第十一章:めぐるもの ―師走― 其の十七
そして、ふっと視線を背の高さに戻した時。視界に突如飛び込んできたのは――不規則に立ち並ぶ木々の中だからこそ余計に目立つ、粗末な切り株だった。
ちょうど小夜子の脛ほどの高さしかなく、そこから上は無残にも折られてしまっていて、影も形も無い。一見、何の変哲も無い、ただの切り株。
だが小夜子は、なぜかそれから一瞬たりとも目線を外せずにいた。静かに佇むそれから漂う違和感に、そうせざるを得なかったのだ。
気になったことは、一つだけ――この切り株の断面が、平らではないのだ。切り株を直接目にするのは初めての小夜子だったが、これまでテレビで観てきたような切り株は、斧やチェーンソーなどで切断したためか年輪がはっきりと見えていた気がするのだ。
だが目の前にあるこの切り株は、断面のところどころに凹凸があるため、少なくとも人の手によって切られたものではないことが判る。剣山のような断面に不用意に触れてしまっては、指に棘が刺さってしまうだろう。
人為的に切り取られたのではないとしたら、幹が腐り、自然と折れてしまったのだろうかとも思えるのだが、どうも小夜子には、その線は薄いように感じられた。
なぜこの切り株に目を奪われてしまっているのか判らないまま――小夜子は、無意識ながらその切り株に手を伸ばそうとしていた。
目のみならず、その切り株に、心までもが奪われかけていることに気づかないまま――。
「さよ」
「……!」
風が、指と切り株の間を駆け抜ける。そこに乗せられた透明感の溢れる低い声が、一瞬にして小夜子の体を化石化させてしまっていた。そう、彼の声は透明感がありすぎて――まるで、確実に背後にいるはずなのに、実際はそこに誰も存在しないかのような――不気味な感覚を、心身に植え付けられる。
「さよ……そこで、何をしているの?」
背中にかかった髪の毛を、ふわりと胸元まで攫っていく風。冷やりとしたそれに全身を撫でられたその瞬間に小夜子は、この森に流れる空気の全ては、彼から――奏一郎から生まれているのではないかと、一瞬でも思い始めてしまっていた。
彼が全てを呑み込み、網羅し、支配してしまえそうな……そんな存在だからか。そしてそんな存在の冷たさを帯びた声に、鳥肌を生じさせてしまっているのは事実。
「……それに、触れてはいけないよ」
さらに紡がれる言葉に、もはや小夜子は金縛りに遭ったかのごとく身動きができなくなっていた。背後の存在の表情を見ることすら、なぜか恐ろしく感じられて。
だが、視界の隅から中心へと現れた彼の所作は、表情は、そして口吻は、
「……棘が刺さったら、怪我をしてしまうだろう?」
思いのほか、とても柔らかいものだった。
「……そ、ういちろうさん……」
金縛りから解放された唇が、彼の名を呟く。視界に捉えた彼の表情が、氷づけにされた全身を溶かしていく。
そこにあったのは、非情な鬼の形相などではなく――平生目にしているような、温かで屈託の無い微笑みだった。笑みが形作られた唇が、さらに温かな言葉を零していく。
「心配したぞ。帰ってきたら、とーすいくんが『女は出かけた』なんて言うし……。もうすぐで真っ暗になってしまうのに、こんなに広い森の中で、迷子になったらどうするんだ?」
「そ、奏一郎さん、す、すいませんでした。私……」
拍子抜けした小夜子の唇からは、次々と言葉が溢れ出てくる。先ほどまで、体ごと固まってしまっていたのが嘘のようだ。彼女の言葉を遮るようにして、奏一郎はくすくすと笑った。
「謝らなくっていいぞ。僕のこと、心配して捜しに来てくれたんだろう? ありがとうな」
「……えーっと……」
奏一郎の言ったことは半分事実で、半分間違いだ。たしかに奏一郎を捜してはいたが、心配だとかそういうことではなかったし、それに、もう一つの探し物もあったのだ。
“奏一郎の生まれた場所”――。
しかし小夜子は、既にその場所に足を踏み入れているような――既に正解を手にしてしまったような、そんな気がしていた。
――……まさか、奏一郎さんの生まれた場所って……。
「さよ? 帰るぞ?」
再び、今度は思考を遮る奏一郎の声。
「……あ、はい……っ」
先に木々を掻き分けて歩く彼の背を、小夜子は追いかける。触れることは叶わなかった切り株に、なぜか後ろ髪を引かれる想いでいながら――。
奏一郎の背中を追うようにして歩いてみると、ほんの十分ほどで庭の畑が見えてきた。森を一人で彷徨っていた間は時の流れを果てしなく感じていた小夜子だったが、いざ辿り着いてみると、案外と単純な道のりであったことがわかる。
だんだんと姿を現した心屋だが、それと同時に、縁側に腰掛ける銀色の水筒が夕陽を反射して、小夜子の目には眩しく感じられた。
よく見てみると彼は火を起こした七輪に、健気に団扇で風を送っている。
「ただいま、とーすいくん」
奏一郎が極めて快活に挨拶すると、当の水筒は「おう」と応えるだけで、あとは小夜子にそっと目配せし始めた。
その目は、「見つかったのか」と問いたげで。だが、奏一郎が傍にいるから尋ねることができないのだろう。そしてそれは、小夜子も同じ。口で答えることはできない。
もしかしたらとーすいの目的は、奏一郎と自分を会わせることよりも、“奏一郎の生まれた場所”に自分を向かわせることだったのかもしれない、と、小夜子は考えた。でなければ、「森の中を探しに行け」などと彼は言わないだろう。初めてとーすいと出会った時、彼が小夜子の問いに対しあまり素直に返してはくれなかったのも、本当は奏一郎の正体に関して、とーすいは何も言ってはいけないことになっているからなのだろう、と。
小夜子はとーすいの目線に、ひたすら苦笑で返すだけだ。「見つかった」とも言えないし、「見つからなかった」とも言えない。そもそも、あの切り株がとーすいの言う“奏一郎の生まれた場所”なのかどうかの判断はつかないし、それと奏一郎の出生の関係性もわからない。
先ほど、奏一郎本人に訊けばよかったのだろうが、彼はきっと答えてはくれないだろう、と半ば諦めた気持ちになり、それも叶わなかった。
彼は嘘はつかないがその分、本当のことも滅多に教えてはくれない……そういう存在だから。
――……私はずっと、それに甘えてきたんだろうな……。
ずっと、そうやって自分に言い聞かせることで逃げてきたのだろう、と小夜子は思った。自分が彼について知ろうとすればするほど、彼は遠ざかっていく。自分を、遠ざからせようとする。
それを、小夜子はひどく寂しく感じてしまうから、だから彼の正体についても今まで、自ら触れようとはしてこなかった。彼が己の正体を隠そうとするなら、最初から探らなければいい。そうすれば、平穏な生活は維持されるはず――。
そうして、逃げてきたツケが今更になって回ってきたのだ。
本当は、とーすいに言われる前からわかっていた。彼が人間ではないということを。確証が持てないから、というのは単なる詭弁。そう思いたくなかったから、認めてこなかっただけだ。
体育館倉庫での奏一郎の行動だけでなく、穏やかで優しい心屋での生活が壊れてしまうのがとても、小夜子は恐ろしくて。
だから今、朗らかな表情で夕食の準備を始めている奏一郎のことを、恐れる必要も理由も、無いはずなのだ。
それなのに、未だに隔たりを見せる二人の距離。小夜子が作り上げてしまった、心の距離。
――……私は、本当は、何が怖いんだろう……?
小夜子が思案しているうちに、奏一郎は着々と夕食の準備を進めている。やがて、
「さよ。少し早いけど夕食にしよう」
彼のこの呼びかけで、やっと小夜子は思案の渦から抜け出したのだった。その間にも、結局答えは出なかったけれど。
「さよ。榎本さんって、覚えてるか?」
とーすいから団扇を手渡された奏一郎が微笑みながらそう尋ねてくるので、小夜子は頷いた。
「あの、商店街の和菓子屋さんですよね?」
「ああ。さよが入院したことを報告したら、とても心配してくれてね。『貰い物で悪いけど』と、蛤を二人分いただいてしまったんだ。俎板の上にあるから、持ってきてくれないか?」
その言葉に台所へ駆けると、俎板の上には、蝶番が切り落とされた蛤が二つ。落とさないようにしっかりと手に持ち、転ばないように足元に注意を払いながら、どうにか縁側に腰掛ける奏一郎の元へと辿り着く。
「ありがとう」
そう言って微笑んだ彼は、七輪に蛤を乗せて焼き始めた。
「俺様のおかげで焼けているんだぞ」と言わんばかりに誇らしげに胸を張っている銀色の水筒がいるのだが……小夜子はそれを視界の隅に捉えただけで、何も言わない。謝辞はあくまで心の中だけで済ませておく。
そしてそれは、奏一郎も同じらしかった。
「榎本さん、まるで自分の子供のことのように心配してくれていたぞ」
「……親切ですね……本当に。そういえば少し前には、栗も分けてくれましたもんね。明日にでもお礼に行きたいです」
「ああ、元気な姿を見せてくるといい」
そう言って、七輪の中を漂う炎をじっと見つめて、朗笑を浮かべる彼。
いつもどおりの笑み。いつもどおりの、柔らかな口吻。
懲りずに、それにまたひどく安心してしまっている自分が、小夜子は少し嫌になりそうだった。
顔を上向ければ、空はもう夕闇に移り変わろうとしているが、そこにゆらゆらと細い白煙が立ち昇っている。まるで、まだ真っ白な風貌を残しつつある雲と、同化しようとしているよう。暖色と寒色の空が織り成すグラデーションはひどく鮮やかに目に映り、ひどく美しく思わせられた。まだ東の空は、青色を残している。だがそれも、やがては闇色に染まるのだろう。
「……この七輪、二階の物置にあったんだけどな」
そう話を切り出したのは、奏一郎だった。
「ああ……そうですよね。台所に七輪なんて、無かったはずだよなぁって思ってました」
「うん。暇だったから物置部屋を少し掃除していたら、様々な掘り出し物と一緒に見つかってな」
言葉の途中で、彼は蛤の汁を捨て始めた。捨てて良いのだろうか、と小夜子は一瞬だけ思ったのだが、調理に関しては彼に口出ししないことを彼女は心得ている。
「知り合いの質屋さんに見てもらおうと思ってな、東京に行ってきたんだ」
「へぇ~……。東京ですか……」
東京とその隣県のちょうど境目付近に位置する心屋からは、細長く立ち並ぶビルがいくつか見える。心屋から、東京の中でも人通りの多い繁華街に行くとしても徒歩でも一時間はかからないし、電車など使えばものの十数分で辿り着ける。かなりの近場である――が、どうも「大都会」と奏一郎の組み合わせが調和されないような気がしてしまう。
――……東京かぁ。奏一郎さん、やっぱりそこでも浮くんだろうな……。
そんなことを小夜子が思っている一方で、奏一郎ははしゃぎつつ東京に関する話をしていた。
「驚いたぞ。何と言うかな……そう、駅にたくさん人がいるんだ。あっちこっち何の地図を見ることもなく目的地に向かっていてな。全員が早足なのにも驚かされたな……」
ゆったりとした仕草が常の奏一郎のことだ、その光景にはさぞかし驚いたのだろう、と思うと、小夜子は自然と笑みを零してしまう。
「あと……そうそう、僕と同じような下宿屋の広告も見つけたんだ。さすが、東京は広いからな。この近辺だけでも、三つは下宿屋があるらしいぞ」
「へぇ……そうなんですか?」
たまたま父に勧められ、半ば強制的に心屋に来た小夜子だったが、ここを勧めてくれた父に感謝しなければ、と薄らながら彼女は思った。
が、その矢先だった。
「色々、手続きが面倒だったりそうじゃなかったりするんだけどな。……そういうのは全部、僕がしておくから……」
奏一郎は改めて微笑んで、
「だからね、さよ」
あくまで優しい口調で、
「ここじゃなくて、どこか、別の下宿屋に行きなさい」
小夜子にとっては辛辣な命令を、下したのだ。
「……え?」
呆けたような言葉を返してしまった小夜子だったが、奏一郎は呑気なことに、もう一度蛤を七輪の網に乗せ、先ほどと同じ面を焼き始める。
「ここじゃ、何かと不便だと思うんだよな。空気は綺麗かもしれないが、何せ古い建物だ。……それに、下宿生が一人では、心細いこともあるだろう?」
「そんなこと……」
「ない」と、真実を口にしようとしているのに――奏一郎は、言葉を遮ってくる。
「大丈夫。新しい下宿先は条件の良いところを探しておくし、一人じゃ不安なら、下見にも付いていくから。もし良いところが見つかったら、さよのお父さんには僕から説明するから。……何も、問題は無いだろう?」
「……問題、ありますよ……!」
震えた唇に、もはや体温は感じ取れなくなっていた。が、いつの間にか小夜子は、『自分の言いたいこと』を、少しずつではあれど、吐き出すことができるようになっていた。これは――忘れかけていたこと。奏一郎が、思い出させてくれたことだ。
なのに、
「どうして?」
またしても、彼は体育館倉庫で口にしたのと同じ疑問を、あの時と同じ表情で小夜子にぶつけてくる。人の口をいとも簡単に封じてしまう、冷笑と共に。
「どうして? 下宿先がここじゃなきゃいけない理由なんて、無いだろう?」
「……それ、は……」




