第十二章:さけるもの ―師走・中旬― 其の参
「おら、さっさと食えよ。美味い飯が冷めちまうぞ」
「う、うん……! いただきますっ!」
促され箸を取るなり、白米を口にする小夜子。咀嚼すればするほど、口中に甘みが広がる。が、喉を通るときには再び、石を飲み込んだような重苦しさが襲い掛かる。その感覚は、楽しい夢から現実に一気に引き戻されたような脱力感に、少しだけ似ていた――。
そしてそれを忘れさせてくれるのは、とーすいの突飛な発案だ。
「よし……っ! もう、今日は……普段言えねえ鬱憤を口にしちまえ! この俺様が直々に聞いてやるぜ! 感謝しろ!」
「ええ!? と、特に無いよ……? 鬱憤なんて」
「うるせえ! 今日は暴露大会だ! じゃんじゃん飲めよ、女ぁ!」
「わ、私は未成年だから飲まないよ……!?」
そんな滅茶苦茶なことを言っておきながら、ちゃっかりお酒ではなくオレンジジュースを冷蔵庫から取り出したとーすいの姿に小夜子は少し、頬を緩ませる。とーすいがどう言い繕うと、彼の一挙一動が結局は、全て優しさに感じてしまえたから。
* * *
北風が障子をがたつかせ、木の葉を容易に震わせる。それに煽られた暗色の雲が時折覗かせてくれるのは、真っ白な月の姿だった。
そんな、いつ現れてくれるとも知らぬ月明りを頼りに歩かずとも、奏一郎は帰路に就くことができている。何度もこの道を歩いてきたおかげで、もはや目を瞑っても迷うことなく、大樹にぶつかることもなく目的地へと辿り着ける自信があった。
ここ二週間はとくに、連日連夜足を運んでいるから尚更だ。
だからこそ、彼はこれまでになかった光景に驚かされた。
毛布を羽織ることなく、明かりを点けることもなく、茶の間で小夜子が眠っているなど想像だにしていなかったのだ。
「……これは……どうしたことかな、とーすいくん?」
朗笑を浮かべる彼に、卓袱台の上のとーすいは平然と言い放つ。
「暴露大会だ」
「……そうか」
奏一郎は表情を変えずそう返したが、実際にはどういうことなのかは理解していない。だが、瞼を閉じて穏やかな表情で眠りに就く小夜子の前で、長話は避けるべきか、と思ったのだ。
「まったく……制服のまま、しかも毛布もかけずに眠ってしまうなんて……」
隣の自室から、毛布を取り出し小夜子にかける奏一郎。起きてしまうかもしれない、という懸念も刹那的に抱いたのだが、彼女は一度寝付いてしまえばなかなか目覚めないことを奏一郎は知っている。案の定、毛布をかけた後も、彼女の寝息はそのまま安定していた。安堵の笑みか、それとも自嘲の笑みか……それは定かではないが、奏一郎はゆっくりと、その碧い目を細める。
「旦那。そいつが暴露大会で何を言ったか聞きたいか?」
とーすいの問いに、奏一郎はすっと天井へと目を向ける。まるで、そこに答えでも書いてあるかのようだ。
「うーん。君がそう問うということは、それを僕に聞かせたいということで相違は無いか?」
「無い」
きっぱりとした物言いが気に入ったらしい。声を控えめにして、奏一郎は笑った。
「はは……、そう? じゃあ、なるべく声を抑えて聞かせてくれ」
その台詞に従い、とーすいは声を低くした。掠れたような小声が、茶の間という空間を占め始める。
「……俺様が何でも聞いてやるって言ってんのに、こいつは何も喋らなかった」
「…………」
「むかつくことも、うだうだ悩んでることも遠慮なく言っちまえって言っても、笑って誤魔化すだけだったぞ」
二度、三度と瞬きすると、奏一郎は小夜子に目を向けた。
「この子は……自分の言いたいことを言うのが、とても苦手な子だからな。まあ、あの父親との二人だけの生活が災いしたんだろうが……」
「でも、最近はそうでもなかったよな? 少なくとも三者面談のあの日からは、ちゃんと自分の言葉で自分の気持ちを言えるようになろうって、がんばっていたように俺には見えていたんだがな」
とーすいが遠まわしに諌めるも、奏一郎はきょとん、としてから、再び微笑むだけだ。
「そうだね。……でも、今は、何も言わないね」
まるで他人事のように、彼は小夜子を見下ろしている。その余裕綽々ぶりが、癪に障ったらしい。とーすいが舌を所持しているのかしていないのかは不明であるが、舌打ちの音に限りなく近いそれが茶の間に放たれる。
「そうじゃねぇだろ、旦那。旦那がちゃんと話を聴いてやらないから、こいつが何も言えなくなっちまったんだろ」
穏やかとは程遠い口吻でそう言い放つ彼の姿に、なおも奏一郎は微笑を湛えた。碧い瞳は月光を捉え、妖しく、そして雫のような煌きを生み出す。
「知っているよ、そんなこと。……聞いてくれる人がいるから、初めて人は言葉を話せる。言葉を言葉として、生み出すことができる。僕が避けているから……僕が耳を塞いでいるから、さよは何も言えないんだろう?」
「わかってんなら……っ」
「でもね、それでいいんだよ。……それで、いい。ずるいのかもしれないけど僕にとってはむしろ、好都合だ」
とーすいの言葉を遮って、奏一郎は静かに己の言葉を落とした。否、結果的にそうなっただけだ。彼は今、とーすいの言葉さえも鼓膜に、心に響かせるのを許してはいないのだ。
「とーすいくん……僕はね、たしかに人間の心を持っていない。普段浮かべている笑顔だって、普段口にしている言葉だって……結局は“お客様”からもらった、紛い物。“お客様”から吸収していった、仮初のものだ。僕のもの、僕だけのものなんて、何一つこの手にはありはしない……」
夜空を水面にして浮かぶ月に手をかざすも、空を掴むだけで掌には感触すら残らない。灰色に似た光に照らされたそれは、恐ろしいまでに白く、透き通る。
嘲るように自身のそれを見下すと、その視線の先には――自然と、眠りに就く小夜子がいる。
「……それでも、こんな僕にだって……言いたいことも、聞きたくない台詞も……たくさん、たくさんあるつもりだよ……」
そう言って、その場の陰鬱とした空気に、自らの発した言葉に似合わぬ笑みを零す。どこか、こことはまったく違う場所から荷物として運ばれてきたようなその明朗快活な笑みは、この空間そのものとの違和感を脳裏に植えつけていく。
それでも一切怯むことなく、口を開くとーすい。声の調子は、小夜子を意識してか先ほどよりも落ち着いている。
「まあ、そうだろうな。たとえ旦那の心が“お客様”からもらった紛い物だとしても、仮初のものだとしても。今の旦那を形作っているんなら、それは立派に旦那の心だ。言いたいことも、聞きたくない台詞があっても、何も可笑しいこたぁねえよ」
言葉の内容とは裏腹に、棘のある彼の声。奏一郎もそれを気にしてか、やっととーすいの言葉に耳を傾け始めた。
「でもな、旦那にもそういう気持ちがあるようにこいつにも……同じように言いたいことや、聴きたくない台詞があるってこと……少しは考えてやれよ」
「…………」
「そんなことすらもできねぇようなら今の旦那は……ただの、我侭な独り善がりだ」
最後の一言に――『我侭な独り善がり』という言葉に――ぱっと目を見開いたかと思うと、次には興味深そうに彼は微笑んだ。
「……そうだね。そうかもしれないね」
言葉少なに返してから、再び天井に目を向ける。考え事をするときの彼の癖に、とーすいは些か、ほっと胸を撫で下ろすのだった。
「うーん……君は何と言うか、僕より長くこの世にいるせいか、人間のことがよくわかっているな」
「ふん、真面目に何考えてるかと思いきやそれかよ。当たり前だろ。俺様は研究熱心なんだよ、昔っからな」
ふんぞり返るとーすいが、無い胸を張る。が、彼の言ったことは尤もだ……と、奏一郎は思う。
「まあとにかく、だ。あまり避けてばっかいないでよ、朝と夕方にはちゃんと見送りと出迎えくらいしてやれよ、前みたいに。旦那は極端でいけねえ。習慣になっていたものを突然止められたら、こいつでなくても誰だって不安がるだろ」
「あはは、そっかぁ、そうだよなぁ」
呑気に口元を緩める奏一郎の姿に、とーすいの不安は再び募っていく。本当にわかっているのだろうか、と。いつまで経っても、どんなときでも、この奏一郎という存在は自分を安らかな気持ちにはさせてくれないのだ……。以前からそうだとわかってはいても、やはり心臓に悪いから止めてほしい、ととーすいは思う。彼に、心臓は無いけれど。
見れば。時折、暗雲は月明かりをちらつかせている。やがて時が満ちれば、再びその姿を独り占めしてしまう。それをまた繰り返し、繰り返し……そうして、朝はやってくる。
だが、
「……前みたいに……ね」
夜が明けるその前に、闇はさらにその深さを強めていくのだった。




