第十二章:さけるもの ―師走・中旬― 其の四
朝目覚めて、小夜子の頭を混乱させたのは――まず、何よりも目の前に広がった光景だ。
以前にも感じたことのある違和感。それは、見慣れぬ天井。そして、
「さよ、おはよう」
体を起こしてから、やっと視界に現れた人物。
台所の小窓から差し込む穏やかな陽光は、目覚めたばかりの小夜子にはあまりに目映く感じられて――思わず、眠気などなくとも目を細めてしまう。それでも久々に感じた、あまりに和やかな空間の心地よさに次第にぽかんと口を開け、目を大きく見開くこととなった。
「そ、奏一郎さん……」
差し込む陽光が照らし出したのは白の着物だった。寒菊だろうか、緋色の花が真っ白な世界にひそりと咲き誇る様は、鮮やかな分、起きぬけの目にはやはり辛いものがある。
「おはよう、さよ」
いつもと――以前と、まったく変わらず朗らかに話しかけてくる奏一郎。夢だろうか、と瞼をぎゅっと数回閉じるけれど、それは返って頭を冴えさせた。
「お、おはようございます……。ごめんなさい、ま、またここで眠ってしまって……」
「いや、それは構わない……が。そういえばさよ、前にも茶の間で寝入ってしまったことがあったな。あの時は秋だったからまだ良かったようなものだが、さすがに冬になってからは止したほうがいいと思うぞ?」
「は……はい、すみません……」
気付かぬうちにかけられていた毛布を、思わず固く握り締めてしまう。言葉も、態度も、表情も。そして、行動すらも今日の奏一郎は優しい。何を切欠にか、そんなことはわからない。
だが何にせよ、ぎくしゃくし始めていた彼との関係は修復された、もしくは修復されようとしている――……小夜子はそう、思いたかった。
たとえそれが、“甘え”だとしても、そうだとわかっていても……「別の下宿屋に行きなさい」という奏一郎の発言さえも、ただの気紛れであったのだと思いたいのだ。
じっと見つめていると、奏一郎は台所の小窓を見上げた後、ふと背後の小夜子に振り返った。
「さよ、風呂に入ってきたらどうだ? まだ早いし、学校まで時間もあるし……」
「あ……」
そういえば、と小夜子も自身の姿を見て思い出す。
とーすいのマシンガントークに乗せられ、そしてそれを中断させる術を見つけることも叶わぬまま、結局は真夜中になり壮絶な眠気による気絶、といった過程を経て、やっと“暴露大会”から小夜子は解放されたのだった。当然制服を着たままで、夜明けを迎えてしまった。
「お、お風呂……今、入ってもいいんですか?」
「え? 僕、駄目だなんて言ったこと無いだろう? もう風呂は沸かしてあるから、時間の許す限りはゆっくり入ってくるといい」
「……ありがとう……ございます……」
早朝から既に古き良き新妻のごとく働いてくれる奏一郎に申し訳が立たないのと同時に、やはり感謝の気持ちを起こさずにはいられない。
当の本人はと言えばいつものことながら、朝食を慣れた手つきで作っている。繰り返し目にしてきたはずのその後姿が、なぜか今日の小夜子には眩しく……そして少しだけ、懐かしく感じられた。
* * *
靄がかった白灯りの景色を風呂場の窓から視界に入れながら、小夜子は一人、後悔していた。
――……私はきっと今まで、奏一郎さんにずっと甘えてきたんだろうな……。
無論、それは以前からずっと感じていたことだ。自分は何をしてもドジばかり踏んで、結局は奏一郎に迷惑をかけてばかりいるから。それでも奏一郎は、屈託なく笑ってくれていたから。それに甘えていたのだ、ずっと。
だが、彼の笑顔の裏には何が隠されていただろう。穏やかな笑顔の裏には、小夜子が最も望まない、最も向けられたくない感情が渦巻いていたのではないか。
――……いい加減、鬱陶しくなっちゃったとか? うんざりされちゃったとか? ……どっちでも、同じことか……。嫌われたって意味では……同じ……。
抱えた両の膝に額を預けて項垂れてしまえば、髪紐からはみ出したまばらな髪の毛が水面を漂う。体が温められていくのに比例して、目頭はどんどん熱くなっていく。そして、目頭が熱を帯び始めるのに反比例して、心は凍てついたように冷め切っていく。
――私……奏一郎さんに、そんなに嫌われたくないんだ? お父さんと気まずくなった時だって、こんなに悩んだり、泣いたりしなかったのに。……どうして……?
どれだけ長く湯に浸かっていても逆上せてくるだけなのだと……気づくのに大幅に時間がかかった彼女は、酒飲みよろしく覚束無い足取りで、脱衣所から出ることとなった。
* * *
頭の中でがんがんと鐘が打ち鳴らされているような感覚に襲われながらも、小夜子は朝食を口にする。目の前にいる奏一郎も、そんな彼女の様子に困ったような笑みを湛えた。
「……『時間が許す限り』とは言ったが、『逆上せるまで入っていい』とは言わなかったと思うんだがな……」
そう言って、味噌汁の椀を口に運んでいる。
「す、少しぼーっとしていまして……。だめですね、私は。もっとしっかりせねば、です」
「……そういえば、さよはここに来た初日も逆上せていたような記憶があるな」
穏やかな笑みを意地悪なそれに変えて、奏一郎はくすりと笑った。小夜子の立場からしたら、五右衛門風呂の入り方を知っている人自体、もはや少ないだろうと反論したいのだが……彼の意味深長な物言いに、何も言えなくなる。
「あれは夏だったから……さよがここに来て、今日辺りで四ヶ月といったところか? ……あっという間だったな」
「は、い……」
そんな、「もう、さようならだ」とでも言いたげな台詞を吐くから。小夜子は逆上せた頭を酷使して、精一杯に話題を変える。
「あの、奏一郎さん。今日こそは美容院に行って、後ろの髪をちゃんと切って揃えてきます。なので、帰りは少し遅くなるかもしれないです……」
正直、この話題を奏一郎に投げかけるのは不味いのでは、と危惧した小夜子ではあったが、当の彼は和やかな表情を崩しはしない。ほっと、胸を撫で下ろしてしまう。
「そうか、わかった」
短い返答ながらも会話が成り立っていることに、再び小夜子は安堵の息を漏らした。根本的な問題の解決も、話し合いすらもまだ済んではいないというのに、目に映っている平穏そのものに感謝してしまうのだ。
――……少しずつ、でいい。もっとちゃんとあのことで話し合うのは、もう少し先でいい。今はまだ、そんなことは話したくない……。
逃げ続ける、臆病にして卑怯な自分に石を飲み込むような気持ちでいながら、小夜子は笑顔を繕い、「ごちそうさま」を言う。そして自身の使った茶碗たちを素早く洗うと、すぐさま通学鞄を持って玄関先へと向かった。ローファーを履く。後ろを振り返る。すると昨日はいなかった彼が、自分を見つめてくれていた。久々の、見送りだ。
「えーっと、では、行ってきます」
「ああ。……気をつけて行ってらっしゃい」
儚げに揺れる碧い目に釘付けになってしまう。その目は、何度自分を励ましてくれたことだろう。自分を温かく見つめてくれただろう。
だが今は。これからは。その碧眼が氷柱となって、心を裂かんとするのではないか。
一度そう思ってしまえば、あまりの恐怖に小夜子は逃げたくなる。「どうでもいい」などと、言われたくない。思われたくない。
だから小夜子にはいつまで経っても、「もう少し先」が訪れないのだ。




