第十二章:さけるもの ー師走・中旬- 其の壱
人、人、人。
大都会の喧騒の中、視界に現れては消え、消えては再び現れる多くの人々。
何が目的なのか……どこから来て、どこへ向かっているのか……彼らが歩いているのを目にしただけでは、僕には皆目、見当もつかないけれど。
同じ時代に、同じ国に生まれ、そして、今この時を共有していることは……偶然などではない。
たとえば、すれ違う人と肩がぶつかり合うのも。視線が合ったのも。
いや、同じ道を、同じ時間帯に歩くというだけでも。
それはきっと、巡ることの積み重ねが起こした一つの事象に過ぎないのかもしれないけれど。
その瞬間、たしかに二人は見えない糸で繋がっている。
そして、今。
一つの糸が――密かに、だが確実に……音を立てて、切れようとしている。
僕がこの手で、切ろうとしている。
それを知った君は……どうする?
君は、僕の手を止めてくれる?
* * *
街の木々が人々の手で装飾を施され、至る所に目映い光が闊歩し始めるこの時期。心なしか人々からは笑顔が溢れ――中でも子供たちは、どきどきと期待に胸を膨らませている。
クリスマスというのは、そんな煌びやかかつ幸福感漂う時節のことであるが、
「英語とかいなくなればいいのに。現代文とか燃えればいいのに……」
一部の学生が、自らの受講している教科を呪い始める時節でもあった。
ちなみにこの声が響いたのは、放課後の図書室である。
四人掛け用の長机に散らばっているのは、歴史と生物の問題集、参考書、そして授業で使われている教科書やノート。全て小夜子、静音、芽衣の物だ。
「世界史の問題集の答え、持ってる?」
傍らの芽衣にそう問うと、黙ってぽんと手渡される。授業で担当教員から言われていたのであろう要点が事細かに記されているため、参考書よりも解りやすい仕上がりになっている。
「楠木さんって、すごい几帳面なんだねー……。いつも、何時間くらい復習してるの?」
「いつも……家の手伝いが無い日は、二時間くらいかな……」
「へえ……? 楠木さんのお家って、お店か何かなの?」
芽衣が素直に応えてくれるのが嬉しくて、思わず勉強そっちのけで質問攻めしてしまう小夜子。しかし、それに“待った”をかけるのは、先ほどから教科を呪い続けている静音である。
「も……意味わかんないっ! 何なの? 『マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝』とか……名前長いんだよっ! 覚えられないんだよ……っ! 改名しやがれこの野郎……!」
ここが図書室だから遠慮しているのか、テスト前ということで落ちた気分がそうさせるのか、掠れた小声でぼやく彼女。
本当は、高らかにこの不満を叫びたいのだろう。そう思うと、彼女を不憫に思えて仕方の無い小夜子ではあったが、「そこまで覚えられない名前でもないのでは……」とも思う。
しかし芽衣は、
「それってそんなに覚えられない名前? 覚えるよう努力してないだけじゃない?」
さらっと思ったことを口にしてしまえるから、小夜子は時々冷やりとさせられてしまうのだった。言いたいことを躊躇い無しに言える芽衣に対しては尊敬どころか、むしろ畏怖の情まで湧いてくる。
己を諌めてきた芽衣に、静音は涙目で唇を尖らせた。
「だってさ、だってさ……名前の最後に『ス』付く奴が多すぎるんだよ……。何だよこの時代の人……鬼か!」
反省するどころかさらに拗ね始めた彼女に、遂に二人はそれぞれフォローを入れ始める。
「……まあ、同じ範囲に『ハドリアヌス』とか『トラヤヌス』とか『ルキウス』とかいるからね……たしかに多いかもね」
「そ、それに人名以外にも『アウグストゥス』とかあるもんね! 本当に多いよ、多すぎるよね!」
「なに覚えられちゃってんのあんたたち? 当てつけか……私への当てつけか!?」
人間、追い詰められると疑心暗鬼になるらしい。図書室で開かれた本日の勉強会で、静音によって思い知らされた教訓であった。
* * *
司書から半ば追い出されるような形で学校を後にしたのは、夕方の五時半のことだった。
澄んだ空からは一筋の光も見えない代わりに、街中は人工的な光と、陽気な音楽で溢れている。この明るい雰囲気に呑まれてか、白い吐息に微笑む静音は、どうやら先ほど損ねた機嫌をやっと取り戻したらしい。
「雪でも降らないかな~」
と、鼻歌交じりに髪を跳ねさせていた。
彼女は突然振り返ると、テストのことはすっかり頭から抜け落ちたのか、
「あ。ねえ、二人はさ、イヴとクリスマスに何か予定ある?」
背後の二人に、そう尋ねてくる。
「何も無いけど……。たしか、イヴは終業式だよね?」
「うん! 通知表なんて……通知表なんて焚き火の材料にでもしちゃえばいいよねっ!」
「そ……そうだね……」
冗談とも本気とも取れる静音のその言葉に、ただただ小夜子は肯定で返すだけだ。
「楠木は? 楠木も何も無いっ?」
「何も無いよ。……でも、何で?」
「いやぁ、せっかくだから、みんなでパーッとやりたいなぁと思ってさぁ! みんなで美味しいもの食べて、飲んで、喋ってー……ってさ、想像しただけで楽しくないっ!?」
いかにも静音らしい言い方に思わず綻んでしまう小夜子だったが、傍らの芽衣はと言えば渋ったような、複雑な表情を浮かべている。静音も、「おや?」と思ったのか、上げっ放しだった両の口角をすっと下げた。
「なんだ、楠木? 何か用事でも思い出した?」
「いや……別に」
芽衣の表情に首を傾げる静音だったが、やがて分かれ道に差し掛かった途端に再びはにかみ出す。
「んじゃあ、私らはこっちだから! 小夜子、気をつけて帰りなね!」
「萩尾さん……気をつけて」
何故、何に気をつけなければいけないのか。そして何故芽衣までもが念を押してくるのかが解らなくて、小夜子も先の静音同様、首を傾げてしまう。
「えーっと……うん、わかった。二人も気をつけて帰ってね?」
そう言って手を振ると、明かりの無い横道を行く小夜子。なぜか背中に温かい視線を感じていたのだが、彼女は振り返ろうとは思わなかった。
それは、
「……また、相談しそびれちゃったなぁ……」
上手く笑えるかわからないから、振り返りたくはなかったのだ。
どこか別の下宿屋へ行くように奏一郎に告げられてから、今日で二週間が過ぎようとしていた。
静音や芽衣に相談したところで解決するものでもないし、下宿先を変えるかもしれない、というだけで。またどこか別の学校へ転校するという話が出ているわけでもないので、まだ話すわけにはいかない、という躊躇いが、小夜子の口を固く。
――……相談したところで結果は見えている……心配をかけるだけ。……言わなくていい、よね。
目の前で、白い吐息が当たり前のように瞬時に霧散していく。当たり前のその光景に、現象に、思わず苦々しげに微笑んでしまう。
「いいなぁ……」
悩みなど、空気に溶けて見えなくなってしまえばいい。
自嘲の微笑を足元に向け、彼女はひたすら暗闇の道へ歩を進めていった。
* * *
去り行く朋友の背中を、生暖かい目で見つめる静音と芽衣。だがその目にはどこか、不安、心配といった感情が、ちらちらと見え隠れする。
「……楠木……。どう思った?」
「萩尾さん、元気、無いみたい」
「だーよーねー……」
足元の見えない道に歩を進める彼女の姿が完全に見えなくなった時、やっと二人も帰路へと足を向けだした。心配の種は、心の中に宿したまま。
「ん~。最近、なんか空元気っていうか。ぼーっと考え事しているみたいなんだよね。なにか悩みでもあるのかなー……」
静音の意見に、芽衣も黙って頷く。
「何だろーなー。……さては……色恋沙汰かなっ?」
にやついたような表情で、明るく言い放つ静音。だが芽衣は、今度は首を縦には振らなかった。
「色恋って言ったって……そんな相手、いないでしょう? 普段、男子となんて碌に話もしないのに」
「ふっふっふ、甘いなぁ芽衣ちゃんよ。ちゃ~んと小夜子のお家には、素敵な男性がいるではないかぁ」
その台詞に、芽衣の足がぴたりと止まる。普段から柔軟でない表情をさらに硬くさせ、眉を引きつらせている。
「……まさかとは思うけど、“奏一郎さん”?」
「ビンゴ! 前々から気になっていそうだな~、とは思ってたんだけど、最近になってようやく自覚が出てきたんじゃないっ? 小夜子ってば十六にして初恋もまだ、みたいなこと言ってたしー!」
自らの憶測に、さらに頬を蕩けさせる静音。だが芽衣だけは変わらず、頑なな表情を崩しはしない。そして、一言だけを添える。
「……あの人は、駄目だと思う」
心の中で本当に思っていることを、嘘偽り無く口にしたのだ。
予想外のその言葉に、さすがの静音も笑みを崩す。
「な、なんで? 奏一郎さん、良い人だよ? そりゃぁ見た目とか、多少は奇天烈かもしれないけどさぁ」
「……そうじゃなくて」
そこまで言いかけて、芽衣は口を噤んだ。本当のことを、言うわけにはいかないのだ、まだ。心のどこかで感じ取った奏一郎の危険性を、芽衣が静音に告げるということはつまり、自身のコンプレックスでもある体質について暴露しなければならない、ということだから。
それは別段、他人に言わなければならないことではない。小夜子には不可抗力でばれてしまったが、静音にそのことを言う必要性は無いだろう、と芽衣は考えた。
第一、まだ奏一郎が何者であるのかすら、はっきりしていないのだ。ただ一つ、わかっていることは――彼が人間ではないということ、それだけだ。たったそれだけのこと。だが、不安な要素は予め排除しておくに越したことは無いというのが芽衣の信条である。
「……歳、離れてるみたいだし。向こうはもう大人なんだから、高校生なんて見向きもしないだろうし。萩尾さんが傷つくの、目に見えてるから。だから……あの人は、駄目だと思う」
芽衣はそっと目を伏せた。詭弁を口にしたことを、後ろめたく感じたのだ。本当は、奏一郎によって小夜子が傷つくのを見たくないだけ。小夜子が傷つく可能性が少しでもあるならば、それらすべてを駆逐したいだけ。
だが静音は、
「……そんなの、わかんないじゃん」
と言って、弱々しく微笑んだ。
「年齢差もあるかもしんないけど、そんなのわかんないじゃん。奏一郎さんって、たしかにちょっと変なところあるけど……何考えてるかわかんないところもあるけど、それでももしかしたら振り向いてくれるかもしれないじゃん」
「……でも、もし萩尾さんが傷ついたら? 私は……そんなの、見たくない」
芽衣の台詞に、目を丸くする静音。小夜子へと向けられた感情が想像以上に大きかったことに、驚いているのだろう。しかし、それでも彼女は笑みを絶やしはしない。それは憐みというよりも、どちらかというと宥め賺すような――柔和な笑みだった。
「……楠木は、疑うことしか知らなさすぎだよ。小夜子のこと、信じるんでしょ?」
「…………」
――信じられないのは、萩尾さんじゃなくてあの男だ……。
心の中でそう叫ぶけれど、それすらも静音には言えない。そして、なにより。芽衣には先ほどから、突っ込みたいことがあったのだ。
「……っていうか。別に萩尾さんが恋に悩んでるって確証、無くない……?」
「はっ……! そうじゃん。ここで私らが喋ってても意味無いじゃん」
指摘されてやっと気づいたらしい静音が、「しまった」という顔で頬を染める。なぜ、こうも話が本筋から急速に飛躍してしまったのか――芽衣自身、わからない。だがもしかしたら、現在目の前にいる静音、そして今や傍らにはいない小夜子のぶっ飛んだ思考に感化されてしまったのだろうか。
そう考えると――なぜか、嫌な気はしなかった。
* * *
街灯のほとんど存在しないこの道を歩くのも、慣れたものだ。まだ心屋で下宿を始めて間もない頃は、森から溢れ出た泥濘に足を取られて、ローファーを汚してしまうことも雨の日にはよくあった。しかし、今では――雨が降ればどの辺りに水溜りができるのか、それがどれくらいの深さなのか、大きさなのか……あれこれと前以て考慮しておけば、綺麗な靴のまま帰宅できる自信がある。
――……四ヶ月って……結構長いもんね。慣れるのも当たり前か……。
この道を通ることも残り少なくなってしまうのだな、と思うと、浮かべている微笑には相応しくない感情が、小夜子の体中を駆け巡った。心のどこかにぽっかりと穴が空いてしまったような虚無感。単に悲しい、よりも。寂しい、よりも。存在しているのかしていないのかも定かではない“虚無”が心を占めているのだ。
虚無を払うかのように、ふと空を見上げてみるけれど。闇色の雲が空を覆う様はどんよりとしていて、見ていて気持ちが良いものではない。その反面、真冬にどんどん向かうはずの時期であるにもかかわらず、潤いの無い空気はどこか温かさを孕んでいて――それだけが、今の彼女の拠所である気がした。
歩を進めるごとに、視界を埋め尽くしていくオレンジの光。闇に浮かぶそれは紛れも無く、心屋の灯りだ。いつもであればこの時点で、奏一郎の夕食の手伝いをしようと玄関まで直走る彼女なのだが、今やオレンジの灯りを見るだけでも、その瞳は憂いに揺れる。
鍵の掛かっていない扉を開け、
「ただいまでーす」
いつものように、挨拶を口にする……けれど、返ってくるのは、
「おう、女」
横柄な銀色の水筒の、小学生のような高い声。あとは、耳を澄ませば聴こえてくる、あんずの子猫たちの鳴き声だけだ。小夜子は黒の斑が特徴の子猫を一匹、胸に抱き寄せる。
「ちゃんと良い子にしてた?」
言語など話せるわけがない、とわかっていても、猫に直球で質問をしてしまう小夜子。彼らは、返事の代わりに愛らしい鳴き声で応えてくれる。まだ子猫である彼らの体は小さく、抱きしめると容易に潰れてしまいそうだ。だがこの声の癒しの効果は抜群に感じられるため、つい力を込めて抱きしめてしまう。
「随分と遅かったじゃねえか」
ここで、猫よりも人語を話すはずの無い者――よりにもよって水筒――が、自分を仁王立ちで見上げてきたので、小夜子も閉口せざるを得ない。




