第十二章:さけるもの ―師走・中旬― 其の八
急いで火を止め、椀に粥をよそっていく。味見をしてみるも、特に味に問題は無さそうだ。盆に椀と蓮華を乗せると、小夜子は心なしか急ぎ足で橘の元へと向かったのだった。
独身男性の一人暮らし、となると部屋は散らかっているもの、というイメージが小夜子にはあったのだが、どうやらそれは行き過ぎた妄想であったようだ。橘の部屋は――予想通りと言うべきか予想外と言うべきか――整頓され、片付いていた。先の台所だって例外ではない。定期的に掃除しているのだろう、シンクやコンロに目立った汚れは無い上、勝手に物色してしまった冷蔵庫の中も、潤沢とは言えないまでも栄養バランスが偏らない程度の食材やおかずが詰まっていた。これはもしかしたら、誰かが作ってくれているのかもしれないが。
唯一の例外を挙げるならば、現在目の前にある彼の寝室くらいだろうか。
「橘さん、失礼しますよー……」
そう断って入った彼の部屋も、目立って散らかっているわけではない。ただ、脱ぎっぱなしのものなのか洗濯済みのものなのか定かではない数多の服が、小山になってベッド脇に放って置かれている。几帳面な性格であることに間違いは無いはずだが、とりわけ神経質というわけでもないらしい。
「ご気分はいかがでしょうか?」
「……さっきよりは大分ましだ」
身を起こす険しい表情は、先ほどと何ら変わりは無いように見える。強がっているのか、せめてそう思っていたいのか。
「それはよかったです。えっと……勝手ながら簡単なお粥を作りましたので、召し上がってください。お料理は苦手なのですが、食べられなくはないくらいの仕上がりになっているはずですので……ただ、私がお料理は苦手だという前提を忘れずにお願いします。その方が食べた時にリアクションに困ることも無いかと思いますので……その、『できれば』、でよろしいのですが、それでもあからさまに『不味い』という表情だけは」
「前置きが長い」
ぴしゃりと言われてしまった小夜子は、おずおずと粥の入った椀を渡した。一言、「いただきます」と呟いてから粥を口に運ぶ橘。咀嚼し始めた姿を食い入るように小夜子は見つめる。すると耳に入ってくるは、一口目を飲み込んだ橘の第一声。
「……食べにくいな」
「ええ!? どどどど、どのようにですか!? ぼそぼそしてましたか!?」
「いや、そうじゃない。そこまで真剣な顔で凝視されると食べにくいという意味だ」
そもそもお粥がぼそぼそすることなんかあるのか、と言われ、小夜子はうう、と身を縮ませた。
「いえあの、先ほども申し上げましたが私はお料理が苦手ですので、味見もしましたが味覚オンチの場合もありますので、ええっと……」
「ああ、そういうことか。多少味は薄い気もするが、美味しいぞ」
『美味しい』。そのたった一言に、小夜子の心は一気に浮上する。
「ああ、よかったです……っ」
多少、料理の腕が上がったのかもしれない。お粥が上手く作れたくらいで喜ぶのも可笑しな話かもしれないけれど――思わず綻んだ頬。それに橘がふう、と安堵の吐息を漏らした。
「……よかった。笑うんだな」
「え?」
小夜子が首を傾いでいると、何も言わずに粥を再び口に入れる彼。どうやら、本当に不味いわけではないらしい。
「いや。……人の料理を食べるのなんて久しぶりでな。感想を言う、という当然のことを忘れてしまっていた。すまない」
それだけ言って、ふと目を逸らす彼。不器用ながらもそう言葉を落としたその姿に、ますます小夜子は頬を緩ませてしまった。そしてそれと同時に、
「あの冷蔵庫の中のお料理は、橘さんの手作りだったんですね」
感心してしまう。一人暮らしながら部屋の整理整頓ばかりか、手料理までこなしてしまうとは。さすがは橘さんだと、心の中で拍手を送らずにはいられない。
だが一方の橘は、きょとんとした顔で小夜子を見つめている。
「……他に誰が作るんだ」
「え? 私は彼女さんが作りに来ているんじゃないかと思ったんですけど……」
「俺にそんなのはいない」
さらりと言ってのけてしまうから、尚更のことなのだが――意外だ。端正な容姿をしていて、何よりこんなにも心優しい人に、恋人がいないだなどと。
思いっきり表情に出してしまっていたのか、橘が眉を一瞬顰める。
「……そんなに意外か」
「はい、意外です」
「……『いる』と言って意外に思われるよりは、ましなのか?」
複雑な表情をしながら、彼は粥を食し続ける。
「彼女さん以外にも、お母さんとかが作りに来ているんじゃないかと思ってたんですけど……すごいですね、橘さん。まさか自分で作ってしまうとは……」
「母親ももう、いないけどな」
「…………え」
これまた、さらりと言ってしまうから。思わず、心臓が大きな音を立ててしまう。
「え……あ、そうなんですか。ごめんなさい、無神経でしたよね」
「そんなことはない。もう六年も前の話だ。いまさら感傷に浸るような話題でもない」
――……そう、なのかな。
橘が淡白すぎるほどにあっさりとそう言ってしまうから、小夜子は疑問に感じずにはいられない。自分も八ヶ月前に、母を亡くしているけれど。その悲しみは、全くと言っていいほど癒えていないけれど。六年という歳月が経過しているからと言って、そんなあっけらかんと話題に出せるほど、乗り越えられる悲しみなのだろうか。
「六年前、というと……二十歳の時、ですか」
「ああ、そうだな……成人式を迎える前だったからな」
父は最初からいなかった、と橘は言う。最初から、というのはつまり、彼が生まれたときには既に、という意味で。
「何故自分には父がいないのか疑問に思ったことはあったが、母に訊くのも親戚に訊くのも、母に悪いような気がしてな。誰にも何も、一度も訊かなかった。母は母で、『自分が父親の分も愛してあげるから』と言ってくれていたし。……一人二役をしてくれていたんだ」
毎晩仕事で遅くに帰ってくる母のために、と家事を覚え、独学だったが母を喜ばせようと勉強も一生懸命したつもりだった、とぽつりと呟く彼。貧しい生活でも、二人でいれば楽しかった、と。粥を食べる手は止めていない。
「将来的には、俺のためにいつもがんばってくれていた母に楽をさせてやりたいと思ってな。高校生になった頃には勉強に更に力を入れた。……そのせいで、母と会話する回数が減ってしまったというのは皮肉な話だが」
自嘲めいた笑みそのままに、粥を口に運ぶ彼。
「大学入学を果たしたと同時に、公務員になろうと決めた。安定しているし、母もそうだったからな。あと数年、あと数年だけ努力すれば母に恩返しができる、そう思えば……何だって出来る気がしていた」
我ながらマザコンの気があったかもしれないな、と橘は笑んだ。
「成人式を迎える、ほんの二週間前だった。大学の講義中に、母が交通事故で亡くなったと、母方の叔父から知らせが入ったんだ。呆気なかった……あっという間だった、本当に。昨日まで続いていた日常が、突然に消えて、失くなってしまうんだ」
それから後の葬儀中は、夢でも見ているような気分だったという。硬いアスファルトの上を歩いているはずなのに、延々と柔らかな綿の上を歩いているような感覚が離れずに。気が付けば、公務員試験の面接を受けていたのだそうだ。
「まあそれからも……手続きやら親戚への挨拶やらで忙しくてな。悲しみに浸る暇も無かった。叔父夫婦が面倒を見てくれたこともあって、在学中に困るようなことはとりあえず、何も起きなかったのは本当に幸いだったな」
懐かしむように言う彼の目に、潤いは無い。「ごちそうさま」の声が静かに響いた次の瞬間には、からん、と軽い音を立て、蓮華が空の椀に収まった。
「公務員試験の合格通知を手に、母の墓まで報告しに言った。……その時だったな。初めて涙が出たのは。悲しみを受け入れられたのは」
なぜか墓石に向かって語りかけることに、何ら意味を感じられなかった。だから、ただ佇むことしかできないでいた。最終的に心の中で湧いてきたのは、悲しみというよりも――後悔だった。
「勉強をがんばったつもりでいた。恩返ししようと努力してはいた、つもりだった。だが……本当にすべきだったのは、それじゃなかったんじゃないか……と思ったんだ。きっと、勉強するよりももっと……もっとたくさん、一緒に話をするべきだった」
勉強だけじゃなくて。もっと、他にもできることがあった。あったはずだった。
「将来の恩返しよりも、一緒にいた“その時”に、感謝の言葉を伝えるべきだったんだ。最後に母と何を話したのか……思い出せないくらいなんだ、情けないことに」
目を伏せる彼の表情が険しいのは、熱のせいか、それとも。
「……失ってからじゃ遅い、なんてよく聴くが、まったくその通りだと俺は思う。君も、な……誰かに、何か伝えたい大切なことがあるなら、それは早くに伝えてしまったほうがいい。……轍を踏んでほしくはないんだ、俺が」
そこまで言って、橘は先ほど小夜子が手渡したスポーツドリンクに手を伸ばす。が、それが橘の口に辿り着くことはなかった。身を固まらせてしまったのだ、予想外の出来事に。
「……ええっと、だな。なぜ、君が泣く?」
「……う……」
小夜子は隠そうと思っていた。できることならばと、橘にはばれないよう俯いて話を聴いていたのだ。それなのに、彼にはやはりお見通しだったらしい。ぼたぼた、という音を立てて落ちてくる大粒の涙を隠すことなど、土台無理な話だったのかもしれないが。
「ご、ごめん、なざい、私が泣くとごろでばないのばわかって、いるのでずが……」
濁声と嗚咽が混じる。橘は困ったように、一度だけ頷いて続きを促した。どこまでも優しい人だ。また一つ、涙が頬を伝っていく。
「た、橘さんのそういう話……聞くの初めてで。ああ、苦労されたんだな、がんばってきたんだなあと思うと……でも、そのがんばってきたものを橘さん自身が後悔しているみたいで、橘さんみたいな優しい人が、自分を否定しているみたいで……なんか……こう、急に悲しく、なってしまって……」
そう、彼は優しいのだ。誰にでも、分け隔てなく。気を遣いすぎるほどに心配性で、まるで自分のことのように考えてくれる。そんな人など滅多にいるものではない、と。過去の積み重ねが今の優しい彼を形作っているのだろう、と小夜子は思う。思うのに。
彼が今までの自分を否定しているようで、それが小夜子にはひどく寂しく感じられたのだ。
「あー……あの、な。どんな生き方をしても、どんな人間にも、多かれ少なかれ後悔っていうのは生まれるもので。それを思い起こすたび、そうだな……自分を否定する時もあるが。……それでも俺は、今の自分をそこまで嫌いになりはしないんだ」
声に焦りが生じているものの、橘は至って落ち着いた風を装っていた。
「勉強したおかげで、今の仕事に、良い同僚にも巡り合えた。……一度道を踏み外してしまったが、奏一郎や……君が、俺に本当の自分を思い出させてくれた。もう俺は、それだけでいいんだよ。これから先、何度後悔したとしても、俺は自分を嫌いになりはしない。周りに恵まれている自分は、むしろ好きなくらいだ」
だから、君が泣く必要なんかないんだ、と穏やかな声色が耳に入ると、小夜子はすみません、と言ってから布に顔を埋めた。すると再び耳に入ってきたのは、ふう、と少々呆れたような溜息だった。
「……笑ったと思ったらすぐに泣く。感情表現が豊かなんだな」
「うう、た、単に泣き虫なだけです……っ」
「君は……しょうがない子だな」
布から両目をふと離してみると、目に飛び込んできたのは橘の笑みだった。初めて自分へと向けられた、彼の心からの笑みだった。
苦笑だとか、自らへの嘲笑だとか、片方の口角を上げたような笑みなら見たことはあるけれど。そこにあったのはゆったりと細められた目、緩やかな曲線を描く口元。平時の張り詰めたような雰囲気を一切感じさせない、柔らかな笑顔だった。
眼鏡を外しているせいもあってか幾分幼く見える彼のその表情に、思わず小夜子は見惚れてしまう。そうして次第につられたように、小夜子もふっと笑みを零してしまうのだった。
「……はは……。やっぱり、橘さんは可愛いですね……」
「……『“可愛い”と言うな』とあれほど……」
橘の頬に朱が差したのは、熱のせいなのか。それとも、単に恥ずかしがっているだけなのか、あるいは両方か。それはわからなかったけれど、小夜子は頬に伝う熱いものが温かくなっていくのを感じた。外の空気も、それに比例するかのよう。大粒の白雪は、まるで粉砂糖のような細かな形へと姿を変えていった。




