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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十一章:めぐるもの ―師走― 其の十五

 きらりと光る目。いつもは、それこそ文字通り円らな黒の瞳を持つ彼なのだが、この時ばかりはその目の奥に、密やかな怒りが垣間見えた。

「おまえ、簡単に考えるんじゃねぇぞ。『巡ることを知っている』ってことが、どんなに恐ろしいことなのか、まだわかってねえだろ……」

「お、恐ろしい?」


 とーすいが何を言っているのかわからずに復唱してしまう小夜子だったが、すぐにその意味を理解することになる。そして――後悔することになる。


「‟巡る”ってのは、時には人の命だって左右する。つまり旦那はいつ、どこで何をしていようが。人の命なんて気分次第でどうとでもできる……。それがどんなに恐ろしいことか、おまえにわかるか?」


 そう言われて、初めて。小夜子は、“巡ることを知っている”ということの恐ろしさの、末端を知った気がした。

 否、本当はもう知っていたはずなのだ。ただ、それを真剣に考えるのが怖くて、今まで避けてきただけなのだ。


 小夜子が俯く中で、とーすいはさらに続ける。

「今回のことがいい例だ。澤田 梢って言ったっけか? その女が、腐った天井のある小屋に呼び出したのだって、巡ることの一つだ。天井の一部が腐り落ちて、女の体に直撃するかしないか……旦那は、選べたはずだぞ」


 なぜ、とーすいが梢のことを知っているのか。そんな些細な疑問は、小夜子の頭からすっぽりと抜けてしまっていて。それよりも、奏一郎という存在の危険性に似たものを告げられ、心は惑うばかりだ――。


 呆然として、揺らぐ瞳を瞬き一つさせない小夜子を見て、とーすいははぁ、と溜め息を吐く。

「……まあ、実際には旦那のほうが、それが恐ろしいことなのかどうかすらも、あまりわかっちゃいねえんだろうけどな……」

 ぽつりと、恐ろしい台詞と共に。


「……なに、それ。どういうこと……」

 自然と震える唇、言葉。空気の冷えのせいか、もしくは心がそうさせるのか。

 しかし、頭の中に映し出されるのは、無慈悲な“鬼”の笑み。それが、小夜子の唇の震えの源であるような気がした。


 そして、さらにその震えは増していく。


「当然だが旦那は、人間の心なんて持ってねぇ。情愛、嫉み、恋慕、憧憬も。……喜怒哀楽の感情さえも。人間なら持っていて、当たり前の感覚も。全てが、欠落してんだ」

「…………」

「だから、どんなに人を傷つけようが……罪悪感なんかも一切感じねぇ。むしろ、苦しんでいる人間の顔見て、笑う時さえあったくらいだ」


 心臓が、どくんと音を立てて踊る。思い出されるのは、暗闇に光る鬼の形相。高いところから常闇を覗き、そこにいる誰かを見下している――細い、三日月のような笑み。


 しかし小夜子はとーすいの話を、自分が思っていた以上に冷静に聴くことができていた。それはきっと、とーすいが予め、「奏一郎を人間だと思うな」と忠告してくれていたからだ。もしその前置きが無かったならば、奏一郎を「非情な人だ」と思って、さらに距離を広げてしまっていたかもしれないが――そもそも彼が人間でないのならば、そのような言葉を当てはめること自体おかしいのかもしれない、そう思えるからだ。


 だが、それでも。

「信じたく……ないな」

 頭でわかっていても、心では受け入れきれないことがある。


 第一、奏一郎は優しかったではないか。穏やかで、柔らかな笑みをいつも浮かべていて。温かい言葉を、送ってくれて。いつも、自分はそれらに癒されていた。助けられてきた。小夜子はそう思う。

 もし彼に情愛という精神が無いのならば、今までの彼の笑み、言葉は何だったのだろう。嘘だったとでも言うのか。偽りだったとでも言うのだろうか。

 梢に対してのあの行動や言動が、彼の本性だとでも、言うのだろうか。


 まるで、小夜子の心に満ちた疑問に応えるかのように、とーすいは再び口を開いた。

「……どんなに多くの人間の心を手に入れたってな、いや、だからこそ衝動を抑えられないことだってあんだよ」

「……?」

 小夜子の頭の中に、クエスチョンマークが飛び交ったのを、どうやらとーすいは表情だけで読み取ってくれたようだ。


「……旦那には、人間の心が無いと言ったろ。だが……貪欲に、旦那はそれを欲した。だから……この店を開いたんだ」


 奏一郎が何者なのかについて聞かされているのに、まさかそこで心屋が関わってくるとは思わなかった小夜子は、自然と目を丸くしてしまった。


「旦那は人間の心を持ってねぇ。だが、物を通じてでなら心を手に入れることができるんだ。それがたとえ大昔のものだとしても、それを使っていた人間の心を読み取り、その人間の感情や感覚を……自分のものにすることができる」


 とーすいは店先を指し、さらに付け加える。


「“お客様”の心を貰うために、旦那はこの店を開いたんだよ」


 あの奇妙奇天烈な商品たちは、そのためのものだったのか。どうりで売れないはずだ、と小夜子は妙に納得してしまった。しかし、

「奏一郎さん……前に、『客が来るか来ないか、なんてあまり関係ない』って、言ってたんだけど……。人の心を手に入れたいって言うなら、たくさんの人にお店に来てほしいものなんじゃないの……?」


 そう、たしかに言っていた。


 『このお店に来るお客さんって、いるんですか?』と小夜子は問うたのだ。当時も多少なりとも自覚はしていたのだが、大変失礼な質問だったと小夜子は思う。だが奏一郎はその問いに対して、少しも困った様子を見せないで、

 「『いる』と言うと嘘に近いが、『いない』と言うと限りなく真実に近いな」

 と、冗談交じりに返してくれたものだ。真実なのだろうが。


 そしてその後、たしかに言ったのだ。『客が来るか来ないか、なんてのは、あまり関係無いんだ』と。


 とーすいも、そろそろ面倒になってきたのだろう。口早に、そして手短に言の葉を述べる。

「旦那は、客を選ぶからな」

 卓袱台の脚に背中を預けた彼に、小夜子は詰め寄った。

「お客様を、選んでる?」

「ああ。欲しいと思う心を持っていそうな人間を、“巡らせる”ことで旦那は店に導いてる。……人間が生活する上で当たり前に持っている、普遍的な感覚……『楽しい』だとか、『恋しい』だとか。……『これは綺麗だ』とか、感動するような。感情の起伏が、旦那は欲しいんだ」


 彼の言葉を受けて、小夜子は考える。

 ここ四ヶ月間、一緒に暮らし始めて感じていたことだ。


 奏一郎には、感情の起伏が無い。


 常に穏やかで、滅多なことでは驚かないし、寂しそうな表情をすることはあれど悲しむことはない。小夜子が何かにつけて失敗したとしても、怒ることも決してない。寛容な人なのだと、ずっと思っていたのだが――それは、違っていたのかもしれない。

 憤怒も、悲哀も。人間なら誰しも持っている当たり前の感覚が、感情が、心が、彼には無いのだ。


「そしてもちろん、欲しくないものだってある。怒り、嫉妬、殺意、苦しみ。人を傷つけたい衝動……。他にもたくさんあるだろうが、旦那はこれらを必要としなかった。要らないとすら、思っていたんだ。醜い上に、制御が効かない。平穏な生活をするうえで、むしろ邪魔者だからな。だから、そういう奴は店には来させないように巡らせてるんだ」


 だが、ととーすいは続ける。


「今回、梢のことがあったろう。旦那はどこかで、物を通じてそいつの心を貰っちまった。……俺様が感じ取れる範囲で言えば、悲しみ、怒り、……衝動的な殺意。そして少しだけ、嫉妬もあるか」

 頭をぐっと押さえつつ、彼が当然のように言い放つので、小夜子はごくりと唾を呑んだ。


 先ほどから、彼は梢について詳しすぎる。そして、奏一郎の心の動きまで。奏一郎が彼に話した、という可能性も無くは無いが。どうにも奏一郎ととーすいは、どこか小夜子の想像にも及ばぬところで繋がっているようにしか彼女には思えなかった。

 彼女の憶測に構わず、とーすいはさらに口を動かすのを止めない。


「そいつから流れ出た心は、そのまま旦那のものになる。……だから旦那は、そいつの首を絞めたんだろう。過激な感情は、一度手に入れると抑えが効かねぇからな」


 それは人間も同じなんじゃねえのか、そう言って、とーすいは小夜子を見上げた。彼女が躊躇いがちに頷くのを見て、納得したように目を逸らす。


「旦那、あまり外出しないだろう? それも、醜い心を手にしたくねえからだ。できれば店の中だけで、心屋の商品から心を貰いてぇ。そうすれば、欲しいと思う人間の心だけを手に入れられる。人間に、近づける」

「…………奏一郎さんは、人間になりたいの?」


 彼は、そう望んでいるのではないか。

 先ほどから、小夜子にはそうとしか思えないのだ。『無意味なことはしない主義だ』と、過去に彼は言っていた。実際、そういう人なのだと、共に生活してきて実感してきた。

 だから、人間の心を手に入れたいと思うのも、気まぐれだとか興味本位だとかそういうことではなくて、やはり彼が人間になりたいと望んでいるから……そういうことなのではないかと、小夜子は思ったのだ。


 だが、とーすいは首を横に振る。

「なれねぇよ。いくら旦那でも。どんなに望んだとしても」

 迷い無く言い切ったとーすいの言葉に、小夜子は思いっきり目を見開いてしまった。


「そんな……どうして?」

「じゃあ訊くが、お前は『犬になろう』と思えば犬になれんのか? 『なりたい』と思ったとして、その望みは、努力すれば確実に実るものなのか?」

「…………」

 ものの数秒で出た答え。無理だ。


 だが小夜子はそんなことよりも、たとえそれが仮定のものであるとわかっていても、その例え――とーすいの出した例えによって、奏一郎が人間とは異なる存在なのだと、改めて思い知らされたようで――心臓に少しだけ、穴が空いたような感覚がした。


「どんなに多くの人間の心を手に入れたって、人間にはなれねぇよ。旦那だって、それはわかってる。だから望まねぇ。できねぇことを望むなんて、それこそ無意味だろ。だから、旦那は人間になりたいなんて思ってねぇ。それよりも……」


 それよりも、大事なことがあるのだととーすいは言う。


「人間の心を手に入れて、自分が人間の心に近づくことにこそ意味がある……そう思ってるんだ」


 人間になることを望んではいないが、人間の心に近づくことは望んでいるのだと。そしてそれは、似て非なる願望なのだと。


 とーすいが、何を言いたいのか小夜子には理解できそうにない。彼の説明の仕方は終始、あまり親切でないように小夜子には感じられるのだ。だが、彼の意味深長な物言いは、『いつか知る時が来る』と、そう密かに告げているような気もする。


 それでも小夜子は、今知りたいと思ってしまうのだ。


「ねえ、とーすいくん……教えてよ。奏一郎さんはどうして人間の心が欲しいの? 何のために、人間の心が要るの?」

「……それは……」

 口を開いて、言葉が紡がれて。そして、それが自身の鼓膜に響くのを、小夜子は待った。だが、とーすいは口を固く結んで、そうしてから再び言葉を紡ぐ。


「……旦那には、果たさなきゃならねぇことがあるからだ」

「果たす?」

「それが果たされた時。人間の心がそこに無きゃ、意味が無いんだと。旦那が、ずっと昔にそう言っていた。……これ以上は、詳しくは言えねぇな」


 それだけ言って、とーすいは口を閉ざしてしまった。見るからに口の堅そうな彼のことだ。こうなっては、もうそれに関して何も教えてはくれないのだろう。

 小夜子は項垂れて、彼の説明を今一度反芻させる。


 奏一郎が人間ではなく、巡る存在なのだということ。そして、その恐ろしさ。さらには、彼には心が無いのだということ――。

 ぐるぐる、ぐるぐるとマーブル模様が脳内に出来上がっていく。


 やはり、

「簡単には理解……できそうにないな……」

 苦笑しつつそう吐き出すと、とーすいも呆れ返ったように息を吐く。

「んなの、当たり前だろ。人間同士ですら理解し合えねぇとき……あるだろ」

「……うん」

 その言葉に、小夜子は素直に頷いた。心当たりは、あるから。いや、正確には“あった”から。


「だけどな。……人間を一番理解できなくて、一番苦しいのは旦那だ」


 苦々しげにとーすいがそう言うので、思わずスカートの裾をきゅっと掴んでしまう。


「どんなに多くの人間の心を手に入れようが、どうしても人間と自分を比べちまう。人間と深く接すれば接するほど、その差に気づかされる。思い知らされる。それってな……当人からしたら結構、虚しいぞ?」


 その言葉に、自然と目を泳がせてしまったのは――視界に映るケージの中を、無意識に探してしまっていたから。

 あんずも、その仔猫たちも、今はどうやら出かけているらしい。住民のいない空のケージの中には、ミルクの代わりに新品の水が、受け皿に並々と注がれていた。


 なぜ、あんず達の姿をふっと思い起こしてしまったのか……それはもしかしたら、彼女がかつては野良猫だったからかもしれない。そしてその生き方と、奏一郎のそれとを重ねてしまったからかもしれない。


 奏一郎があんずを飼い始めたのも、時々愛しげな、寂しげな視線を彼女たちに向けるのも、彼もまた、自分と彼女たちを重ねて見てしまっているからなのだろうか――。

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