第十一章:めぐるもの ―師走― 其の十六
小夜子の思案をよそに、とーすいは饒舌に続ける。
「だから極力、旦那は“お客様”以外の人間とはあまり関わらないようにしていたんだ。……お前が来るまではな」
「私、が……?」
意外な言葉に、きょとんとしてしまった。自分という存在が、奏一郎に何かしらの影響を与えていただなんて、夢にも思っていなかったから。
「お前が来てからは……正確には、お前から心を貰ってからは、かもな。眼鏡とか跳ねっ毛とか、交遊関係も広がったし……。『これから先に起こることを知ろう』と思うことも少なくなったんだよ。『何が起こるかわからないから、人生は楽しいんだ』ってな。以前の旦那だったら、そんなこと言わなかったろう。他の追随を許さないお前のドジっぷりが笑えるから、そう思い始めたんだろうけどな……」
うんうん、と頷くとーすい。だが小夜子は失礼なことを言われたことよりも、彼がさりげなく口にした言葉のほうに気を取られてしまう。
「眼鏡に跳ねっ毛って……もしかして橘さんと桐谷先輩のこと……? なんて失礼な……っていうか! 奏一郎さんが私から心を貰ったって、いつ!?」
身に覚えが無い。奏一郎がいつの間に、自分から心を貰ったと言うのだ。とーすいの体を揺さぶりつつ問い詰める。
「俺様がカラスの野郎に誘拐されたときだ。まあ俺様のパーフェクトボディの魅力に、奴も本能が眩んだんだろう……」
「いや……それはいいから! どういうこと!?」
正直、ナルシストの自慢話ほど聞きたくないものは無い。
しかし、とーすいの自慢を交えた説明は残念ながら続く。
「俺様だって、この美しい身形ながらも心屋の商品だ。お前が自らの身の危険も顧みずに、カラスに誘拐された俺様を助けようとした時……“人のために尽くす心”を、たしかに旦那はお前から貰ったんだ」
彼が、カラスに誘拐される――そんなこともあったな、と回顧する。それと同時に、たったそれだけで――本当に心屋の商品に触れるだけで、奏一郎に心を与えたことになるのか、と内心驚いてしまう。
心を与えられた奏一郎はともかくとして、心を与えたほうは、そんなことにはまったく気がつかない。
相手にどんな影響を与えているのか、与えたほうはまったく気がつかない――これもまた、“巡る”ことに繋がっているのだろうか。
そして、さらにとーすいは、さも当然のことのように言い放つのだ。
「だから旦那は、心をくれたお前にいいことが起こるようにって、巡らせたんだろ」
「……はい?」
――“巡らせた”? 何を言ってるの?
心中の疑問に、とーすいが答える。
「旦那はな、心をくれた“お客様”には巡らせることで吉事を返してんだよ、お礼の意味を込めてな。お前も俺様を助けた後すぐに、いいことあったろ? あれも、旦那が巡らせたお陰だぞ」
「いいこと……?」
思い返してみる。
心屋の商品である“水筒”を追いかけた後、三、四メートルほどの小さな崖から落ちて、恐怖から気絶して。目覚めた後、“ただの水筒だったもの”は、なぜか意志を持って立ち上がっていて。自分の服は気づけば、泥まみれになっていて。
――いいことって、言うか……むしろ散々、の間違いじゃないかな。
その後も、どこかに出かけていた奏一郎に、泥だらけの姿を笑われて。
そして――その夜、もはや関係の修復など絶望的と思われていた父から、電話があったのだ。
煙草を止めると。いつか、迎えに来ると。
謝罪の言葉は無かったが、不器用な父としてはあれが限界だったのだろう。
素直に嬉しいと思ったわけではない。父である徹が、かつて自分にしてきたことを考えると、素直になどなれるはずがなかった。
それでも――心に、なにか温かなものが灯されたのは、揺るがない事実。
「妙だとは思ってたんだ……。お父さんが突然、今までの自分を反省しだしたから。私のことを家から追い出したのに、変なの……って。……奏一郎さん、お父さんに何したんだろう……」
「……さぁ、な」
歯切れ悪く返すとーすい。恐らく何をしたのか知っているのだろうが、あえて口を閉ざしているのだろう。ならば小夜子も、もうこれ以上問い詰めたり、無理に訊いたりはしない。
だが、とも思う。
「……でも橘さんたちとの交友関係は、それは別に私の影響ってわけじゃないんじゃないかな……」
橘は、小夜子よりも先に奏一郎と出会っている。ならば自分が奏一郎の交友関係を広げたと言うのもおかしいだろう。そう冷静に判断しての発言だったのだが、
「何言ってんだ。お前が、今の旦那と眼鏡を巡らせてるんだろ」
「へ?」
さも当然のごとくとーすいがそう言うので、思わず素っ頓狂な声を出してしまう。
「覚えてねえのか? お前が言ったんだろ。『二人はもう、友達なんじゃないんですか?』ってな。あの一言があったからこそ、今もあいつらは何だかんだ言っても月に一度や二度は会ってるんじゃねぇか。お前のあの一言が、今のあいつらを形作ってるんだぞ」
「えー? そんなこと、言ったっけ……?」
正直、思い出せない。小夜子が思い出を振り返る際に思い出せないことがあるのは、そのとき恥ずかしい想いをしたためにそれを忘れようという傾向があるからなのだが、彼女自身にはその自覚が無いらしい。
「それに仮にそう言ったとしても、私の一言なんてただのきっかけでしかないと思うし……。巡らせるなんてそんな大それたこと、私にできるわけないと思うんだけど……」
「おまえ……俺様の説明本当に聴いてたのか……?」
信じられないとばかりに目を見開くとーすい。だが、もはや驚くのにももう疲れたのだろう、落ち着いた様子で小夜子に諭す。
「万物は巡るって言ったろ。いくつもの些細なきっかけ、その積み重ねが繰り返されて……そして、一つの結果が現れる。それが、巡るってことだ。巡ることそのものは、それほど難しいことでも、恐ろしいことでもねぇ。本当に恐ろしいのは……巡ることを知っている存在がこの世にいるってこと、ただそれだけだ」
とーすいはそれだけ言うと、体をぴんと伸ばして立ち上がり、小夜子の目をまっすぐに見据え始めた。当の本人は、とーすいにさらにその奥――自分の心までもが見つめられているような気がして、心なしか萎縮してしまうのだけれど。
「さて、これでお前は、やっと旦那のことを“知った”わけだ。……だが俺様の説明聴いて、“知る”ってのがどんなに恐ろしいことなのか、少しはわかってきたんじゃねぇか?」
先ほどから、彼が多用する“知る”という言葉。そういえば、彼は説明を始める前にも使っていたな、と思い出す。
『知らなかった頃には絶対に戻れない。それでも、“知る”勇気はあるか?』と、神妙な面持ちで尋ねたのだ……。
「……“知る”っていうのはな、相手の命を握ることと同じなんだ。旦那がどういう存在なのかを知ったお前が、これから先どう動くかで旦那の命運が決まる。時には、第三者……この場にいない者すら巻き込むことだってあるだろう。たとえお前がそれを望んでいなかったとしても、その運命を拒んだとしても……だ」
だから“知る”ということは恐ろしいのだと、とーすいは言う。
しかし小夜子は、奏一郎がどのような存在なのかまだ聴かされたばかりで、その恐ろしさについて完全に実感できてはいない。もちろん、それはとーすいも言わずもがな理解している。
ただ、彼は傍観するだけだ。これから先、何が起ころうと起こらなかろうと傍観者に徹し、選択した者にとっての道標となるだけだ。
「旦那の居場所、知りたいか?」
試しにそう問いかけると、目を見開きすぐさま頷く、当事者の少女。その呆けたような真摯なような表情を複雑な心境で視界に入れながらも、とーすいは真実を告げ、自ら案内板の役目を負う。
彼が指すのは小夜子の背後――生い茂った常緑樹林。その木々の合間に見える彼方は日光を遮り暗闇を彩り、まるで人どころか如何なる生命体をも拒んでいるかのよう。
そこに行け、ととーすいは言うのだ。
「まだ日の出ている今のうちに、探し当てろ。夜だからこそ見られるものもあるが、暗闇だからこそ見えないものもあるんだってこと、忘れずに歩いて、歩いて、探しに行くんだ。旦那が今いる場所は、お前が行くべき場所は……」
少女の目に映る、困惑と少しの不安の色。その色を薄め、褪せさせてくれる、少なくともその可能性を多分に秘めているはずの存在のもとへと、歩いていけと。
「……旦那が、生まれた場所だ」
後悔することになるかもしれなくても、探しに行け……と。それだけ言って、案内板は最後にその口を閉じた。
* * *
太陽が東の空に別れを告げる時間が、だんだんと早くなっていくこの季節。
まだ夕方の四時であるにもかかわらず、早くも森の中は闇一色に染まろうとしている。そんな中、小夜子はとーすいに言われるがまま、素直にまっすぐ、ただ闇雲に奏一郎を、そして“奏一郎が生まれた場所”を探し歩いていた。
もちろん一切躊躇しなかった、わけではない。探しに入るのは視界の悪い森の中。その上、目的地に辿り着くための目印も特には無いらしい。
「探しに行け」と言う割に、その目的地の特徴も何も教えてくれないなんて、と憤慨せざるを得ない小夜子。だから仕方なく、
「奏一郎さーん」
目的地にいるらしい彼の名を、できるだけ大声で呼ぶことを先ほどから何度も試みているのだが、一切の反応も無い。ただ辺りを占めているのは、不変的な静寂だけだ。
「……静か、だなぁ……」
気まぐれに吐き出された独り言さえも、木々や地面にゆっくりと浸透しているようで、少しだけ薄気味悪い気がしないでもない。世界に一人だけ取り残されてしまったような孤独と寂寞が、足の爪先を伝って全身に流れていくよう……。それでも、それを振り切るようにして、小夜子は足を止めずにさらに奥へと進んだ。
とーすいがカラスに誘拐されたときでさえ、ここまで奥まった所には来なかったかもしれない、と考えてしまう。三ヶ月ほど前の記憶を、ぼんやりと手繰り寄せながら。
しかしいつまでもぼーっとしていると、枝にうっかり髪の毛を絡ませてしまい、せっかく結わった髪紐が解けてしまうので油断はできない。気を引き締めていないと、いつまでも奏一郎のもとへは辿り着けない。そう、不思議と思わせられた。
「……奏一郎さーん」
“巡ることを知っている”、彼の名を呼ぶ。だが、変わらず応えは無い。
「奏一郎さーん……!」
反応は無い、無いはずなのに。
名を呼ぶたびに、彼が近くに来ているのではないか、という、大きな期待と少しの恐怖がまとわりつく。
名を呼びながら思い出すのは、やはり倉庫で見た“鬼”の顔。
彼が心を持っていないから、そして物を通じて心を得る、そういう存在だから。だからこそ、梢にあんなことができて、あんな表情ができたのだろう、と判ったときは――どこか安心したはずなのだ。
彼が自分の意志で梢に酷いことをしたわけではなかったのだと、ほっと胸を撫で下ろしたほどだ。
それなのに。
――……私は……どうして……まだ、奏一郎さんと会うことを怖がっているんだろう。
自分で、自分のしたいことがわからない。何をどうすべきなのかわからない――。この森に来ると、いつもそんな気持ちにさせられてしまう。
広大な森にもいつか終わりが来るはずなのに、歩けど歩けど、終着点である光をいつまでも暗闇は呑み込んでしまっているようで。終わりの見えない、終わりを果てしなく感じさせるこの森の空気が、言いようの無い焦燥感を生み出すのだろうか。
後ろ向きなことを考え続けて、いつの間にか伏目がちになってしまっていたせいだろうか。
小夜子は今、自分が歩を進めている場所が、先ほどとはまったく違う空気を出していたことにやっと気づかされたのだ。
鬱蒼としていて、張り詰めた空気とは打って変わって、小夜子が今足を踏み入れている場所は非常に開放的だった。と言うのも、首を上に向ければ空を仰げるほどに木々の間隔が広く、新鮮な空気が充満し、また周辺を循環しているのだ。
この空気は――心屋と似ていた。木々で濾過された風が、体の熱を冷ましてくれた――初めて心屋に来たときの空気と似たものが、体中を駆け巡る。
「……心地いいなぁ、やっぱり……」
自分にとっての心屋がどれだけ過ごしやすい環境であったか、そしてどれだけ、自分が心屋を拠所としていたのか――こういう時だからこそ、深く、深く実感してしまう。
――……もう、前みたいな穏やかな生活はできないのかな……。
そんなことを考えた瞬間……潤んだ瞳に、乾いた空が映り込んだ気がした。




