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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十一章:めぐるもの ―師走― 其の十四

 先に心屋の中に入っていく奏一郎の姿を見送った後、小夜子も彼の後を追う。だが、彼は先ほどの紙袋を小夜子に手渡して、

「ゆっくり、体を休めなさい」

 それだけ言って、二階の自室へ行くように促してきた。


 微笑みはあれど、とても弱々しいもの。ただ口角を上げただけの、機械的な笑みだ。なぜかその笑みは小夜子の反抗心を容易に潰えさせてしまえて――それを自覚している彼女は、思わず唇を噛んでしまう。

「……わかりました」

 まとわりついた気だるさを足に抱えつつ、階段を上る。そんな単純な行為さえ、億劫に感じてしまった。


 扉を開け、一週間ぶりに入る自室。閉め切られたその空間は、ひどく懐かしくて――この瞬間、やっと小夜子はまともな呼吸ができたような気がした。膝から力が抜けてしまったのか、ぺたん、と床に膝を密着させる。そして、ため息と共に吐き出される言葉。

「……気まずい、なぁ……」


 心屋にいてそんなことを感じたのは二度目だ。初対面の時は二人きりだったこと、そして沈黙が流れていたことに緊張感を覚えていたものだが、その後は奏一郎のまとう独特の雰囲気、そして心屋の居心地のよさに、そんなことはいつの間にか忘れてしまっていたのだ。


 それからは心屋の立ち退きの危機などあっても、それでも穏やかで、安らかな気持ちで日常を刻んでいた、と小夜子は思う。


 だが、梢との一件はその日常をいとも簡単に崩してしまったようだ。


「……でも、このままじゃ、嫌だ……」


 そう、嫌なのだ。重くなった空気よりもそれ以上に、奏一郎に何も言えない自分が嫌なのだ。何を言いたいのか、そんなことは彼を目の前にしてから考えても遅くはない。

 彼のことを、恐怖から避けてしまっている自分がいるのは事実だ。だがそれも、彼と落ち着いて話すことで克服すればいいだけの話だ。もう昔のように、父に何も言えなかった自分とは違うのだ。


 前向きに考え始めた途端に、ふつふつと湧き上がる闘志。そして、それは気だるさをも一掃してくれる。

「……っよし!」

 小夜子はすっくと立ち上がると、勢いよく扉を開け、階段を駆け降りた。生じた風が、もう長くはない髪の毛を揺らす。鼓動が一気に高まる。

 そして、

「奏一郎さん!」


 広がる見慣れた視界に、彼の姿は――無かった。


 暫し唖然としてしまったのだが、そこには奏一郎の姿どころか、気配さえも無い。どういうことか、ときょろきょろと首を左右させるも、やはり彼の姿は無い。


「旦那なら、出かけたぞ」

 振り返ってみると、とーすいが仁王立ちで、さらに腕を組んで小夜子を見上げていた。

「俺様を見下すな、女。しゃがめ」

 相変わらずの横柄な命令口調に、渋々ながら小夜子は従い、茶の間に腰掛ける。


「あ、あの……“女”って言うの止めてくれないかな? せめて、“小夜子”って名前で呼んでよ……」

 とーすいは出会った当初から何も変わらない。小夜子を“女”と呼び、自らを“俺様”と呼ぶ。そしてそんな“俺様”は、小夜子の要望を鼻でせせら笑うのだ。

「へっ、俺様に下の名前で呼ばれようなんざ、二世紀早ぇんだよ。俺様にかしずく気があるなら四半世紀で勘弁してやらぁ」

「……いや、別にそこまで名前で呼ばれたいかと訊かれたら嘘になるけれど。いや、いいです。“女”でいいです……」


 奏一郎が出かけているのなら帰りまで待たなければならないのだが、その時間さえも今は惜しい。


「とーすいくん、出かけたって、どこに? 商店街にお買い物にでも行ったのかな……?」

「……なんだよ、気になるか?」


 そんなことを訊かずに教えてくれればいいものを、と思いながら、即座に頷く小夜子。そんな彼女にとーすいは、はぁ、と息を吐き、そしてそのまま、言葉を続ける。

「どこにいるのか知ってはいるが、今のお前に、旦那の居場所を教えるわけにはいかねえな」

「……え?」


 さも当然のように言うとーすいに、呆然としてしまう。

「……ど、どうして?」

「お前が、旦那のことを何にもわかってないからだ」

「わかって、ない?」

「ああ、そうだ」

 何の躊躇いもない、きっぱりとした言い方。この小さな存在に、心臓を揺らされているのが小夜子は少しだけ悔しい。それでも、

「何をわかってないのか、知りたいか?」

 その問いにも、頷いてしまう。と同時に、神妙な顔をし始めるとーすいに、思わず小夜子も身構えてしまう。


「“知る”ことの恐ろしさを、おまえは知らない。知らないほうが楽だった、なんて泣きついたって後の祭りだぞ。知らなかった頃には、絶対に戻れない。それでも、“知る”勇気はあるか?」


 とーすいにそんな強い言い方をされると、少しだけ恐怖心が煽られる。何を知らされるのか、怖い。だが――。


「……うん……」

「そうか」


 気付けば、小夜子は頷いてしまっていた。

 もちろん、安易な気持ちで頷いたわけではない。が、頷く以外の選択肢がなかったようにも思われる。奏一郎について何を聞かされるのかわからないこの状況では、そうするしかなかったようにも思える。


 しかし、とーすいの説明を大人しく聞いているよりも、まず自分の中で蠢く疑問から解消したい――その願望が、どうしても先行してしまう。

「……ねえ、とーすいくん。説明の前に、質問に答えてほしいんだけど……。奏一郎さんは結局のところ、人間じゃない、のかな……?」

「はああぁぁ?」


 小夜子にとっては、とーすいに笑われてもおかしくない――そう考えた上での問いだったのだが、彼はといえば元々丸い目をさらに丸くさせていて。そしてその目は明らかに、わかりやすいほどに呆れの色を映していた。その証拠とも言うべき、

「おまえ……そっから説明しなきゃいけねぇのかよ!?」

 甲高い驚嘆の声。


 彼がどちらの意味でそんなに驚いているのか、小夜子には判断できない。だから、頭を抱えだしたとーすいを、ただ黙って見つめることしかできない。


 彼の反応の意味が、『人間に決まっているだろう』なのか、『人間じゃないに決まっているだろう』なのか。


 早く教えてほしい、と小夜子が思う一方で、

「うわ、めんどくせぇ~……。アホ相手に説明しなきゃならねぇとは……」

 とーすいはとーすいで、ブツブツと無礼なことを呟いているのである。


 だが、彼は俯かせていた顔をやっと上げると、小夜子の目をまっすぐに見て言い放つ。


「旦那が人間だなんてまだ思ってるんなら……そんな甘い考えは、とっとと捨てるんだな」


 現実を。そして、真実を。

 それは空気を振動させ、まるで小夜子の心臓に直接響くかのようであった。そしてそんな彼女に構わず、とーすいは続ける。

「そうじゃなきゃ、これから俺が話すことは到底、今のお前には理解できねえだろうからな」

 さして重要でないことを、告げるかのように。


 小夜子の頭の中は、とーすいの突きつけてきた現実、そして真実を受け入れようとしている……が、やはり受け入れたくない気持ちが強い。


 ――『知らなかった頃には、絶対に戻れない』――


 とーすいは先ほど、そう言っていたけれど。


 それはつまり――自分と、奏一郎の関係が以前のような穏やかなものではなくなってしまうことを意味しているような気がして。そして、『彼が人間じゃない』と知ってしまったこの瞬間からもう既に、それは始まっているような気がして。


 だが、たとえそうだとしても。そうなるように選んだのは小夜子であって。「知りたいか」という問いに小夜子が頷いたから、だからこそとーすいは何の躊躇いもなく、こうして奏一郎の正体について教えてくれているのかもしれなかった。

 以前、とーすいと初めて会った時、彼が奏一郎に関して詳しくは教えてくれなかったことを、何を訊いても頑なに口を閉ざしていたことを、小夜子は忘れていない。


「じゃあ……何? 人間じゃないなら、奏一郎さんは一体、何だって言うの?」

 小夜子の唇から溢れるのは、好奇心から発せられた言葉。『知りたい』、その願望から生まれた言葉。

 人間なら誰しもが抱くその願望が、こんなにも簡単にとーすいの口を開かせるとは、小夜子は夢にも思っていなかったのだ。


 彼女の願望に応えるかのように、とーすいは口を開く。しかし次に発せられる言葉は、小夜子が頭の中で思い浮かべていた予想を、大きく裏切るもので。


「旦那は、巡る存在だ」


 思わず、ぽかんとしてしまう。


「……“巡る”……?」


 抽象的なその答えに、小夜子はどう反応して良いかわからない。だがとーすいは、

「まあ正確には、“巡ることを知っている”存在かもな。それ以上に上手い説明、思いつかねぇな。鳥は飛ぶ存在、魚は泳ぐ存在。なら旦那は、巡る存在。簡単な話だろ」

 さも一般常識を語るかのように、そう言い放つ。そして一人だけで納得している。小夜子からすれば、もう少し具体的な答えが欲しかったのに。


「いやだから……その“巡る”っていうのが、よくわかんないんだけど。もっとこう……魔法使いとか、そういう答えを予想していたんだけど……」

「おまえ……十六にもなって『魔法使い』とか言って、恥ずかしくないのか?」

 とーすいが片方の口角を上げてせせら笑う。なぜこの水筒は、こんなニヒルな表情までできるのだろう。

 そして彼は、その表情のままに続けた。

「……しゃーねぇな。例え話をしてやるよ。ドジなお前だからこそわかりやすい例え話をな」

「はは……。それはどうも、ありがとうございます……」

 ――なんでこの水筒は、こんなに上から目線なんだろう……。


「例えば、だ。ある日、ドジなお前が道を歩いていたとしよう。んで、ドジなお前は足元の石っころに躓いて、転んでしまったとしよう」

 始まったばかりだというのに、小夜子はその例え話に早くも頬を膨らませる。


 ――私、そんなおっちょこちょいじゃないのに……。あ、去年の暮れに自転車で転んだっけ……。


「じゃあ、ドジなお前がその道を通る前に、誰かがその石っころを別の場所にどかしていたら、お前はどうなる?」

「え? えっと……私は、転ばない……。いや、躓かずに、済む?」


 首を傾げながら問い返すと、とーすいは深く頷いた。

「その通り。『巡る』ってことは、つまりはそういうことだ」

「?」

 やはり、まだよくわからない……。


 とーすいはと言えば、もう説明しきったかのようにご満悦な表情を浮かべてはいたのだが、小夜子の表情を見るなり心情を察してくれたようで、再び口を開いてくれる。

 彼女から言わせれば、一を聞いて十を知れ、なんて考え方自体、無理があるような気がしてならないのだが。


 より彼女にわかりやすく配慮してか、とーすいは説明を付け足した。

「ある人物の行いが、本人すらまったく知らないところで、思わぬ作用を働かせることがある。……それが、“巡る”ってことだ」

 今の説明はわかりやすいと素直に思い、小夜子は深く頷く。そして心なしか、とーすいは真剣な面持ちで続けた。


「万物は巡っているんだ。時間も、人間も。想いも。全ては巡る。そんなもの意識しながら生きている人間なんか、ほとんどいねぇけどな……」



 『あのとき、あの場所にいたから』。

 『あのとき、この人に話しかけていたから』。

 『あのとき、この人を結婚相手に選んだから』。



 果てしなく、数え切れないほどの人と人との巡り合い。



 そしてその組み合わせが、一人ひとりの“今”、“現在”を創り出しているのだ、と。それもまた、“巡る”ということなのだ、と、とーすいは言う。


 俄かではあれど、“巡る”ということがどういうことなのかわかってきた小夜子だったが、結局それと奏一郎の関連性が見えてこない。しかし、とーすいはまっすぐな瞳を小夜子に向け、そしてついに核心に触れてきたのだった。


「だが、もしそれを知っている存在がいたら? どう行動すれば、誰に、どんな結果が返ってくるのか……“巡ること”そのものを知っている存在がいたら……」

「それって……」

「それが旦那だってんだよ。お前も旦那と会ってから、何度か目で見て経験したことあるんじゃねぇのか?」

「…………」


 小夜子は黙考しつつ、あの雨の日のことを思い出していた。


 もう、三ヶ月も前のことになるのか――。そんなことを、ぼんやりと思いながら。


 『もし、あんずが、あのときダンボールに入っていなかったら』、心屋は、易々と壊されていたのかもしれない。


 いや、もっと遡るのなら……『ダンボールを軒先に置いておかなかったなら』、あんずは、ダンボールの中に入ることは無かった。


 さらにもっと遡るならば、『あの日、雨が降らなければ』。

 あんずは心屋の軒先になど、来なかったかもしれない。どこか、心屋とはまったく関係の無い場所で子猫たちを分娩していたのかもしれない。


 心屋が壊されるあの日に、たまたま雨が降ったから。そしてその日の朝に、たまたまダンボールを軒先に置いていたから。たまたま、そこにやって来たあんずが、妊娠していて……あの時間帯に、分娩していたから。


 そしてそれを見た橘が、心屋を庇ってくれたから。

 だから、心屋は壊されずに済んだのだ。


 もし、これらの要素のたった一つでも欠けていたなら、心屋は、壊されていたのかもしれない。


「心当たりは……あるけど。あの、心屋が壊されそうになった日……。でも……それを、奏一郎さんがやっていたって……こと?」

「まあ、そうなるか。俺にも詳しいことはわからんが、旦那は巡ることを知っているから、これから先何が起こるのか、『知ろう』と思えば知ることができるんだろう。だからあの雨の日、ダンボールを軒先に置いといたんだ。そうすれば、分娩しかけているあんずが来ることを見越してな……」

「で、でもそんなことが……」


 できるのか、と言葉を紡ぐ前に、

「できるんだよ、旦那には。人間と同じように考えるんじゃねぇ」

 ぴしゃりと、とーすいに言われてしまった。

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