって。皆を……梢から、守るためだったんだって」
瞬時に脳裏に蘇ってきたのは、埃に塗れた倉庫の空気の重苦しさ。そこで初めて、小夜子は芽衣という人物について理解できた気がしたのだった。
「うん、言った……」
かつての自分もそうだったから、と付け加えるのは、止めた。それはかつても言ったことであったし、芽衣の唇が再び開かれるのを待ったのだ。そして、やがて。
「……私と萩尾さんは、違うね」
小さく、弱い声が、唇から漏れ始める。
「私が皆を巻き込まないようにしていたのは、ただ……自分が嫌われたくなかったからなんだよ」
「……え?」
目を丸くした小夜子に、変わらず芽衣は微笑んだ。
「もう、誰にも嫌われたくなかったんだ。だから、私の方から皆を嫌おうとした。離れた。距離をとった。……『独り』には、割と小さい頃から慣れてたし」
冷えた空気は、澄み切って。
「誰かに嫌われるよりも、自分から独りになるほうが……そのほうがずっと楽だったから」
荒んだ風は、静かになって。
「だから……嬉しかった」
羽のように軽い雪玉を、地上へと誘った。
「萩尾さんが……私にくれた言葉。すごく、嬉しかったんだ」
柔らかな風が、雪を攫う。視界に、ちらつかせていく。それでも、小夜子の瞳に映るのは芽衣だけだった。揺らぐ視界。増える瞬き。
――私は……楠木さんに、何を言った?
疑問が脳内を忙しく駆け巡る。ところがその答えは、
「……『私が普通の人間じゃないとしても』」
芽衣の唇から、零れてきた。
「『一緒にいられない、わけじゃない』」
教室から聞こえる声は、騒がしい。騒がしいはずなのに、彼らの発した声のたった一つの単語さえも、小夜子は捉えることはできなかった。
その言葉に引き出される記憶は、薄暗い倉庫の中。
そして、その言葉を口にした時――語りかけた相手は、梢だった。
心に思い描いていたのは――……芽衣では、なかった。
では、誰を。
「あの時、私がそれを聞いて、どれだけ嬉しく思ったか……萩尾さんには、想像もつかないかもしれない」
小夜子は、ちらつく雪の花びら越しに、芽衣が微笑んでいるのを見た。これまでに見たことがないくらいの穏やかなそれは――誰かを、彷彿とさせて。
「でも私には、特別なんだ」
その、本当に嬉しそうなそれは初めて見たはずなのに――初めて見る、笑みではなかった。
「誰かに自分を受け入れてもらえるなんて、考えたこともなかったんだ……」
雪はちらつき、地に舞い降り、溶けていく。
じわり、じわりと音を立てるように――。
手の甲に、冷たさを覚える。ふと見れば、その正体は雪だったのだろうと小夜子はぼんやりと思う。
あまりにも些末な現象だった。今の小夜子の心を占める、“気づいてしまったこと”に比べれば――それはあまりにも、些細なことだった。
「……同じ、だ……」
静寂に包まれた闇夜に木霊するは、呟き。些か震えるそれの主は、小夜子だった。
「同じだよ。私……楠木さんと同じこと、考えてる」
心臓が、揺れる。視界も、それに続く。全身に巡る血はざわめいて――体が急激に、焔を灯したのが小夜子にはわかった。
「嫌われたく、ない。嫌われたくないんだ……私は……」
――私は……嫌われたくないんだよ。
誰に? と問われれば――答えは、一つしかなかった。
「萩尾さんは」
耳を掠める、ハスキーな声。それはひどく心地がよくて、温かな色を灯していて。
「萩尾さんの、したいようにすればいいよ。私のこと、助けに来てくれた、あの時みたいに……なにも考えずに、行けばいい。思っていること、言えばいい」
体をこちらに向ける芽衣に、小夜子は上目遣いで返す。次には、小夜子の羽織を握りしめ、胸元まで引き寄せる――。
「上手くいく保証なんか無いけど、でも……萩尾さんなら、乗り越えられるって……そう思うから」
まるで、風邪をひかないように、とでも言いたげに。
* * *
芽衣に「ありがとう」と言ったことは確かだ。しかし、静音に何と言い繕ったか。クラスメイトからどのような視線が向けられていたか――小夜子には思い出すことはできなかった。気にかけることも無かった。廊下を、下駄箱を、校門を出てしまえば――そんなもの、記憶の彼方へと飛ばしてしまっていた。
ただ、ひたすら、走った。
勢いを増していく降雪。それは体を刺すようで、徐々に皮膚そのものの感覚を奪っていくのがわかる。
冷える空気。吸い込むことによって、鼻頭が赤く染まっているのがわかる。
激しい動悸。体から、どくどくと音が響く。心臓が、肺が、悲鳴を上げているのがわかる。
それでも構わないと思った。
小夜子の中でせめぎ合う、相反する想い。それらを頭の中で整理するのは、あまりに難しいことだった。
だがそれらの想いは常に、ある一つの答えに繋がっていたのだ。
もう、遅いかもしれない。まだ、間に合うかもしれない。
小夜子は、賭けた。後者に賭けたのだ。
舞い降りてくる雪で、髪を、肌を、濡らしていく。短くなったばかりの髪の毛先に、露がいくつも連なって――ぽつりと、地面に落ちた頃。
小夜子は、心屋の前で立ち止まった。




