第十二章:さけるもの ―師走・下旬― 其の壱
しかしそれも、今日で終わりなのかもしれない――。
朝の七時に起床し、それから小夜子が身支度を整え、朝食を食べ終える頃になっても、空はまだ暗い色を落としていた。雪催いとはこのことか、と思ってしまうような空模様。たしか天気予報でも、今夜は雪が降る確率が高いと言っていた。先日の残りの雪の上に、また新たなそれが積もるのだろう。
ローファーを履いて心屋の戸を開けば、氷をまとったような風が容赦なく体を包み込み、容易に鳥肌を誘っていく。
「寒……い」
店を出てほんの十秒ほどだというのに、既にスカート下の膝小僧は震えを起こしている。男の子が羨ましい――足元に特に寒気を感じて、小夜子は己が女子として生まれたことを悔いた。
「……そんなに寒いんなら、もう少しスカート長くすりゃいいだろうが」
この乱雑な口調は、明らかに奏一郎のものではない。振り返れば、視界に映るは銀色の水筒。玄関先で震えている小夜子を、その円な瞳で見つめている。
「とーすいくん……おはよう。なんだか久しぶりだね」
「おう」
短い応答だけして、あとは身の丈に合わぬはずの新聞を、器用にぱらりと開くとーすい。玄関先に佇む小夜子からは、謎の哀愁漂う彼の背中しか見えない。なぜ背を向けられているのかわからなかったが、それでも小夜子は彼が久々に登場してくれたことを嬉しく思った。
「えっと……奏一郎さんに伝えておいてほしいんだけど。あのね、今日は帰りが遅くなると思う……」
「へえ。まあ気を付けろや」
それきり、口を閉じたとーすい。寡黙な彼などほとんど見たことのなかった小夜子の目には、それはひどく奇異に映った。だから、つい口を開いてしまう。
「……何も、言わないんだね……」
小声の小夜子に一瞥をくれるやとーすいは、
「あ? なんだよ、何か言ってほしい言葉でもあんのか?」
静かな声でそう問うた。怒っているでも呆れているでもない、抑揚のない声色だ。まるで、小夜子との会話を暗に拒否しているかのような――。
そのくせ続けて口を開くあたり、とーすいの真意がわからない。
「そうじゃねえだろ。むしろその逆なんじゃねぇの」
真意はわからない、が。その言葉は妙に容易く、唾を飲み込ませる。
「だって現状に満足してんだからな、おまえらは。そんなやつらに何言ったって、無駄だろ」
その通りだった。“何事も明確にしないこの状況”は、ひどく心地が悪く、だが都合が良かった。心屋を出ていかなくて済む。奏一郎の本当の気持ちを知らずに済む。中途半端な、この現状が小夜子には都合が良い。
そんなことは自覚していた。自覚していたからこそ、数週間もの間、飽きもせずにすれ違いを続けていられるのだ。
それゆえに、胸に引っかかる言葉は、
「『おまえらは』……って」
「旦那だってこの状態に満足してる。……知らなかった、わけじゃねえだろ?」
足場が、崩れていく感覚。何度目か知れぬそれにも、もはや対処に慣れてしまえそうだ。笑顔の仮面を被ってしまえば。足元は、見ずに済む。
目を、細めて。唇を、三日月型に歪めて。
「……そっか。そうなんだ、よね。やっぱり、そうだよね。……間違ってないんだね、私」
後に発せられるとーすいの声は、小夜子には聞こえなかった。否、彼女は聞かなかった。一歩、足を踏み出したのだ。あまりにも冷たい外界へと。だから、知らないのだ。心屋に、静かに響いた言の葉を。
「間違っちゃいねぇよ、おまえらはな。……ただ、面白くねぇんだよ、こっちとしては」
くしゃりと音を立てて歪んだのは、新聞だった。
* * *
十二月二十四日、時は五時間目。高らかに鐘は響いた――期末テスト終了を告げる鐘が。
「いよっしゃぁぁ終わったああぁぁぁぁ二つの意味で――っ!」
後ろから聞こえてきた声に、小夜子は思わずくすりと笑った。この声の主は、本来は不慣れな試験勉強を珍しくがんばったのだ、感慨もひとしおだろう。振り返って見てみれば、静音は椅子の上で立て膝をしつつガッツポーズを決めていた。
「どうだった、静音ちゃん?」
「私ね、過去は振り返らない主義なの」
「うん……その台詞はかっこいいと思うけど……」
テスト用紙に目を通し、己の名がきちんと書かれていることを確認して、そうしてやっと小夜子は安堵の息を漏らした。元々試験前には計画的に勉強する彼女であるが、今回は静音や芽衣と共に試験対策の勉強をしたおかげで結果は期待できそうだ、と思える程には自信がある、けれども。
「解放の冬休み到来だ……! やっと……!」
感極まった周囲の声とは対照的に、彼女の表情は曇る。試験は終わった。それはつまり、「試験勉強」を名目に心屋に帰らないわけにはいかなくなる、ということで。冬休みが来たということは、心屋で奏一郎と過ごす時間が大幅に増えるということを意味する。
いやむしろ、もしかしたら。今日にも言われてしまうかもしれないのだ。心屋を、出て行くようにと。
できることならば、ずっと試験期間が続いていれば……と思ってしまう。そんなことを言ってしまえば、周囲の時が止まるであろうことは目に見えているので絶対に口にはしないが。テストが終わって嬉しくないと思うのは、自分くらいなものだろうということもわかっていた。
問題は、今日はどこで、どうやって時間を潰すか、ということだ。
「Siren night, Holy night. All is calm,All is bright...」
静音が上機嫌に口ずさむのは、街中でもよく耳にする定番のクリスマスソングだ。それを聴いて初めて、ああそうか、今日はクリスマスイヴだったなあ、と今更ながら一人頷く小夜子。
「あの。ね、ねぇ。静音ちゃんは、今日……この後なにか用事はある?」
期待を込めた眼差しに、静音はきょとんとした目で返してくる。
「あれ、言ってなかったっけ? 今日はこの後、教室でクリスマスパーティを兼ねた文化祭の打ち上げだよ?」
「え……えぇ!? そ、そんなこと、言って……っ……たっけ?」
目を丸くして、大きな声を出して。次第に思い出したのか口を小さくして、周囲の視線を浴びたことが恥ずかしいのか身を縮こませる。忙しい子だね、と静音は悠長に笑った。
「たしか、萩尾さんに説明したのって二週間も前でしょ。そりゃ忘れるよ」
毅然とした物言いで助け舟を出したのは芽衣だ。既にマフラーを首に巻いている彼女に、小夜子は二、三度瞬く。
「楠木さん、打ち上げ出ないの……? あ、家族と食事とか?」
その問いに緩く微笑んで、芽衣はゆっくりと首を横に振った。
「ううん、打ち上げには出るよ。今からジュースとかお菓子とかの買い出しに行くんだ。さすがに重いから、他にも何人かいるんだけど……」
その言葉に、小夜子は呆気にとられたような表情をしてしまう。芽衣がクラスのイベントに参加するというのが意外に感じられたのだ。以前の彼女だったら、誰よりも先にこの教室を出ていっただろうに。
「原はビンゴ大会の準備があるんだってさ。萩尾さん、私と一緒に買い物に行ってくれないかな」
そういうのを選ぶセンスが無いんだ、と言う彼女に、小夜子は破顔した。答えはもちろん、イエスだった。




