第十二章:さけるもの ―師走・中旬― 其の七
橘の呟きに反応できず、ほんの数分前には何の変哲も無い夜空が広がっていたはずなのに……と、小夜子は一時呆然としてしまう。こんな突然の豪雪に見舞われることになろうとは想像だにしていなかったのだ。
「た、橘さん。ご迷惑でしょうが、その……雪が止むまでは、ここにいさせてはもらえないでしょうかっ? こんな吹雪の中出歩いては、風邪をひいてしまいます……!」
髪や制服に付着した雪をふき取りながら、勢いづけて懇願する。しかし橘は意外なことに首を縦には振らず、苦々しげな表情を浮かべるばかりだ。
「……俺と一緒にいても、風邪はひくと思うが……」
呆れたようにそう言う彼にたじろいでしまう。が、小夜子はすぐに思い直した。どうせ同じことなら、と。
「い、いえ。同じ風邪をひくのなら、橘さんの看病をして風邪をひきたいです!」
「…………」
その言葉に、今度は橘の方が押し黙る。しばらく目を瞑って黙考し始めた彼だったが、もはやそんなことすらも面倒に思えてきたのか、億劫そうに眼鏡を外し、
「……本当にどうなっても知らないぞ、俺は」
それだけ言って、再びベッドに倒れこんだ。
――……今のは、「いてもいい」ってことでいいのかな? いや、その解釈はちょっと都合が良すぎるかな……。
壁のほうへ体を傾けてしまった彼の体調を案じながら、小夜子は台所へと向かう。簡単なおかゆを作るだけ、だから失敗をすることは無いだろう……そのはずだ、と己の心にに何度も言い聞かせながら。
* * *
牡丹雪が裏庭に降り注ぐ様を、縁側に腰掛ける奏一郎はただひたすら見つめていた。特別、どこを見ているわけでもない。徐々に雪色に染め上げられていくであろうその場所に、たまたま視線を置いていた……そういう風だ。
「よう、旦那」
振り返らずとも、背後の声の主はわかっている。しかしその声に応える前に、奏一郎は一度目をぱちくりさせると、眼前に広がった光景に感嘆の声を挙げてしまった。
「おぉ……。すごい雪じゃないか、とーすいくん」
「旦那、目ン玉大丈夫か」
とーすいが奏一郎の傍らに腰掛け、二人で暗黒色の空を見上げる。北風に吹き上げられ、それでもまた舞い落ちていく雪たちは、徐々にではあるが地にその身を浸透させていった。地に降り立つ合図として、それらはさわ、さわと仄かに囁いて、とても耳に心地よい。
「どうりで、今朝は空気が澄んでいるなぁと思ったんだ。どれくらい前から降っていたんだ?」
「……ざっと、十分前からだな……」
それきり、無言の二人。口を開こうともしない二人。だが互いに、相手の胸の内はわかっている。
「……なぁ、旦那」
「うん」
「あの女、遅くねぇか」
それだけ言って、碧の目を横目で見るとーすい。だがそれに対し奏一郎は、
「そうだなぁ」
と、呑気に受け流すだけだった。そんな彼の様子を見て、その瞳に雪は映ってはいるが、本当の意味では映っていないのだろう、ととーすいは思う。
「迎えに行くとか、しねえのか」
無駄だとわかっていながらそう問うと、予想通りの表情を傍らに向ける奏一郎。
「どうして?」
荒れ始めた風の強さに反するかのような、穏やかな笑みだった。
目を背けたとーすいは、
「……いや、言わねえ」
そう小さく呟いて、再び裏庭に視線をやった。そんな彼に、奏一郎は目を細める。
「はは……やっぱり優しいんだなあ、君も」
そう言う奏一郎の眉が、心なしか八の字に歪んだようにとーすいの目には見えた。そう見えただけで、実際はそうではなかったかもしれないが。
「僕は、やっぱり駄目だなあ。どれだけ多くの人の心を手に入れても、肝心なところは絶対に理解できないみたいだ。どうしてさよの帰りが遅いからって、迎えに行く必要があるのか? とか。君に訊かないと……答えを教えてもらわないと、わからない」
その言葉に、珍しげに目を丸くしたとーすい。
「……苦しいのか、旦那」
「うん、そうだね。苦しいねえ」
言葉とは裏腹に、空を仰ぎ見る奏一郎の微笑みは和やかなものだ。
「……でも、僕が感じている苦しみと“あの子”が感じていたものは、少し違う気がするんだよなあ。“あの子”は自分を理解してくれる人がいなかったことを苦しんでいたけど。僕は、人の心を理解できないことが苦しい。けれど……こんな心、どのお客様からも貰った記憶が無いんだよ、不思議なことに」
「ふーん……」
興味無さげにそう返すとーすいは、地に視線を落としていく。やがて、重々しげに開かれる小さな口。そしてそこから、紡がれる言葉。
「まあ、それが旦那の心なんだろ」
「……僕の?」
「そうだ。誰から貰ったものでもない、旦那から生まれた旦那だけの心だ」
実感が湧かないのか、奏一郎は二、三回だけ目をぱちくりさせた。
「僕だけの……ねぇ」
それだけ呟いて、再び空を見上げる。
「それは……果たして良いこと、なんだろうか」
「さあな。だが、今の自分の心を理解する手助けにはなるだろ?」
さらりとそう言ってのけるとーすいだが、一方の奏一郎はただただ、苦笑を浮かべるばかりだ。
「自分の心……か。……うーん、理解できる気がしないなあ」
「……そうやってあっさり諦めちまうところが、旦那の一番悪い癖だよな」
「そうか? ……諦めの悪い性格だと、自分では思っているんだけどな」
そう言って目を細めるも、その視線は相も変わらず空に注がれたまま。
風はがたがたと障子を揺らし始め、木の葉をざわつかせる。それと同時に、降り注ぐ六花も勢いを増し始めた。縁側にも雪の欠片は舞い降りて、それはすぐさま溶かされて、一つの小さな露となる。
「……吹雪いてきたな……」
奏一郎は億劫そうに立ち上がり、雨戸を引いて縁側を後にした。風のすすり泣く音が静やかに鼓膜に響くようになり、外の様子を一瞬だけ忘れさせてくれる。
その代わり。
その場にはもはや雪明りすら無い常闇と、仮初の心の深淵を覗き込まんとする、静かな声だけが残された。
「なぁ、旦那。旦那は一体、何を恐れているんだ?」
雪の降り積もる音が聴こえてきそうだ。しんとした静寂が、辺りを包む。やがて、
「……そんなの訊かなくても……君は知っているはずでしょう?」
熟慮した結果、そう問い返す碧眼の彼。それでも、一方のとーすいの答えは、意外にも――。
「いいや、知らねぇ。少なくとも俺様は、そんな怯えた目をした旦那を見るのは初めてだ」
「…………」
奏一郎を、黙らせた。さらに、とーすいは続ける。
「なぁ、旦那。旦那の恐れているものって、暗闇なのか? 旦那が本当に恐れているのは、暗闇の、さらに奥にあるものなんじゃねえのか」
――「暗闇の、さらに奥にあるもの」――
心の底から響いたその言の葉は、碧眼を大きく見開かせるには十分だった。
「……とーすいくん。それって、何?」
「それは自分で考えろよ」
早口で返すとーすい。その声色には、呆れと焦慮がじわりじわりと滲み出ている。
「旦那ってよ、努力したことはあっても苦労したこと、ねえだろ。知ってるか? そんな人間、この世には誰一人としていねえんだよ。皆、暗闇の中でもがいて、足掻いて、そんでやっと自分の答えを見つけられるんだ。旦那にはそれが無ぇ。たまには旦那も、暗闇の中を歩いてみやがれってんだっ」
それだけ言い残し、どうやらとーすいは“普通の水筒”に戻ってしまったらしい……。奏一郎は溜息を吐く。と、同時に思う。
――……暗闇の中を、歩く?
意味が解らない、と思うけれど、それでも目的も無く手を伸ばす。掴んだのは、空だけ。感触も何も無い、“無”だけ。
「懐かしいな」
独りごちて、ふっと微笑む奏一郎。時を同じくして、冷たさを帯びた空しさが胸を通過していく。
“暗闇の、さらに奥”……その言葉の意味が、解ったような気がして。それでもやはり、解らなくて。
「……滑稽な話だ」
――暗闇の中では、何も見えないのに。光が無ければ、何も見えないのに。それなのに、その奥にあるものを……それが何であるかを、理解しろと言うなんて。
「……今の僕と同じだったかな。“あの子”は……理解していたのかな……」
返事の無い独り言は、誰の耳に留まることも無く。雪のように、徐々に足元に浸透していった。
* * *
降り止む様子をまったく見せないまま、牡丹雪は次々と、流れ星のような速度で視界を通過していく。粥に火を通しつつ、台所の小窓の縁に白雪が積もっていく様を、小夜子は複雑な気持ちで見つめることしかできないでいた。
心の中心に渦巻くのは、やはり奏一郎のことだ。
大雪に見舞われているとはいえ、帰りが遅くなってはやはり心配させてしまうだろうか、と考えてみても、心屋には電話が無い。連絡手段など無いのだ。
一言、奏一郎に断ってから橘の家に来るべきだったろうか、と考えてみても、それでは橘は頑として、家に入れてはくれなかっただろう。
――……結局、こうするのがベスト、だったのかなあ……。
鍋の中身が過剰に沸騰し始めたのは、それから間もなくのことだった。




