第十二章:さけるもの ―師走・中旬― 其の五
目を合わせたまま、無言の二人。目線がぶつかったのはもしかしたら、退院したあの日以来だったかもしれなかった。もう互いに、出掛けの挨拶は済ませてしまっている。だからこの状態は、ひどく気まずいものであるはずなのだ。
が、小夜子はなぜかそんなものを感じることなく、奏一郎と見つめ合うことができていた。それは奏一郎がいつものように接してくれているからか、それとも、彼の正体が如何なるものであるかとーすいが教えてくれたため、多少なりとも恐怖心が薄れたからか?
それでもやはり、以前のような自然な会話はできそうにない。それが何故なのか、小夜子にはわからない。わからないから、戸惑うのだ。
「さよ、遅刻するぞ?」
「は、はい。そうですね。では……っ」
* * *
小走りで去っていく背中に揺れる、二つの髪の束が痛々しい。そう思いながらも奏一郎は、視界の彼方に消えるまでその背中を見つめていた。彼女が身を投じた外の冷たい空気に、ほんの少し眉を顰めながら。
「どうした? 旦那」
「いや……」
背後の声に応える彼は、大量の水に溶かされた天色を見上げている。薄く広がった雲の合間に隠れたその色に、目を奪われてしまっていたのだ。
「……今日の空気はやけに澄んでいるなぁ、と思っただけだ」
言葉の終わりと時を同じくして、そっと碧い目は閉じられた。
* * *
クリスマスも近くなると、市役所の忙しさは格段に増す。
属している課によって職員の仕事の内容は異なり、大量の婚姻届の手続きに追われる人もあれば、公園などの公共の施設のイルミネーションの許可状の受理に勤しむ人など、彼らの仕事の内容は個人によってばらつきがあると言っていい。
何処も彼処もそうだろうが、例年のことながら年末年始に近づけば近づくほど市役所は殊更忙しくなる。市民の目に触れる受け付けなどの表向きはそうでなくとも、裏では皆小走りか全力疾走だ。
そんな慌しい状況の中、橘はパソコンのモニターを睨みつつ、一人物思いに耽っていた。頭の中に思い浮かべていたのは、彼にしては珍しく仕事以外のことだ。
――……あれからもう二週間……いや、三週間か? あの子が退院してからはそういえば、一度も会っていないな……。
先ほどからぼーっとして、上手く働いてくれない頭を押さえながら、彼は項垂れる。先ほどから自身の視界に映る「老人ホームのクリスマス会」という文字がちかちかしていて直視していられない。
暖房が効きすぎているせいか? この場に酸素が足りないのか? だから頭痛がするのか?
様々な思案を巡らせるも、やはり頭の中心にいるのは自分以外の人間のことだ。
病室での小夜子の泣き顔が、どうしても頭から離れない。そしてなぜ彼女が泣いてしまったのか、大凡の検討はついてしまっているから尚のこと……頭から離れなくなる。
――……あの子は……奏一郎と一緒にいて大丈夫だろうか。心屋に様子を見に行く……のは、少し心配しすぎなんだろうか。いや、行こうにも……仕事が忙しすぎてそれもなかなか叶わないが……。
「……あれ~!? 橘さん、どうしたんですかぁ!?」
わざとらしいほどの甲高い声に渋々振り返ると、そこには後輩である瀬能が佇んでいた。大量の書類を腕一杯に抱え、心配そうにこちらを見下ろしている。
「顔も真っ赤だし、すっっごくしんどそうですよぉ!? 熱があるなら、課長に言って早退したほうがいいんじゃないですか!?」
学校じゃないんだぞ、と突っ込みたい彼ではあったが、今はそんな元気も気力も無い。さらに、己の身を案じてくれる瀬能には悪いと思いつつ、その甲高い声で話されてはさらに頭が痛くなる……と、頭を抱えた。
その声のボリュームに乗せられてか、他の部下や同僚さえも忙しく動かしていた手を止める。
「橘さん、別に無理することないですよー? 俺たちが欠勤したときに仕事引き受けてくれるのって、いっつも橘さんじゃないですか」
「……そういう問題じゃ……ないだろう……」
弱々しくそう返す橘に、瀬能は負けじとさらに詰め寄った。
「そんな体調じゃまともな仕事なんてできないですよ! 今日のところは私にお任せして、ゆっくりお休みを……」
「いや、いい」
彼女の言葉を手で制すると、再び重たい頭を持ち上げる。目の前にはやりかけの仕事が残っているのだ。
「自分のことは、自分でする……」
心配してくれてありがとう、と。皆、自分の仕事に戻ってくれ、と。小さくそれだけ言って、橘はまたキーボードへとその手を乗せた。
* * *
期末テストを目前に控えているにもかかわらず、教室の雰囲気は険悪とは程遠いものだった。皆昼休みには教科書やノートなど放って、笑顔で昼食を口にしている。
小夜子が以前通っていた高校では、テスト前にこんな和気藹々とした雰囲気はありえなかった。
ただし、目の前にいる静音の雰囲気には鬼気迫るものがあり、触れてしまったら最後、爆発でも起こしそうなほどの熱気を燻らせている。彼女が今広げているのは、英単語帳。サンドイッチを片手に英単語をぶつぶつと呟く様には、邪魔をしてはいけない、という気持ちが否が応にも湧いてきてしまう。
「あ、の……楠木さん。テスト前って、こんなに穏やかな雰囲気でいいのかな?」
一人例外である静音を視界に入れないようにしながら小声でそう問うと、芽衣が緩く微笑んだ。
「今回の期末は土日挟むから、皆もそこまで切羽詰ってないんでしょ。それに、期末は範囲広いからね。ある程度点数落としても大丈夫なように、中間で点数稼いでたんじゃない? ……期末で死に物狂いでがんばらなきゃいけないのは、普段から授業を聞いていないか、もしくは中間でやばい点数取ったやつだけだよ」
そう言って、静音を横目に見る彼女。小夜子の背中に瞬時に悪寒が走ったが、どうやら静音は英単語帳に全神経を集中させているせいか、芽衣の発言には気づかなかったようだ。むしろ今は他人の言動など、聴覚が受け入れていないのかもしれない。
静音に訊こうと思っていたことがあったのに、今の彼女に話しかけるのは賢明ではなさそうだ。
「うーん……。あ、そうだ。えっと、楠木さん!」
「なに?」
丸くなった琥珀の目を目の当たりにした瞬間、小夜子はしまった、と口を覆った。すぐさま笑顔を取り繕って、
「……あ、うん。……用事があるから、今日の図書館の勉強会は静音ちゃんと二人でお願いします……ってことを伝えたかったのだけど……」
訊こうとしていたことを、言おうとしていたことにすり替える。
静音に訊こうとしていたことは、芽衣に訊いてはいけないことなのかもしれないのだ。今の言い方は挙動不審だったかもしれない、と小夜子は内心びくびくするも、そんな彼女の態度を気に留める様子を、芽衣は見せなかった。
「……そう、わかった。……この状態の原と図書館で二人きりとか、嫌な予感しかしないんだけどね」
呆れたようにそう言って、彼女は自らのサンドイッチを口にする。
今の静音には訊けない、そして芽衣には訊いてはいけない……。
しかし他に、誰に訊けば良いものか……いくら考えても心当たりは、一つしか無かった。
「ちょっと、職員室に行ってくるね!」
広げていた弁当箱を一つにまとめると、小夜子はそう言って立ち上がる。
「行ってらっしゃい……」
そう言いながら、芽衣の視線は綺麗に片された弁当箱にあった。見るからに少食の小夜子。だが、どんな時でも昼食だけは残さない。
「……原、悪い」
名を――正確には姓を――呼んで、静音から英単語帳を奪う芽衣。瞬間、目に隈を張らせた静音の怒号が飛んだ。
「……っ私から英単語を盗むなぁっ!」
「悪いってば。後で英語教えるから。高得点取るコツも教えるから」
そう言えば、静音は涙目ながら「何よ……」と聞く耳を持ってくれる。ここ三週間ほどで、芽衣は静音の扱い方をずいぶんと心得たようだった。
「萩尾さんのお弁当って、"奏一郎さん”が作ってるの?」
「そうだけど?」
「毎日?」
「ん。毎日、栄養満点のお弁当を提供しとるようだけど?」
静音のくだけた言い方に、芽衣はふう、と溜息を吐く。それと同時に、静音の手に英単語帳を返した。
「……そう」
「あんた、奏一郎さんのこと疑いすぎ。あの人、ふつうにいい人だからね!」
静音の一言に目を見張るも、何も言わない芽衣。気づいていたのか、と問おうとしたのだが……既に静音は再び、英単語帳を広げていたのだ。
疑いすぎ、傍から見たらそう映るのだろうと芽衣も自覚はしている。だが、その言い方は正しくない。信じられないだけだ。一般的に考えれば優しさとも取れる奏一郎の行動。だからこそ芽衣は、気にかかってしまう。
人間でもない存在が、人のために弁当を作る。まるで、普通の人間のように――。
それがどんなにおぞましいことなのか、大凡の人々が、はっきりとその恐ろしさを体感することは無いだろう。考えるだけで鳥肌が立つことも、鼓動が逸ることも無いのだろう。
「……原」
「ん?」
「この教室、寒いね……」
そう言って、芽衣は緩く口角を上げた。両腕に発生した鳥肌を、ぎりっと力強く押さえながら――。
* * *
放課後、小夜子は自身の髪の毛を直視することができずにいた。何度も心屋の鏡でも目にしていたはずなのに、美容室の明るい照明が余計に、長さがまちまちの髪を痛々しく見せてしまっているのかもしれない。
「今日は、どうしますか?」
まだ若い美容師の女性が、朗らかな表情でカタログを数点見せてくれる。が、それに一瞥もくれず、小夜子は首を振って、
「一番短い髪に合わせて、ばっさり切っちゃってください……」
そう注文した。




