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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第三章:よわいひと ―葉月― 其の弐

* * *


 その部屋の中は、決して片付いているとは言えなかった。

 開きっぱなしのスーツケースに、キャリーバッグが倒れた状態で廊下に放置してあるのはまだ良いとして。生ゴミや空き缶、割れた皿やコップがほぼ分別されることなく入った、太ったゴミ袋も三つほど台所に並んでいた。部屋の空気もしばらく換気をしていなかったせいか、(こも)った匂いに時々むせ返りそうになる──。この部屋の主さえも、そう感じていた。

 彼はパソコンの画面を睨みつつ、キーボードを壊さんばかりの勢いで叩き続け、かと思えば時折忙しい振る舞いで、腕時計で時間を確認する。夕方の四時。彼がこの部屋を発つまで残り数時間を切ろうとしていた。必要な荷物は全て、スーツケースとキャリーバッグに詰めてある。

 朝食も昼食も口にしていなかった。が、台所には寄りたくない──ただそれだけの思いから、コンビニで購入したゼリー飲料で空腹を誤魔化す。喉に流し込む。


 ──台所に立つと、()()()の割った皿やらコップやらが目に入って嫌になる!


 一つ大きな舌打ちをして、男は再びパソコンに目を向けた。

 と、耳を掠めるは聞き慣れない呼び鈴の音。


 キーボードで走らせていた手の動きを止め、男は眉を顰めた。


 ──一体誰だ、この忙しい時に……!


 呼び鈴に備え付けられたモニターを見ると、そこにはいかにも怪しい男が映っていた。どう怪しいかと言うと、若い見た目にはそぐわないほどの見事な白髪。目も碧く、口元も微妙に動いている。

 インターホンの受話器を取ると、その“怪しい男”の独り言が自然と聴こえてきた。


《……これが呼び鈴というやつか。押と書いてあるから押したら……ふむ。文明の利器だな、これは……》

「……どちら様で」

 冷たくそう言うと、衝撃を受けたような顔をする。

《えーと、こちらの声、聞こえてますか?》


 ──……何を言っているんだ、こいつ……。不審者か。通報するか?


 悩みつつ、なるべく警戒心を隠すようにして穏やかな声を意識する。

「……で、どなたですか」

 相手はその言葉に表情をぱっと明るくした……ようだ。


《直接お会いするのは初めてですね。『心屋』の奏一郎と申します。一度、ご挨拶に伺わなければと思っていたもので。……『萩尾 (とおる)』さんのご自宅で、間違いないですよね?》


 扉を開くのに、なかなか勇気が要った。なにせ今の今まで爺さんだと思っていた相手だ。それが、娘を預けた下宿先の主人は──あまりにも若い『奏一郎』。躊躇いも大きい。

 ソファに案内された奏一郎は、徹の出した緑茶に笑顔で応えた。


「大切なお嬢さんをお預かりしている身ですし、ご挨拶しなければ、とずーっと思っていたんですよ。いやあ、ご挨拶遅れまして申し訳ございません」

「それは……わざわざ、どうも」

 テーブルを挟んだ向かいのソファには敢えて腰かけず、台所に立ち、この奇抜な存在を観察する。


 ──……突然の来訪もそうだが、何を差し置いても、この奇抜な格好は非常識なんじゃないか。


 心の中では青筋を立てながらも、徹はうっすらと笑みを浮かべた。

「いや、こちらこそすみませんね、今夜から長期の出張があるものでバタバタしていて。何のお構いもできませんで。……事前にお電話でもくだされば、色々と用意もできたのですが」

 この徹の台詞には、『来る前に連絡くらいしろ』『忙しいからさっさと帰れ』という意味が込められている。知ってか知らずか、奏一郎は笑顔だ。

「いやあ、我が家に電話は無いもので。それにしても立派なお住まいですねえ」

 そう言って、きょろきょろと辺りを見回す。よくいる無遠慮な子供のよう。やがて彼の視線は、和室で止まる。


「……おや。奥様、ですか」

 和室に飾られた写真には、柔和な笑みを浮かべた女性が写っていた。大きな茶の目は目尻がほんのり垂れていて、小さな鼻と口が上品そうな雰囲気を醸し出している。

「家内です。……四ヶ月前に、先立たれまして。もう遺影や仏壇なんかは、妻の実家に移してしまいましたが」

「そうですか、それは……ご愁傷様です」

 奏一郎が深々と頭を下げ、徹は軽く会釈を返した。結局、こいつは何をしに来たのだという苛立ちの表情を隠しながら。

 しかし──、

「お嬢さん、似ていらっしゃいますね奥様に」

 その言葉に突如、徹は眉をぴくりと動かす。

「……ええ、まあ。あの子は少なくとも私似ではありませんでしたね」


 徹は思わず奏一郎に背を向けた。彼の言い方が、口吻の全てが、わざとらしく感じて癪に障るのだ。唯一わざとらしく感じなかったのは『ご愁傷様です』くらいだろうか。

 乱暴な仕草で換気扇のスイッチを入れる。徹はポケットから煙草を取り出し、ライターに火を点けた。白い煙をぷかりと吹けば、換気扇の中にそれらはゆっくり吸い込まれていく。ほんの少しだけ、先程までの波打った気持ちが和らいでいく。……が、それも長くは続かない。


「あれ。煙草、吸われるんですね」

「ええ」

 短く答えれば、含み笑いをしつつ口を開く奏一郎。

「へえ……。お嬢さんが、肺を患っているにもかかわらず?」


 決定的、だった。彼は自分を侮蔑しているのだと。そう理解した瞬間、徹はシンクに煙草を埋め乱暴な仕草で火を消した。それでもなお、

「運動は必要に迫られない限り極力させないこと。車や工場などの排気ガスをなるべく吸わせないように注意すること。埃も煙草の煙も、彼女からは遠ざけるようにすること……でしたっけ?」

 そこに書いてあるように、奏一郎は天井を見上げて淡々と言葉を舌に乗せていく。

 それはかつての徹が、小夜子の担当医に言われたことだった。肺の弱い小夜子と生活していく上で必要な事柄だった。何故それを奏一郎が知っているかといえば──徹が、書類として彼に郵送したからに他ならなかった。


「そんなに追い出したかったんですか? そんなに許せなかったんですか?」

「何が……言いたいんです?」


 ふと奏一郎の視線を追えば、テーブルの上。そこには、吸殻が山積みになった灰皿──到底、ここ一週間では吸いきれないだろうほどの──。

「弱い……」

 そう呟いた奏一郎は、笑っていた。

「弱い人間ですねぇ、あなたは」

 堪えきれないのか、本当におかしそうにけらけらと笑う。そこにはさきほどまでのわざとらしさは微塵も無い。本気で、笑っているのだ。

 徹は唇を噛んだ。


「車の事故だったんですよね、たしか。奥様が亡くなった悲しみを紛らわすために、こんな形でお嬢さんに八つ当たりするなんて、最低……いや、下種も同然ですね」

 笑顔の残る奏一郎に対し、徹は食器棚を拳で叩いていた。吸殻の山が衝撃で崩れる。彼は唇をわなわな震わせながら、怒りと憎悪の目を奏一郎に向ける。


「うるさい……。おまえに、何が分かる!? あのとき、車に一緒にいたアイツは、妻を助けられたはずなんだよ……! ……それなのに、また失敗して……自分だけ、自分だけ助かりやがって!」

 彼の喚きにも似た悲鳴に、壁がジンジンと響くように揺れた。震える唇、泳ぐ視線。血管の浮き出た顔からは、先程までの冷静さなどとうに消え失せていた。


 それでも奏一郎は、そんな彼を見てきょとんとするだけだ。


「“アイツ”って、誰です?」


 静かな問いに、徹の時は止まった。


「お嬢さんのことを言っているんですか? いや……違いますよね? だって事故の時、彼女は学校にいたんですから」

「……ちが、う」

 先ほどまでの激昂した態度はどこへ行ったのか、徹の声は震えだし、目は恐れの色を映し始める。その中心には、“得体の知れない”彼が映る。

 それでも奏一郎は続けた──笑みを浮かべながら。片方の口角をただ上げたような、慈悲の無い笑みを。


「『車で一緒にいた』? “誰”が一緒にいたんです? “小夜子”が? いいや……“あなた”が? 本当は“あなた”が助けられたはずだったのに……?」

「やめろぉっ!」

 突然の叫びと同時に、奏一郎の目の前を白い何かが通過する。途端、耳元で鼓膜が破れそうなほどの高い音が響いた。見ると、壁に当たって割れた皿の破片が、奏一郎の足元に散らばっている。

 徹はそれに目もくれず、ただひたすら打ちひしがれたように、頭を抱えて跪くだけ。

 そんな彼を、碧い目は見下ろす。


「……呆れるほど、弱い人だ」


 ぽつりと呟かれたその言葉は、傷ついたフローリングに静かに落ちていった。


「それなのに。……あの子は」

 掠れた声。何かを思い出そうとするかのような、浮ついた声。

「それでも、待っているのに……」

 これまでのどれよりも穏やかな声色が、徹の耳に入ってくる。さらに、

「……さて」

 これまでとは一転、調子の良い軽快な声に徹は頭を上げた。


「言いたいことも言ったので、私はこれで帰りますね」

 奏一郎は笑顔だった。すっきりしたような、爽やかな表情のまま玄関へと向かっていく。草履を履き、まるで大したことでもないかのように──何事も無かったかのように──徹の方へと振り返る。


「あ、そうそう」

 肩を震わせる徹。今の彼には視界の中心に映るその人物が、その一挙一動が、(ことごと)く恐ろしく見えた。


「お嬢さんね、ずっと『ケイタイ』とやらを気にしてますよ。……誰からの連絡を待っているんでしょうね」


 ――……誰、から?


 徹の頭の中に、真っ先に浮かんだのは──。


 どうしてだろうか、満天の星空だった。


 幼いあの子の手を引いて、逆の腕には天体望遠鏡を抱えて。

 あの子が、河原で転んでしまって。心配になって。怪我をしてはいないかと。


 何度も、私はあの子の名を呼んだ──。


「……へえ?」

 徹に微笑みかける、碧い目。

「昔は、『さよ』って呼んでたんですね」


 光に包まれたかと思えば、次の瞬間には奏一郎は萩尾家から姿を消していた。後には呆然とした徹が。扉の締まる静かな音が。それらだけが、この空間に残された。

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