第十二章:さけるもの ―師走・中旬― 其の十
彼の言い方に、棘など無かった。それでも心臓は自然、どきりと音を立ててしまう。
「は、はい」
奏一郎はもう既に寝巻きであろう着物に腕を通していた。当然と言えばそうだ。平生であれば今はもう、彼が寝ている時間帯なのだから。
もしかして、帰りの遅い自分のことを心配して、待ってくれていたのだろうか?
そんな淡い期待を、嫌でも抱いてしまう。もうできることならば糠喜びはしたくない……そう自覚しているにもかかわらず。
「…………」
続く沈黙。時計の針の音が、心音と重なる。なぜこういうときに限って出てこないのか……と、知らず知らずのうちにとーすいの名を心の中で叫んでしまう。
が、彼の代わりに、だろうか。
きゅうん、きゃうん、という子犬の鳴き声に似た音がこの場に鳴り響く。それはそれは高らかに。音源は紛れもなく間違えようもなく、小夜子の腹部であった。
「……お腹に小動物でも飼っているのか、さよ?」
「ち、ちちちち、違いますっ! お……お腹が減って、鳴ってしまったんです!」
胃袋が空腹を訴える音を誰かに聞かれただけでも充分恥ずかしいのに、真剣な眼差しでそんなことを問われてはその恥ずかしさも倍加するというものだ。冗談で訊いているのか、それとも本気で訊いているのかわからない。一方の奏一郎は、小夜子の心情など露知らず、といった調子で一人で納得している。
「ああ、そうか。お腹が空いたのか。夕食はまだ摂っていなかったんだな」
「は、はい。そうなんです……」
「すぐ用意するから、ちゃんと手を洗ってうがいしてくるといい。雪も降ったし……冷えただろう?」
今朝のそれと同じで、優しい声色。だが、なぜか……小夜子はいつもよりも、その言い方が念を押されているような気がして仕方がなかった。
ちゃんと事情を説明しなくては、と小夜子は思う。今回に限っては不可抗力であれ、これから先も夜遅くに帰宅することがあっては奏一郎に迷惑がかかるだろう。たとえ彼が、自分を心配してくれていようとなかろうと。たとえ言い訳になってしまっても。今後は気をつけていかなければ。
そして、これらの思考が最終的に辿り着くのは――“もうすぐ追い出されるかもしれなくても”。
* * *
大根や里芋、牛蒡に人参など色彩豊かな色味の煮物に、網目の焦げ色を纏った鯖、さらにブロッコリーと玉葱のサラダ。
普段から奏一郎の作る食事は目にも鮮やかで、それだけでなく文句のつけようがないほど美味なのだが、空腹の小夜子には最初の一口がいつも以上に美味しく、そして温かく感じられた。ほかほかと湯気を立たせている味噌汁を飲み終える頃には、雪や北風で冷え切ったはずの体はどこかへいなくなってしまったようだった。
「すっごく美味しいです、奏一郎さん。……ありがとう、ございます」
「いいえ、どういたしまして」
向かいに腰掛ける奏一郎が浮かべる、柔和な笑み。見ていて安心するはずのそれでも、直視することにはまだ躊躇してしまう。
だがそれがどういった気持ちの現れなのかも、小夜子にはもうわかってしまっている。その笑顔が、急に消えてしまうのが怖いから、だ。だから、どうしても目が合うことのないようにと、あからさまに卓袱台に目線を落としてしまうのだ。
だが、それでも。未だに目に見えない恐怖がある――。
「あ、あのですね、奏一郎さん。実は、今日遅くなったのは……」
事情を説明しようと俯かせていた顔を上げると、意図せずして奏一郎と目が合ってしまった。いつにも増して真剣な表情。そこに笑顔などなく、深海を覗いたような碧色は、まっすぐに小夜子の瞳だけを捉えていて。
「……さよ」
「……な、何ですか……?」
静かな空間の中、思い出したかのように心臓が大きな音を立て始める。その一方でだんだんと、顔を近づけてくる彼。
その情景は不思議と、先ほどの橘の姿と瞬時に重なって見えた。
「動かないで」
極めつけに、そんな言葉が耳元で囁かれて――心臓が一つ、どくんと大きな音を立てた。
まずい――! 瞬間的にそう思った小夜子は不意に、
「……あっや……あの、あの!」
一歩、二歩と素早くずり下がり、奏一郎との距離を広げる。そればかりか、額に腕を交差させ、拒絶の意を露わにしてしまう。同時に、今までとは段違いなほどに悲鳴を上げ始める心臓を自覚して――気づかれたくない、と思ったのだ。冷たかったはずの頬が、熱を放ち始めていることに。
「な、なん、何、何なんですか……!?」
なぜ突然に顔を近づけてきたのかと非難がましい、だがそれでいて驚きに見開かれた目で見てみれば、奏一郎は事も無げに小夜子の髪にそっと触れ始めた。それと同時に、ぽつりと落とされた彼の呟き。
「……髪が、濡れてる」
「……へ?」
彼にそう言われ己の頭頂部に触れてみると、うっすらと冷えた水滴が髪全体を濡らしていた。細い毛先に留まる滴は、ぽたぽたと音を立てては畳の表面に水玉模様を彩っていく。どうやら語るには恥ずかし過ぎる誤解をしてしまったようだ、と思うと、小夜子は耳まで真っ赤になった気がした。
「あ、あ、はい。髪に付いた雪が、えっと、その……溶けたのかも、しれません……ね」
雪のおかげでたしかに頭は冷えてはいるが、対照的に頬は熱を放っている。極端なまでの温度差に、どうにかなってしまいそうだ。
ちゃんと拭わないと風邪をひいてしまうな、と奏一郎は言うと、さらにこう続ける。
「僕はもう寝るけれど、さよはお風呂に入ってちゃんと温まってから寝なさい」
珍しい毅然とした命令口調と、今は亡き母親のそれが重なった。
そうして、同時に考える。奏一郎にとって、自分とは何なのだろう、と。やはりどうでもいい存在なのだろうか。少しは、他の人よりは大切に想ってくれているだろうか。そして、何よりも。
自分にとって、奏一郎とはどういう存在なのだろうか、と。
穏やかな声を降らせてくれる、優しい存在、だろうか。それだけ、だろうか。
「……さよ」
己を心配はしてくれているのかもしれないが、“母親のような存在”ではない……それはわかる。
「出て行くときは」
かつての父と同じように呼んでくれるけれども、“父親のような存在”でもない……それも、わかっている。
「ちゃんと、僕に言ってからにしてね」
では、何者なのか。
「……さすがに、少しだけ寂しくなるから」
たった一つの笑みで心臓を締め付け、揺らがせる――彼とは一体、何者なのか。
小夜子はしばらく黙考する。そうして気づいた時には、彼の人は自室へと足を運んでしまっていた。
小夜子は結局、なぜ今日は帰りが遅くなってしまったのか、言い訳をする時間を逃してしまったということだ。奏一郎の言った「出て行くとき」の意味がわかった瞬間には――また、誤解という名の溝に涙が溢れそうになって。
ああ、今日、自分の帰りが遅くなったのは、心屋を出ていったからだと。そう、あの人は思っていたのだ。
違うのに。そんなことを、するはずがないのに。それでもいいと、奏一郎は思っているのだ。
徐に携帯電話を取り出す。「無事帰宅したか?」という橘からの短いメールに、「帰宅しました」とだけ、返して。
あんずが寄り添ってきたのを良いことに、その柔らかな毛に溢れた雫を押し付けるようにして――そうして、雪が止んでいく音に心臓を落ち着かせながら。
小夜子は深い、眠りに落ちた。
* * *
奏一郎とのすれ違いは、続いた。
朝、彼が小夜子を見送ることもなければ、夜になって二人が共に食事をすることも無くなっていた。それというのも、小夜子がテスト期間という名目を使い、時間の許す限りは静音や芽衣と図書館やファミレスで勉強をしていたことが理由として挙げられる。が、やはり奏一郎が再び“あの場所”に足を運ぶようになってしまったことが大きい、と小夜子は思っている。
しかしそんなことよりも、もっと根本的に。お互いに会う気が無いのだから、会えるはずもない。
同じ屋根の下で暮らしていながら、おかしな話もあるものだ……とも、小夜子自身、思うけれど。




