第三章:よわいひと ―葉月― 其の参
* * *
朦朧とした意識の中。水中を彷徨っているような不思議な感覚を小夜子は味わっていた。体中の熱がどこかへ放出され、時折自分を撫でていく何かが大層心地良かった。これは、波か。風か。だんだんと意識が明瞭になってくると、後頭部に違和感を覚え始める。
──……頭、痛い? ズキズキする……。
「……おい……」
次第に、遠くから声が聞こえてくる。うっすら目蓋を開くと、そこには靄がかった視界が広がっていた。それもやがて鮮明な色を帯び始め、それに比例するように意識もしっかりし始める。先程から聞こえてくる声も、だんだんと耳障りになっていく。
「……おい、起きろ! 起きやがれ、こらぁ!」
──もう……だ、誰? 知らない……聞いたこともない声。小学生みたいな、高い声……。
ゆっくりと、知らない声の言いなりに体を起こす。眼前に広がるのは、薄紫色の空に、夕日に照らされた木々──。
「……どこだっけ、ここ」
「森林だぞ、ここ」
──…………ん?
声がしたのは──足元からだった。“銀色の商品”──の正体は、どうやら小夜子が昨日落とした水筒だったようだ。取り返すのに必死で、今の今までそのことに全く気づかなかったのだが……。
その水筒が、立っていた。
『立っている』と一口に言っても、ちゃんと“足”があって。『足がある』と言っても、人間のようなのではなくて。その体を支えるためだけに存在した、絵に描いたような“棒”の足。
同様に、手がある。黒ごまのような目も。への字に曲がった口も──。
そう理解した瞬間、小夜子の目はこぼれ落ちんほどにカッと見開かれた。
「……きゃああああぁぁぁぁぁぁああっ!!」
小夜子の悲鳴は、森中に木霊する。
「ううううるっせえ! 目の前の現実を受け入れやがれ小娘が!」
その喋る水筒は、仁王立ちで小夜子に説教する。小夜子の絶叫に負けない声量で。
落ち着いてよく見ると愛嬌が無いとは言えないが……。いや、おかしいだろう。何故水筒が喋る? 動く?
腰が抜けてしまった小夜子に、走って逃げることはできなかった。
「な、なん、な、何、これ!?」
「“これ”だと!? てめぇ、命の恩人に向かって!」
少し機嫌を損ねたらしい彼──ということにしておく──の言葉に、小夜子は見開かれた目をさらに丸くする。
「お、お、おんじん……っ!?」
「この崖からまっすぐ落ちていくおまえを! 引っ張って! 頭打たないようにしてやったんだろが! この! 俺様が!」
彼が指したのは小夜子の背中。そちらを見ると、そこには三、四メートルほどの小さな崖が聳え立っていた。落下先がやや湿り気のある地面だったから良かったようなものの、勢い良く頭を打っていたら打撲や気絶だけでは済まなかったかもしれない。
「小さな崖と侮るなよ。打ち所悪かったら死んじまうぞ!」
威張った様子で彼は胸を張る。と言っても、水筒の体はまっすぐなので、張れる胸など無いのだけれど。
深呼吸をし息を落ち着かせると、心臓も徐々に落ち着きを取り戻していく。やっと、この奇異な存在を小夜子は受け入れ始めていた。口調や態度はいただけないものがあるが、どうやら悪いモノではなさそうだ。
「え、えっと、助けてくれて、ありがとう……ございます。……あ、あの、あなたはいったい何なの? 生き物、なの? ていうか生きてるの?」
「俺様は“とーすい”だ。“とーすいくん”と呼べ、この小娘が」
偉そうな自己紹介を済ませた彼が、一つため息を吐く。この傲慢な態度に怒りや苛立ちを覚えるよりも前に、小さな驚きに小夜子の意識は揺れていた。
──息……吸ったり吐いたりするんだ……。
小夜子の思案をよそに、とーすいは饒舌に続ける。
「俺様はまだ、それについて言ってはいけないことになっている。だが、俺様は奏一郎の旦那から創られた。これは事実だ」
「……奏一郎さんに?」
──……奏一郎さんが……え、何のために?
「と、とーすいくんが喋ったり……動いたりって……奏一郎さん、知ってるの?」
「当たり前だろ。俺様を『創った』っていうのは……『意志』をって意味だ。このパーフェクトボディのことじゃない」
「パ、パーフェクトボディですか……」
『パーフェクトボディ』と言ったときだけ、声が幾分低くなった気がした。
──ほ、本当にあるんだ、こんなこと。十六にもなって、まさかこんなファンタジーに出くわすとは……。
「おい、日が暮れっちまうぞ。早く帰ったらどうだよ? 本来は店番してなきゃなんだろ?」
「……あ、そうだ! は、早く帰らなきゃ……っ」
「俺様を連れて行け、女。このパーフェクトボディに触れられることを誇りに思え!」
「……パ、パーフェクトボディ、ですか……」
* * *
薄紫色の空は、徐々にその濃さを増していた。
先程まで煌々と照らしてくれていたオレンジ色の街灯が、ぽつりぽつりと少なくなっていく。それに気づいて、ああもうすぐで心屋に着くのだなあと奏一郎は心の片隅で思った。
「……すっかり、遅くなってしまったな」
もう必要ないだろうと判断し、小豆色の番傘を畳む。
──……弱い、弱いなあ。……人間は、弱いなあ。
「そ、奏一郎さん」
控えめな声にふと視線を上向けると、心屋の店先に小夜子が立っていた。申し訳なさそうに俯いて、眉を八の字にして。腕には銀色に光る──とーすいがいる。シャッターは開けておいたのだから、中に入って待っていれば良いのに、と奏一郎は思った。
「……あの、万引きされた商品、この……とーすいくんですが、ちゃんと取り返しましたから。だから……っ」
「……ふっ」
口元を押さえて、奏一郎は笑った。
「な、何で笑うんですか……!」
「や、だって、さ。君が泥だらけだから……」
街灯の少ない薄暗い道でもわかる。小夜子の顔も服も所々が泥で汚れてしまっていた。
奏一郎が笑うのを止めないので、小夜子は少し面白くない。せっかく必死になって取り返してきたのに、と。いや、元はと言えばカラスに商品を盗まれたのは、小夜子の集中力が切れていたせいでもあるのだが──。
「し、仕方ないじゃないですか。色々、大変だったんですから! そ、そんなに笑わなくてもいいじゃないですか……」
言い終わるにつれ声のボリュームは落ちていく。自分の浅はかさに気付いてしまったのだ。少し、期待していたのかもしれない。また、誉めてくれるんじゃないか、と──。
「はは、悪い、悪い……。さあ、夕飯にしよう。あ、先に風呂に入った方が良さそうか?」
そう言って奏一郎は再び笑う。少しだけ、小夜子は唇を尖らせた。そんなことは知らぬとばかりに奏一郎は心屋に入り、店の明かりを点け始める。明るいオレンジの電灯に照らされた店を眺め、彼はぽつりと呟いた。
「……君が来てから、この家は明るくなったな、さよ」
「え」
──今、“さよ”って呼んだ……?
名を呼ばれた瞬間、懐かしい感覚が全身を駆け巡っていく。そう呼ばれたのが、いつが最後だったろうか……までは、思い出せないけれど。
腕に抱えた水筒が、ぴくりと動く。
「……あ。あの、奏一郎さん」
「ん?」
──……訊いて、いいかな。いいよね?
「……奏一郎さんは、その、何者、なんですか?」
この問いに、一瞬目を丸くしたかと思うと──再び、微笑む彼。その笑みは前にも見たことがある。そう、階段で。あの時と同様、オレンジ色の明かりに照らされたそれは、妖しく、少しだけ冷たくて。
「……僕は、人間だよ。……そういうことにしといてくれ、今は」
そう言って、まだ明かりの点いていない奥の部屋──暗闇へと、消えた。
「早く入りやがれ、女。俺様は腹が減ってんだ」
腕に抱えられたまま、偉そうに命令をするとーすい。それでも小夜子は、彼のその態度に腹を立てることはない。
「……お腹……減るの?」
そういった小さな疑問の方がまだ、消化しきれていないから。
* * *
奏一郎は空を見ていた。満天の星空。黒い影を背負った、青白い月。
あの親子もあの時、同じような空を眺めたのだろうか──。そんなことを、ぼんやり思いながら。
「……今日はご苦労だったな。まさか、カラスに襲われるとはなー」
「冗談は止せよ、旦那」
卓袱台に仁王立ちするとーすいは、どこか立腹しているようだ。
「旦那はわかってたんだろ? 俺様が今日、ああなるってこと……」
「うん」
奏一郎は笑う。
「それで、試してたんだろう? あの女がどう動くか。または動かないのか」
「まぁね。嘘を吐くような子や、商品を大事に扱ってくれないような子とは、一緒に生活なんてできないでしょう? まあ、そんな子じゃないってことも、最初からわかってたけどね」
悪びれる様子も無く、あっさりと白状する。
「……あの女が崖から落ちることも、か?」
「あはは。うーん……あれは正直、予想外だったなあ。あそこまで店のために必死になってくれるとは、思っていなかったから……」
──人間は、弱い。とても、弱い。
……でも、それでもいいから。
「早く、欲しいなあ……」
* * *
携帯電話の奥から聴こえてきたのは、本来なら聴き慣れているはずの、久々に聴く声。
《……お父さん、な。今日からしばらく、海外に行くことになったから。……会えなくなるが、風邪、ひくなよ。怪我もするんじゃないぞ。……お父さんも、煙草はもう止めるから。いつでも、おまえのこと、迎えに行けるようになるから。だから》
少し弱々しい。
《待っててくれな、さよ……》
穏やかな声。
機械音が、留守番電話のメッセージの終わりを告げる。
小夜子は独り、涙を流した。
部屋の窓から見えたのは、あの日と同じ満天の星空──。
〈第三章:よわいひと 終〉
次章
第四章:こわいひと ―長月―
数々の、新たな出会い。
物語は紡がれる。
淡く、静かに。
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