第十一章:めぐるもの ―師走― 其の十参
だが、その確信があったとしても、証拠が無い限りはそれも憶測の域を出ない。まずは相手のことをよく知ることから。情報を得ることから。
「奏一郎さん……って言ったっけ。どんな人なのか、教えてくれる?」
一目見てはいるけれど、あれほど腹の内に何を抱えているのかわからない存在は初めてだ。
静音は芽衣の要望に一瞬ぽかんとするも、眉を顰めて唸り出す。
「うーん……何て言ったらいいのかなぁ……。実は私もそんなに話したことはないんだけどさー……」
この前置きからしてあまり参考にはならなさそうだったが、芽衣は大人しく耳を傾けることにする。
「いっつもニコニコ~ってしてるんだけど……時々、妖しい笑みって言うのかな。笑ってるんだけど笑ってない、みたいな時があるって言うか。何で笑ってるのかわかんない時がある……。何だろ……まとめると、“理由”が読めない人?」
「“理由”……」
なんとなくだが、芽衣は静音の言いたいことがわかった気がした。言葉こそ交わしてはいないけれど、あの男に抱く感情は、恐怖以外には疑問しか残らない。
なぜ、どうして。
『どうして、あなたの背後に広がる世界は、普通の人間のそれと違うのか』――。
――……いつか、問う日が来る。そんな気がする……。
暗闇に溶けた芽衣の顰めっ面は、どうやら静音には見えないらしい。空を仰ぎつつ、彼女は笑顔で言うのだ。
「でも、見た目はちょい変わってるけど、優しいよ」
と。そして、今度は彼女が問うのだ。
「でもさ、なんでそんなこと訊くの?」
冷たさを抱いた風が、二人の間を駆け巡る。それは溶けたばかりの水を、すぐさま凍らせてしまえそうなほどの。
芽衣の心に、再び懐疑という名の氷ができあがっていく。そしてその氷は、いとも簡単に彼女の口を開かせて。
「別に。……ただ」
――もしも、私の仮説が当たっていたならば。
「……全ての出来事に、理由があるとしたなら……」
――あの男が、人間でないのならば……。
「どうして、“奏一郎さん”は優しいんだろうって、思っただけ」
――萩尾さんが……危ないかもしれないから。
* * *
父から連絡が来たのは、その夜のことだった。正確には、それに気づいたのは翌朝のことだったが。連絡と言っても、電話ではなくメールではあったが。
〔発作を起こしたそうだな。
先生とはもう連絡を取ったが、大事を取って一週間は検査も兼ねて診てもらったほうがいいという話になった。
入院費用なら心配しなくていい。
ゆっくり体を休めろ。〕
いつもよりは長い文章のメール、さらには命令口調ながらも労りの言葉。
会話のほとんどない、それでいてぎくしゃくしていた少し前と比べたらこれは、父との関係が途轍もない進歩を遂げたように小夜子には思えた。が、勝手に入院日程を決められては困るのだ。
一週間も学校を休んでいては、授業に遅れが出てしまう。期末テストも近いというのに、寝てばかりではいられないのだ。
不器用で、だが強引。そんな父の態度に素直に応じるのも、何故だか悔しく感じられて――。
〔わかりました。〕
たったそれだけを記したメールを、何の躊躇いもなく返してしまった。が、ディスプレイに映る『送信完了』の文字を見て、その時になって初めて、
「もっと、何か言うべきことがあるはずなのに……」
と、後悔するのだ。
『心配かけてごめんなさい』でも、『もう体は大丈夫です』でも、何でもいい。それなのに、『わかりました』以上の言葉が、一瞬でも頭を過らなかった。
きっと自分には、父以上に言葉が足りないのだ。そう思わせられる。
だが、そんなことを忘れさせようとしてくれているかのように、静音と芽衣は毎日のように、ともに病室に足を運んでくれた。
「もう体は大丈夫なのに、お父さんが大袈裟なだけだよ」
そう説明しても、
「……でも学校の勉強もあるし、なるべくはここに来るよ」
そう言って、芽衣は自分の授業のノートのコピーを見せてくれる。理由としては、
「原のノートは汚そうだから」
だそうだ。
失礼極まりないその台詞には、静音も黙っていない。
「何言ってんの!? 私のノート、超綺麗だよ!?」
「嘘つけ」
「は!? 見て驚け、真っ白だかんね!」
「ノートとってないんじゃん」
小夜子が入院している間に、二人は傍目から見てもとても良好な関係になっているようで――彼女はそれがとても嬉しく、そして、少しだけ羨ましくもあって。
「早く、私も学校行きたいな……」
やはり、父を少し恨んでしまう自分がいた。
* * *
だが、そんなもやもやを消し去らせてくれるのは、静音や芽衣だけではなかった。
時計の針の両方が天辺を指し示す頃。扉をゆっくりと開いて、
「さよさよー……」
現れたのは緩慢な口調と穏やかな歩調の桐谷。『桐谷建設』と印字されたツナギを着て、腕まくりをしている姿はどうも彼には不似合いに感じてしまう。
「桐谷先輩、わざわざ来てくださってありがとうございます。お仕事もあるのに」
察するに、恐らく会社の昼休憩の時間帯なのだろうが、それでもわざわざ病院まで足を運んでくれたことが、ありがたい反面やはり申し訳ない。
「んー。来たくて来たんだからいーの……。これ、一緒に食べよ?」
そう言って、小夜子の知らないケーキ屋の箱を手渡してくる。
「あ、ありがとうございます」
受け取った小夜子は礼を述べつつ、断りを入れてから箱を開けた。だが、中に入っていたのはケーキではなく。
「ここのケーキ屋のプリン、すごく美味しいんだよ……。なんか、一口食べたらフランスの風が吹く感じ……? フランス行ったことないけど」
「そ、そうですか。では、いただきます!」
なぜか六つも入っていたのだが、小夜子は自分と桐谷の分だけ取って、備え付けの冷蔵庫に残りをしまう。
「いただきまーす」
桐谷と声を合わせてこの台詞を言うこと、それ自体に妙な違和感を覚えた小夜子だったが、今はその正体は考えないことにした。
プラスチック製のスプーンで一口食してみると、プリンにしては甘すぎない、上品な味が口内に広がっていく。口当たりは濃厚なのだが、飲み込んだ後はすっきりしていて、また次の一口を食べたくなる、不思議で、だが飽きの来ない味だ。
「美味しいです!」
心からそう言うと、桐谷は真面目な顔をし出す。
「……風、吹いた? フランスの風……」
「え、ええ、たぶん」
否定寄りの肯定をしたつもりだったが、
「だよね」
と返す彼は満足げだった。
そして、ほぼ同じような時間帯に扉を開けるのは橘。やはり平日であることもあってか、もはや見慣れたスーツ姿だ。
「来てたのか、桐谷」
「やっほーい、きょーや」
彼もまた仕事中なのだろうが、昼休憩を利用して来てくれたようだ。
「具合はどうだ?」
「はい、良好です。息苦しさもまったく無いですし……。……そういえば、救急車まで運んでくれたんですよね、お二人とも。その節は、ありがとうございました」
小夜子がそう言うと、目をふっと伏せて、橘は黙って桐谷の隣に腰掛ける。桐谷はといえば、なぜかわくわくした表情でそのベビーフェイスを輝かせていた。冷蔵庫を早く開けたくてうずうずしているようだ。
「きょーやも感じてみる? フランスの風……」
「いや……別にいい。腹は空いていない」
「ちぇー……」
十年来の親友だからこそ成せる業か。“フランスの風”だけで甘いものを指しているのだと、橘にはわかるようだ。
そしてプリンの美味しさを共に分かち合いたかったらしい桐谷は、ぷう、と膨れ面をし出す。その所作はまるで子供みたいで、小夜子は思わず吹き出してしまう。
「じゃあいいや、俺がきょーやの分、一つ食べるからー」
「そこは普通、この子にやるべきだろうがっ」
二人の言い合いがまた始まって、看護師が飛んでこないかびくびくものだ。だが、橘がいる限りその心配も無さそうだ、と無意識に和んでしまう自分がいた。
入院から、今日で既に六日が経とうとしている。
退屈な時間は多かれど、寂しさなど無い。寂しさを感じる暇など無いくらい、皆が病室に入れ替わりで毎日訪れてくれるから。
だが――その“皆”に、奏一郎は含まれていない。
真っ白な壁を背景に、彼を目の当たりにすることなど――六日目になっても、訪れなかったから。
だが、あまりそのことは考えたくない。
――……えーっと。プリンは、静音ちゃんと楠木さんが今日、もしお見舞いに来てくれたら食べてもらおうかな。
それで残りは一つだから――……。えと……これは誰にあげようかな……。
小夜子は、橘と桐谷が言い合っている間、苦笑しているのを一生懸命に隠していた――。
頭の中に真っ先に浮かんだ人物に、自嘲せずにはいられない。
* * *
入院七日目。気づけば、月別のカレンダーが最後の一枚を風にはためかせている。
結局、発作が再発することもなく、検査結果にも異常は見られなかったということで入院期間が延びることもなく、小夜子はこの日、無事退院することになった。
世話になった医者や数人の看護師に挨拶して回ると、入り口に向かって真っ直ぐに歩を進めていく。その足取りは、どこか重々しいけれど。
外に一歩足を踏み出すと、薄く広げた綿のような雲が乾ききった空に広がっていた。深く吸い込めば咳でも催してしまえそうな乾燥した空気が、全身を撫でていく。
だが、それでも小夜子は体を伸ばしつつ、体一杯にそれを吸い込んだ。
たった一週間、外に出なかっただけでも空気の違いがわかる。
虎落笛は鼓膜を振るわせるだけでも鳥肌を誘い、秋とのお別れを、冬の訪れを知らせている。地面を這い、空に鮮やかに舞っていた木の葉もとうに形を崩し、その多くは無残にも側溝の間に挟まってしまっている。
久々に外に出られたことで気分は晴れやかである一方、体を動かしたいようで、気だるいがために動きたくないという相反する願望が、体中にまとわりついて離れない。早くこの体を元の調子に戻したい――。穏やかな雰囲気を纏う並木道を歩きつつ、そんな焦燥に駆られてしまう。
ところどころ欠けた木の葉たちは、風の居場所を知らせてくれる。竜巻のような動きを見せるそれらは、無意識にも目を引いてしまうもの。
まるで、その向こう側にいる人物の来訪を、小夜子に知らせんとするかのようだ。
古代紫の地に、南天の白い実が散りばめられている。その世界を背景に、木の葉は舞っていた。それらがどこへ追いやられていったのか、その先はわからない。こちらに一歩一歩、足を進めてくる奏一郎の姿に、小夜子は思わず自身の足を止めてしまっていたから。目を、奪われてしまっていたから。
速まる心臓の音、鼓動の激しさに、冷や汗が背中を伝っていく。着替えの入った紙袋を掴む両の手にも、汗が滲んでいく。緊張しているから冷や汗が出るのか、それとも冷や汗が出ることによって緊張しているのか。その前後関係が判断できないくらい、混乱してしまっている。
しかし気づけば、既に彼は目の前にいて。
口を開いて言葉を発しようとするも、何と言ったらよいのかわからない。さらには、乾いた喉が声を閉じ込める。
「……あ。……あ、あの」
淀んだ言葉。これでは、彼と出会った当初から何も進歩していないではないか。
爪先に、木の葉が着地する。その様を見届けたのと、ほぼ同時だったのかもしれない。枯れ葉の擦れ合う音と共に、低い声が耳を通過したのは。
「……体の調子は、どうだ?」
穏やかな口吻だった。
咄嗟に、伏せていた顔を上げてしまう。だが、そこにあったのは思いの外、口調と等しく優しい笑み。見慣れたはずのそれも、一週間も途絶えてしまっては懐かしく思えてきてしまう。
泣きそうにさえ、なってしまう。
「……だ、大丈夫……です。ご心配、おかけいたしました……」
やっと口から出たのは、謝罪の言葉。そして、
「お迎えに、来てくれて……ありがとうございます」
溢れるように口をついて出てきたのは、感謝の言葉だった。
不意に、掴まれた紙袋。いつの間にか握力をも失っていた小夜子はいとも簡単に、それを彼に奪われる。
「行こうか」
そう言って踵を返すと、彼は先に一歩、また一歩と歩を進めていく。枯れ葉の崩れる、音が聴こえて。ようやく、小夜子も一歩踏み出すことに成功した。
「……はい」
素直に肯定の返事をするも、並木道を行く二人の間には、人二人分ほどの距離ができてしまっていた。手を伸ばせば、その背中に触れてしまえそうな距離。少し早めに歩こうと思えば、隣に並ぶことのできる距離。
だが、足枷が付いてしまっているようだ。謝罪もした、感謝の言葉も述べた。つまりそれは、“言うべきこと”は既に言ったということ。しかし、“言いたいこと”が何なのか、それがわからないから――だから、何も言えずにいるのだ。自らの足の動きを、自らが邪魔するのだ。
そして、枷がそれだけではないのもわかっている。
彼に対する、拭い切れない恐怖心だ。
彼が、“化け物”なのかもしれないから。
先に浮かべていた柔らかな笑顔でさえ、それが突然であれ徐々にであれ、失われるのが怖いから。
いつまた、冷たい表情に切り替えられるか――そしてそれが、いつ自分に向けられるかわからないから。
だが、彼が“化け物”であるかどうかも、その表情も、奏一郎が梢にしたことも、それらが彼の本心からのものなのか、ちゃんと彼の口からは小夜子は聞いていない。憶測だけで思い込んで、足踏みをするのは臆病者のすることだ、と彼女は思う。だから、ちゃんと彼から直接、話を聴かなければならないのに、わかっているのに。
どう切り出せばよいのかわからないから、結局は二人の間には埋まることのない空間と、沈黙が生まれてしまうのだ。
――……な、なんという悪循環……。
自己分析してみると、辿り着いた物悲しい現実に笑えてきてしまう。それも、苦笑に限りなく近いものなのだろうが。
そうこう思案しているうちに、視界の彼方には、久方ぶりに『心屋』が映り始める。
居心地良く感じていたこの場所も、今では緊張の材料にしか成り得ない。足枷に、さらに錘が追加された気がした。




