第十二章:さけるもの ―師走・中旬― 其の九
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空の椀と鍋、そしてコップをシンクから掬い上げ、スポンジに絡ませて濯いでいく。ふとした拍子に目線を台所の窓に向けると、サッシに縁取られた雪の厚みに溜息が出てしまった。時計の針は既に夜の九時を刻んでいる。空腹なのはもちろんだがそれ以上に、やはり心の何処かで奏一郎に申し訳ない気持ちが燻っていた。
――美容院で遅くなるとは言っておいたけど、ここまで遅くなったらさすがに心配かけちゃうかな。……私のことどうでもいいと思ってるなら、そんなことないんだろう、けど……。
あまりの己の後ろ向きさ加減に、小夜子は苦笑してしまう。が、今はそうとしか考えられない。できることならば、現実から目を背けていたい――時間の許される限り。
しかし、現実はそう甘くない。
「……雪の勢いが、弱まってきた」
そう呟いて台所に入ってきたのは、未だにふらふらとした足取りでいる橘だった。一時間ほど安静に眠っていたおかげか、頬の赤みも少しばかり引いている。蛇口の水を止め彼に駆け寄ってみると、腕には灰色のマフラーに、群青の上着が重ねられていた。
「橘さん、歩いて大丈夫なんですか? それより……どこかお出かけですか?」
「君を送っていく」
言いながら上着を羽織り、マフラーを自身の首に巻いていく彼。
「もうこんな時間だ、保護者である奏一郎にも悪い。電話もしていないんだろう?」
まあ向こうに電話機が無いんだから仕方ないけどな、と苦笑している。
「で、でも一人でも帰れますよ? 道もちゃんと覚えていますし、それに全快じゃないのに橘さんを外に出すわけには……」
「いいから。……送らせてくれ」
二の句を継がせぬ言い方だった。それ以上は何も言わず、彼は玄関へと足を運ぶ。仕方なく小夜子も、急いで手を拭うと上着とマフラー、それに通学鞄を腕に抱いて、橘の後を追うのだった。
扉を開ければ、白雪が視界の大部分を埋め尽くす。先ほどよりも幾分冷えた空気に、思わず体がぶるりと震えた。スカートを履いているせいか、膝がひんやりとした空気の冷たさを小夜子に訴えかけてくる。
寒さに耐えつつ階段を降りると、橘は傘を広げて待ってくれていた。
「悪い。車で送ってあげたかったんだが、この豪雪で渋滞が起きているらしい」
「私は大丈夫です。そこまで遠くないですし。でも……橘さんは大丈夫ですか?」
「俺のことはいい。……傘、あるか?」
首を横に振ると、彼は傘を傾け、半分をこちらに翳す。
「雪道で滑るかもしれないから、気をつけてくれ」
「は、はい。ありがとうございます」
本当に、どこまでも優しい人だ、と小夜子は思う。まだ体調も万全ではないだろうに。頬に残る朱の色、気だるそうな足取りが何よりの証拠だ。
二人で肩を並べて歩き始めると、
「……それにしても、意外だったな」
橘がそう切り出した。
「何がですか?」
「君だ。看病が上手なんだな。おかげで助かった」
「えへへ、まさか褒められるとは思いませんでした」
感心したように言う彼だったが、それを意外に感じるというのはどういうことなのか……。当の小夜子は、そんなことには気づかない。
「……小さい時、風邪をひいたり熱を出したりすることが多くて。お母さんが看病してくれるのが、嬉しい反面、申し訳なくて……。ゆっくり眠ることもせず、お母さんのことずっと見てたものですから……自然と身に付いてしまったのかもしれません」
そう言うと、橘は苦笑しているような、困惑したような表情を見せた。何か変なことを言っただろうか、と不安に思っていると、彼は瞼を伏せて話し始める。
「……滅多にしない母の話を、なぜ君にはしてしまったのか……今、わかった気がする」
穏やかな、だが少しだけ哀しい色を宿した目には、まっさらな雪景色が映っていた。
「親近感を抱いていたんだろうな、知らず知らずのうちに」
その台詞には、自然と首を傾げてしまう。彼は一体、自分のどの部分に共感したのだろうか、と。たしかにお互いに母を亡くしている身ではあるが、それを小夜子は口にしていないはずなのだ。だが、「滅多にしない」という彼の母の話を、これ以上掘り下げるのも失礼にあたるのかもしれない……そう思うと、何も返すことはできなかった。
夜空に浮かぶ水玉模様は、街灯に照らされる度にその色を変えていく。灰白色から橙色へ、時には白花色へ。ちらちらと舞い降りてくるそれらは、時折傘を避けて、小夜子の鼻や唇にそっと触れてくる。それと同時に、ほんの少しだけ左に傘を傾ける、右隣の彼。
傍から見たら誰も気がつかないような些細な気遣いだったかもしれない。だが彼の持つ優しさというのは元来、そういうものなのかもしれなかった。
特にこちらに視線を向けるわけでもない。反応を欲しているのではないのだろう。感謝されたいわけでは――見返りを求めているわけではないのだろう。
彼の優しさの形は、良い意味で一方的なものなのだ。
やがて、街灯のおかげで明るい歩道から見れば誰もが一瞥もくれないであろう、暗くひっそりとした横道に辿り着く。心屋へと続く道。雪の重みのせいで木々の枝垂れが行く手を阻んでいるが、それも掻き分けてしまえば済む話だ。
「橘さん、ここでいいです」
「……どうせあと少しで着くだろう」
「雪もほとんど止んできていますし、大丈夫です。それにこれ以上外にいたら、また熱が上がってしまいますよ? その傘も、橘さんが持って帰らないと駄目ですよ?」
そう言うと、橘は観念したように瞼を伏せた。看病をしてくれた小夜子からそう言われてしまっては、彼女の言葉に従うほか無い。
「……じゃあ、せめて無事に帰宅したら連絡してくれ」
「あ、はい。橘さんもご自宅に着いたら連絡してくださいね?」
そう言葉を交わしてから互いの連絡先を交換すると、携帯電話を手に、橘は困った表情をし始めた。
「どうかしましたか?」
「……君のことを、俺は何と呼んでいただろうか、と思ってな」
どうやら、連絡先を交換したは良いがアドレス帳に何という名前で登録したら良いかで悩んでいるらしい。姓名で済むのでは、と思う小夜子だったが、名前はともかくとして、橘が彼女の苗字までもを覚えているとは限らなかった。初対面で自己紹介したときに名乗ったきり、姓は口にしていなかった気もする。
「たしか、いつも“君”……で呼ばれていたと思います」
「……我ながら愛想の無いことだ。非常に今更なんだが……何と呼べばいい」
真面目な彼らしい台詞に、ふふ、と笑ってしまう小夜子。
「そうですね……。苗字の『萩尾』でも、下の『小夜子』でも良いですよ? 橘さんから名前を呼ばれるとなると……『さん』付けって似合わないですし。桐谷先輩みたいにあだ名で呼んでくださっても構いません」
「いや、あだ名はいい」
即座に拒否する橘。たしかに、彼から「さよさよ」とでも呼ばれた日には、笑ってかわせる自信が小夜子には無い。
「……来るべき時が来たら、名前で呼ぶことにする」
橘は結局、小夜子の連絡先を姓名でアドレス帳に登録したらしい。
「はい。それでは……えっと、また後ほどです。帰り道、気を付けてくださいね。お大事に、橘さん」
「……すまなかったな」
熱のせいかぼーっとした無表情の橘だが、恐らくその「すまない」には謝罪、そして感謝の意を込めているつもりなのだろう、と小夜子は思う。同時に、
「橘さん」
「……何だ?」
彼らしいとも、思うけれど。
「そういうときは、『すまない』よりも『ありがとう』の方が嬉しいんですよ?」
返す言葉が見つからないのか、橘は何も言わずにただ身じろいだ。その珍しい反応にも少しだけ、笑みを零してしまう。
「えへ。……奏一郎さんの、受け売りですけどね……」
小夜子がそう言った後の橘の表情は……なんとも形容し難いものだった。一瞬だけ目を丸くすると、次には諦めたように瞼を伏せる。その様子に、まだ頭痛がするのだろうか、と彼の顔を覗き込むも、そこには焦点の定まりきらない、潤った瞳があって。この夜空に近い色のそれには、密やかながら人を惹きつける力があるような気がしてならなかった。
この、深く瑞々しい黒、には。
刹那だけ、人を金縛りにあわせてしまえそうな――今は眼鏡が無いから、余計にそう思えるのだろうか。
その瞳が徐々に近づいてきても、特に抵抗を覚えることもない。むしろ、そんな思考能力すら奪ってしまえるのかもしれない。
やがて、額にかかった前髪に、何か柔らかいものが当たった――その時になってやっと初めて、小夜子は一度瞬きをする程度の自由を得たのだった。
前髪越しにでも伝わってくる、熱のこもった吐息。紛れもなく、間違えようもなくそれは橘のもので。
彼の表情が視界に再び現れたその瞬間に、小夜子はとうとう気がついた。先ほど額に当たっていたものが、彼の唇だったのだということに。
当の橘の表情は、全くと言って良いほど変わっていなかった。発熱ゆえの無気力な表情に潤んだ瞳。だがそれでも、彼は精一杯、といった調子で言葉を紡ぐ。
「……君も、気をつけて帰ってくれ。……今日はありがとう」
掠れた、小さな低い声。相当に体が辛いのだろう……そう思うと、
「こ、こちらこそ。送ってくださりありがとうございましたっ」
思わず小夜子の声にも変調が訪れ、妙に裏返ってしまう。だが彼女の言葉を聞き終わるか終わらないかのうちに、橘は踵を返して家路へと足を進めていた。覚束無い足取り。不規則な動きという点では雪にも勝るかもしれない。
彼がちゃんと自宅に戻れるのか、と心配する小夜子だったが……杞憂ということもあるし、と思い彼女も心屋へと歩み始める。
ところが、すぐさまその動きは止まってしまった。
額に残るは微かな違和感。心に残るは不慣れな疑問。
――……えっと。おでこだったけど。……今、私は橘さんにキス……された?
前髪にかかった熱い吐息は、違和感という形をなしてずっとそこに居座ったまま、離れてくれそうにない。先ほど橘が自分にした行為はやはりキスだったのだと、小夜子は認めなければならなかった。
心臓の鼓動がうるさい。その喧騒さついでに、先ほどから続いていた空気の冷たさも忘れてしまえそうだ。
「な、何で……キスなんか……?」
別れの挨拶か。もしくは感謝の意を示したのだろうか。しかしここは日本だ。どこぞの外国じゃあるまいし、そんなことは有り得るのか。
さまざまな可能性――言わば憶測が脳内を何度も往復していく。それをどうにか整理し、いくつも何度も何通りも脳内で検証した上で、最終的に辿り着いた可能性。
――……うん。今のは事故。事故だよね、絶対。
橘は熱を出してふらふらしていた。それがこの寒さで悪化して、小夜子にもたれかかった結果、偶然にあのような状況になってしまったのだろう、と。と言うよりも、それ以外に何があるのだろうか、と。小夜子はそう解釈した。無理矢理、自分を納得させた。
「……か、帰ろう」
そう独りごちて、やっと小夜子は淡雪の中を再び歩き始めた。先ほどのことは考えないようにしよう、忘れてしまおう。そう強く心に誓うも、けたたましい心臓の音はなかなか鳴り止んでくれそうになかった。
触れられた額が熱い。彼の熱がうつってしまったのだろうか……そう思わせられるほどに。
どれくらいそうしていただろうか。気づけばいつの間にか、体は心屋の前にあった。オレンジの明かりの点いた、小さな店の前。
心なしかぼーっとしたまま敷居を跨ぐと――意外な人物と言うべきか、いるべきはずの人間と言うべきか――が、ちょうど廊下を横切ろうとしていた。小夜子の帰宅に気づいたからだろうか、その碧い目をふっと細めている。
「……おかえり、さよ。ずいぶんと遅かったんだな」




