第十二章:さけるもの ―師走・中旬― 其の六
美容師の話を聞くに、杉田に頼んで紹介してもらったこの美容院は、彼女のかつての教え子が開いたものらしい。どうりで、豊富な話題を提供してくる割に小夜子の髪の毛については一切触れてこないはずだ。
杉田が予め、ある程度の事情を話してくれていたのかもしれない。
鋏の音が耳に響くのと同時に、舞い落ちていく髪の毛は胡桃色の糸となっていく。目を閉じていると、あの倉庫にいた時のかつての記憶と現在とが重なって、無意識のうちに瞼を固くしてしまう。
耐えに耐え、じっとしているうちに……一時間弱ほどで、カットは終わった。
腰まで届いていた髪は肩にふわりとかかるほどに短くなってはいたが、小夜子はそれでも思っていた以上に安堵していた。ああ、こんなものか、と。
梢に髪の毛を切られた当初は、少なからずショックを受けてはいたのだ。しかしよくよく考えれば、ショックを受けることなど無かったのだ。
長かった髪が、少し短くなっただけ。どんなに短くなっても、髪はいずれは伸びるものだ。
会計を済ませた後、軽く会釈をしながら戸を開けると、冷え冷えとした空気が身を包み込む。どんよりとした灰色の雲は青空を覆いつくし、北風は肌を容赦なく刺していく。そのせいか行き交う人々は、急かされるように早足で帰路に就こうとしていた。
髪が以前より短く揃えられたおかげで、項にするりと這う北風は容易に体を震わせる。
「さむ……」
独り言とはいえ、口に出さずにはいられない。そして、この言葉を吐くのと同時に思案する。これから、どこへ行こうかと。
心屋へ帰る、という選択肢が真っ先に出てこないのを不思議に思う小夜子だったが、今朝の奏一郎の穏やかな微笑も一時のことなのかもしれない……と思うと、帰路に就くのが躊躇われた。また心屋の戸を開ければ、彼は己の生まれた場所へと足を運んでしまっているかもしれない……小夜子を避けるようにして。
今日は、大丈夫だろうか? 大丈夫かもしれない、だが今日ももしかしたら、駄目かもしれない。
この問答を心の中で繰り返したのは初めてではない。
母が他界し、父親である徹との二人きりの生活になった時など毎日のように、幾度も幾度も頭の中で巡らせたものだ。慣れたはずのこの問答を、なぜ今は息苦しく感じてしまうのだろう――……。
俯きながら、何処へ行くとも定めずにとぼとぼと歩き始める小夜子だったが、ふと視界の天辺に映る人物に目を奪われる。先ほどからすれ違う人々は多くいたのだが、それでもそのたった一人だけに気を取られてしまったのは――彼方からこちらに向かってくる影が、まるで真夏の陽炎のようにあまりに覚束無い足取りであったからだ。そして恐らくその影が、よく知る人物のものであったからだ。
「橘さん……かな?」
揺らめきながらも徐々に存在感を増す陽炎は、片手で項垂れた頭を押さえるようにして歩を進めている。彼の動きがあまりに緩慢なのは、周囲の空気が忙しないから、そう目に映るだけなのだろうか……。
「橘さーん……?」
やや躊躇しながら小声でそう呼びかけると、頬を朱に染めた橘が小夜子の存在に気がついたようだった。漆黒の目は平生よりも厳しく細められており、小さく開かれた唇からは絶え間なく吐息が漏れている。
「……君か……久しぶりだな」
「ど、どうしたんです? 熱でもあるんですか……?」
「そうらしい」
応えている間にも橘は瞼を固く閉じ、自らの体の異変に耐えているようだ。相当痛むのか、こめかみを押さえる手にも力が入っている。
「ご自宅、ここからどれくらいですか? ご迷惑でなければ送りますよ?」
すると橘は、ふるふると首を左右に振った。しかし、
「いや、いい。君もこれ以上暗くなる前に早く帰ったほうがいい……ぞ……」
首を数回振っただけで、ぐらつく彼の体。早く帰ったほうがいいのは明らかにあなたです……と、小夜子は心の中でそっと突っ込んだ。
優しすぎる彼のことだ、迷惑をかけたくないと遠慮したのだろうが、このままではそこらの道端で倒れてもおかしくはない。
「橘さん、やっぱりご自宅まで送りますよ」
あくまで囁くようにそう言うと、橘も諦めたのか頭を垂れる。
「……すまないな……」
いつになく弱々しい態度の橘を哀れに感じて、小夜子の心はきりりと痛んだ。
美容院から徒歩十分にあたる場所に、彼のアパートはあった。外装は昼間に見れば明るい印象を抱かせるであろうクリーム色だが、なにせ階段、廊下共に照明が薄暗いためか落ち着かない雰囲気を醸し出している。病人である橘を連れて階段を上るのにも、足元がよく見えないために苦戦を強いられることとなった。
それでもどうにか部屋の前まで辿り着くと、彼は力ない手つきで鍵を開けるや否や、電気も点けずに奥の自室へと足早にこもってしまう。彼の様子を気にしつつも、小夜子は二人分の靴を玄関で揃えてから後を追った。
「橘さん……。大丈夫ですか?」
リビングと扉を隔てたその部屋を覗き込むと、力尽きたようにベッドに横たわっている彼。もはや腕を動かす気力すらも残されていないのか、スーツを着たままだ。
「お言葉ですが……ちゃんとスーツは脱がなきゃ駄目ですよ? 皺になっちゃいますし、なにより体が楽にならないですよ?」
「……正直、面倒なんだが……」
――……うーん。「面倒」って言葉、使うんだなぁ、橘さんも。
「えっと、お気持ちはよーくわかりますが、Tシャツでもなんでもいいので着脱しやすい格好に着替えてください……。私はリビングのほうにいますので、なにかありましたら呼んでくださいね」
そう言い残し戸を閉めると、深い溜息が耳に入ってくる。やはり、相当体が辛いのだろう。
「……ええっと。まずは額を冷やさないと……」
なるべく大きな物音を立てないよう、小夜子は準備に取り掛かった。自分はこういうことはきっと、誰よりも得意だ――そう思いながら。
* * *
「失礼します」
数分して再び橘の自室に足を踏み入れると、彼はとっくに着替え終えていたようだった。着脱しやすい、というより手近にあったシャツを適当に着込んだ、という風だ。小夜子としては汗をかきやすい格好に着替えてほしかったのだが、彼の体調を鑑みるとそれも無茶な要望かもしれなかった。未だに瞼は固く閉じられていて、額にはうっすらと玉の汗が浮かんでいる。そっと手のひらでそこに触れてみると、相当に熱く感じられた。先ほど冷水を手に浴びていたから、余計にそう感じられるだけかもしれないが。
「橘さん、体温計はありませんか? 救急箱の中を探しても見つからなかったのですが……」
「体温計……は、無いな。社会人になってから風邪をひいたことがなかったから……」
「なら、仕方が無いですね。えっと……けっこう汗をかいていますし、ちゃんと水分補給をしましょう」
そう言って水で薄めたスポーツドリンクを差し出すと、橘はそれを受け取りつつも何とも言えない、複雑な表情を浮かべる。
「……ここまでしてもらって非常にありがたいんだが、俺のことはもういいぞ。君はさっさと帰ったほうがいい。夜も遅いし何より……君に、うつるかもしれない」
それだけ言って、気だるげにコップを口に運ぶ彼。 病人を目の前にすごすごと帰る気にはどうしてもなれない小夜子だったが、
「……橘さんがそうしてほしいと言うのなら、そうします……。じゃあせめて、額をこれで冷やしてくださいね」
橘本人がそう望んでいるのなら、話は別だ。たとえ人のためを想ってしていることでも、その人にとっては迷惑になることもあるのだから。
額に、氷水で冷やした布をそっと当てる。ほんの気休め程度にしかならないかもしれないが、何も無いよりはましだろう……。そう心中の自分に言い聞かせるようにして、小夜子は立ち上がった。
「私は、これで失礼します。明日には良くなるといいですね。お邪魔しました」
「ああ……」
背中からの弱々しい応答に、後ろ髪をひかれる気持ちだ。それでもそれを振り切るようにして廊下を抜け、玄関の扉を開けた――その時だった。
「う、わ……!」
信じられない光景に、目を奪われたのは。
夜空を覆いつくしていたのは闇色、それだけではなく。暗雲に不規則な水玉模様を描く、牡丹雪だった。
オレンジ色の街灯に照らされたそれは仄かなグラデーションを彩っているため真っ白とは言えないが、闇をも明るく輝かせるような、不思議な光を宿しているようにも見えた。
が、そんな雪を綺麗と思うことはできなかった。なぜなら北風は吹き荒び、それに乗せられた雪も小夜子の全身めがけて飛び込んできたからだ。扉を開け、びゅんという音が鼓膜を通った次の瞬間には、彼女の髪の毛も制服も、雪のせいでびしょ濡れになってしまっていた。
「た、たた、橘さんっ! 申し訳ございませんが、これは帰りたくても帰れそうにありません……!」
「は……?」
橘も意味がわからないのか最初は抜けた声を出したが、頭の回転の早い彼のこと。小夜子の姿を見て全てを理解したようだ。
「……今日は雪の予報は無かったと思ったんだが……」




