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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十二章:さけるもの ー師走・中旬- 其の弐

 それでも努めて平静を装って、小夜子は彼に微笑む。

「うん。もうすぐ期末テストだから、図書室で静音ちゃんと楠木さんと、テスト勉強してきたんだ」

「ふーん……? まあ、いいけどな。別に」


 それだけ言って、背中を見せるとーすいの行く先は卓袱台だ。そこには既に夕食の準備がされていて、ポテトサラダと茹でたブロッコリー、カブと小松菜の炒め物が並べられている。

「冷蔵庫の中に鰤の刺身もあるからな。今が旬らしいから、美味(うめ)ぇんじゃねえの?」

 とーすいがそう言って、座布団の上に寝転がり始めた。小学生のような声の持ち主であるのにもかかわらず、どこか親父臭さを醸し出す水筒である。


「そう……なんだ。ありがとう」

「おう。もっと敬い褒め称えてもいいんだぞ」

「うん、えーっと。奏一郎さんはどこにいるのかな……?」


 これはとーすいをスルーするための質問ではなく、先ほどから純粋に思っていたことだ。だが、もう訊かずとも小夜子には、その答えは判りきっていた。

「……また、あの場所なんだね」

「ああ」

「そっかぁ……」


 それだけ呟いて子猫を降ろすと、小夜子は茶碗を左手に釜を開ける。中では、炊き立てらしい白米が穂の時代を懐かしむかのように、上向きにこちらを仰いでいた。


「奏一郎さんって、お米研ぐのも上手なんだね~。私がやっても、ここまでピカピカに光らないもんなぁ……」

「そりゃあお前が研ぎすぎ、力入れすぎなんだよ。二度しか見たこと無いがお前の場合、研ぎ終わった後の水が透明になりすぎてて逆に怖ぇんだよ」


 とーすいの言うことはもっともだ、と小夜子は落胆しつつ、茶碗に白米をよそう。が、なぜかとーすいには反抗したくなる彼女。言い訳なんて見苦しいかもしれない、と思いつつ、ゆっくりとした動作で席に着き、そうしてから尖らせた口を開いた。


「だって……その方が美味しくなるのかなって思ってたんだもん。私がここで初めて夕食作った時、奏一郎さんが……『ご飯は美味しく炊けてる』って言ってくれて……それが、嬉しかったから。だから……なんというか、二度目はがんばって、妙に張り切りすぎてしまって……」


 小夜子が米を研ぎ終わった後の、奏一郎の反応が彼女には忘れられない。白濁の色をまったく見せない研ぎ汁に、ひたすら腹を抱えて笑っていたものだ。そして、

「がんばったんだ、ということがものすごく伝わってくるな……」

 そう言って、穏やかに微笑んだのだった。


「褒めてくれるのなんかお母さんくらいしかいなくって……だから、温かい言葉をかけられたのも、久しぶりで……」

 優しい笑みを向けられたのも、否、そもそも人と話すこと自体、久しぶりだったかもしれない。

「本当に嬉しかった、けど……」

 だが、だからこそ。いざ向けられた彼の冷たい笑みは、嫌に心に響いたのだ。


「……どうして……どうして私、出て行かなきゃならないのかなぁ……」

 自分から言っておきながら、言の葉に乗せられた現実に、自然と目を潤ませてしまう。涙を流さないよう首を上に向けるけれど、オレンジの明かりが視界に入ってしまった次の瞬間には、褐色の目はさらに揺らぐ。



 ――「そんなの……さよが一番、わかっているくせに」――



 そう呟いた時の、長い前髪の隙間から見えた、乾いた碧い目。それは己を射抜くことはなく、それどころか俯いた視線は、視界に入ることすら許さないかのようだった。


 自分が出て行かなければならない理由を、小夜子自身が一番知っているはずだと、彼は言っていた。しかし、

「奏一郎さんが言ってたこと、わかんない。私、本当に何もわかんないんだよ。……きっと奏一郎さんは単に、私に出て行ってほしくて……私なんかどうでもよくって……だから、はぐらかすために適当なこと言ったんだよ……っ」

 彼の言葉の意味はわからなかった。小夜子には皆目、見当もつかないのだ。


 感情を高ぶらせ始めている彼女の目を見るなり、とーすいはきょとんとした顔で口を開く。

「本当にそうなのかわかんねえじゃねえか。そういうこたぁ本人に直接訊けよ」

 当然のようにそう言い放つので、小夜子は苦笑してしまった。ああ、この子は女心を理解していないのだなと、憐憫の情を彼に抱きながら。


「もう一度訊くの? 訊けるわけないでしょう? 『何で私は出て行かなきゃいけないんですか?』なんて。……奏一郎さんが私を傷つけないようにはぐらかしてくれたのに、改めてそんなこと訊いたら……きっと、本当のこと、言われちゃう……」


 嘘はつかない、だが、本当のこともなかなか口にしてはくれない彼。本心で己のことを「どうでもいい」と思っていても、口にすることは決して無いだろう。だから、答えをはぐらかした。それが、相反する二つの面を併せ持った彼の優しさの形なのだ。


 だが、小夜子がもう一度訊いたらどうなるだろう。

 奏一郎の淡白な性格から鑑みるに、早々に何の躊躇いも無く本当のことを――本心を、小夜子に言ってしまうかもしれない。

 小夜子はそれが怖くて、堪らないのだ。


「『どうでもいい』なんて言葉……奏一郎さんから言われたくない……っ」


 俯いた先の食卓が、涙色に滲む。ややもすれば溢れ出て、頬を伝ってしまいそうだ。それを急いで袖で拭うも、潤いに満ちた視界は、渇く気配を見せてはくれない。


 彼女のその姿に、失笑するとーすい。それは彼女を慰めるための優しさから生じた表情などではもちろんなく、明らかに呆れから生じたものだった。

「よくもまあ女って生き物は、憶測だけでそこまで妄想を広げられるもんだな」

「だって……奏一郎さん、私のこと絶対に避けてるんだもんっ! いつも私が帰ってくる頃までにお夕飯作って、私が眠る頃にあの場所から帰ってきて……っ」

 

 この二週間、ずっとそうなのだ。もう奏一郎とは二日に一回、それも朝に顔合わせができればいい方だ。朝食や夕食、もちろん休日には昼食も、彼は小夜子と鉢合わせする前に予めそれらを作って外出してしまう。そして、小夜子が眠りにつく夜中ごろ、そっと物音を立てずに帰ってくるのだ。


 以前まで、たしかに“生活”の一部であった食事の用意が今では――まるで、“業務”のようになっていた。


 小夜子が見つめるのは、目の前の食事。どんな気持ちで彼はこれを作ったのだろう、と思いながら。もしかしたら、自分が帰ってくる前に作り終わらなければ、と急いで作っていたかもしれない。そう思うと――あの日の蛤同様、苦く空しい味が喉を通過する。


 しかし、とーすいは片方の口角を上げたままで、

「人のこと、言えた口か?」

 嘲るようにそう言い放った。目を丸くした小夜子に構わず、彼はそのまま言葉を続ける。


「前はまっすぐ帰ってきて、進んで夕飯の手伝いしてたろ。それが最近じゃお前、ずいぶん帰りが遅いじゃねえか」

「ち、違うもん。もうすぐ期末テストだから、図書室に残って勉強……」

「それだけか?」

 遮られたことで、最後まで言わせてもらえなかった弁解。だが、その続きを紡ぐことができなかったのは――とーすいの言い方が、思いのほか強みを増していたから、それだけではない。


「テスト勉強のため? 本当にそれだけか? 別に学校でなくとも、自室でだって勉強はできるだろ。テスト期間って理由使って、自分も旦那を避けているって事実を、誤魔化してぇだけなんじゃねえのか?」

 そういった気持ちが、微塵も無いと言えるのか? と、彼はまっすぐに訊ねてくる。


 実際、図書室で勉強して、その合間に静音や芽衣と話すことに――そんな他愛もないことに、小夜子は安堵していた。勉強に集中している間は、彼女たちと話している間は、他の事を考えずに済むからだ。足元の地面が音を立てて徐々に崩れていく様を、目隠しすることで見ないで済むように。耳を塞いで、その音に恐怖しないで済むように。


 たしかに憂いに満ちた現実を肌で感じているはずなのに、それでも静音や芽衣といった友人たちを麻酔にしてしまえば、脳も体も麻痺してしまえば、何も考えずに済むのだ。


 だが、心屋ではそうはいかない。


 たとえ自室にいたとしても、そこが自らの所有物に囲まれた空間であったとしても、其処は奏一郎という存在を想起させる。

 逃げ場を失ったような切迫感を長時間、一人で抱え込むのは小夜子にはあまりにも酷だった。


「……一人でいると、考えちゃうから。これからのこととか、昔のこととか、奏一郎さんが何考えてるのか、とか色々……。考えなきゃいけないことなのはわかるけど、考えても無駄なことだってこともわかってる。矛盾しているけど。……だからか頭の中、全部ぐちゃぐちゃで整理できなくて……」

「そりゃあお前が、まだまだガキの証拠だな」

 半笑いを浮かべながら、とーすいは口を開く。だがその声はどこか、先ほどよりも幾分穏やかで、優しい色を帯びていた。


「お前が旦那を避けている、そこは認めろよ。そしてだ。俺様から見て、の話だが、旦那もお前のことを避けている」

 優しい口調……だがそこに乗せられた現実は、辛辣なものだった。少なくとも、小夜子にとっては。


「でもな、そういうのって結構……普通なんじゃねぇの。ありふれたことだろ。人間が人間を避けるのなんて、理由はどうであれ近しい者同士ならなおさら、一度くらいは訪れるものだろ。お前と旦那の場合、そのタイミングが重なっちまった、それだけのことだ。だから……それだけのことでそう悲観すんなよ。見てて、めんどくせぇから」


 そう言って、そっぽを向く彼。しかしその口吻は、変わらず優しいものだ。

「大体な! 自分だけがたくさん悩んでるだとか自分は一人だとか孤独だとか考えている奴は、大概ガキなんだよ。周りがちっとも見えてねぇ。心配してくれてる奴がいるかも……とか、少しは考えやがれってんだ」


 その言葉に、小夜子ははっとする。


 奏一郎との関係がぎくしゃくし出してからの夕食時――それはつまり、小夜子が独りになってしまう時間。まるで彼の代わりとでも言わんばかりに、とーすいが食卓でいつも待機していたことを思い出したのだ。

 以前はどこにでもある水筒の姿のまま、心屋の商品棚で大人しくしていた彼を、この二週間ではよく目にするようになったのは――。


「とーすいくん……。もしかして最近、いつもその姿で起きてくれてたのって私のため? 私のこと、心配してくれてたの……?」


 その問いに、とーすいがふっと微笑む――が、

「はん、そんなわけねえだろ。俺じゃねえよ。猫たちだよ。なんだかんだ言っても、こいつら賢いからな。飼い主が元気無いのって案外、ペットにも伝わるもんなんだぜ?」

「そ、そう……なの」

 次の瞬間には照れ隠しをする素振りも無く、嘲笑を浮かべるのだった。奏一郎同様、嘘を吐くのは好まなさそうな彼。どうやら、本気で小夜子のことを心配してくれているのは猫たちだけらしかった。


 とーすい曰く、奏一郎が外出している間、猫たちの面倒を見るのはとーすいの役目。あんずどころか子猫たちまでもがとーすいを不審な目で見ないのは、そういった理由からのようだ。ご飯や水の用意、猫砂の管理はもちろん、遊び相手にも時にはなるとのこと。


 小夜子はとーすいの饒舌な説明に目を丸くした。もちろん彼女も子猫たちの世話をしてはいるが、己の美しさについてしか考えていなさそうなとーすいが、甲斐甲斐しく猫たちの世話をしているとは思わなかったのだ。何より、想像がつかない。

 感心している小夜子の目を見て、一方のとーすいはほくそ笑む。


「なんだ、お前? お前ごときの分際で、この俺様に心配されてるかも……とでも考えたのか? ……さてはナルシストだな、お前?」

「とーすいくんにだけはナルシストという言葉で責められたくないです」


 なぜ彼はこうも己のことが大好きなのか、小夜子にはわからない。相手がとーすいだから、ではない。その気持ちが、いまいち理解できないのだ。


 当の彼はといえば、座布団を布団代わりにごろ寝して、天井の明かりを見つめている。そして、そのまま私見を述べた。

「……まあ、お前はもう少し自意識過剰になった方が丁度いいのかもしんねぇな。お前は、お前が思っている以上に、周りから大事に想われてると思うぞ」

 そのぼそっとした台詞にも、小夜子は首を傾げるだけ。その様子に、さすがのとーすいも深い溜息を吐いた。

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