第十一章:めぐるもの ―師走― 其の十壱
* * *
扉を閉める音と同時に、訪れる静寂。そして陽の当たらない廊下の冷たい空気は、背中に鳥肌を立たせるには十分だ。もう一般客も帰ったろう時間帯、廊下には人気が無い。
生徒たちもとっくに教室に戻って、ちょうど後夜祭のためにぞろぞろと校庭へ出ている頃だろう。先ほどまでたしかにあったがやがやとした空気が、校内にほとんど存在しないのがわかる。
きっとこれでよかったんだ、と己に言い聞かせながら、芽衣は廊下の冷えた空気を存分に吸い込んだ。
だが、肩の力だけは一向に抜けてくれない。荷が一つ減ったようで、また増えたような、妙な感覚が去ってくれない。
そう、芽衣と梢の関係など、既に希薄なものであった。だから別れを告げたことなど、大したことではないはずなのだ。
にもかかわらず、何かを失ったような、しかし何も得られなかったような――焦燥のこびり付いた喪失感が、じわりじわりと、床を這って足元に巻きついてくるようなこの感覚は、一体何なのだろう。
まるで、ずっと鎖に繋がれていた小動物が突然に、ひとり荒野に解放されたときのような。
ああ、そうか、と芽衣は理解した。
鎖に、しがみついていたのは。縋っていたのは。
「……私も同じ、だったのか……」
鎖につながれることで、恨まれることで、安心していたのかもしれない。何故なら恨まれている以上は、そこにあるのは、“0”ではなくなるのだから。
信じていたわけではない。梢との友情など、むしろ最初から疑っていたに等しい。
だが――信じていたかったのだ。
もしかしたら、本当は自分を大事に想ってくれているのかもしれない。
そんな空想を、理想を、妄想を、願望を、胸に抱いていなければ――そうやって自分で自分を慰めなければ、励まさなければ、潰えてしまいそうだったのだ、己が。
結局は、似た者同士だったのだろう。そう理解した瞬間、ふっと笑みが漏れてしまうから不思議だ。何も、可笑しいことなんかないはずなのに。
「馬鹿馬鹿しい……」
その呟きが、廊下に哀しく響いたのを感じて――芽衣は、背後の扉に別れを告げる。
しかし、彼女がその足を止めたのはあっという間だった。
「楠木……」
廊下の角から、珍しく神妙な面持ちをした静音が現れたのだ。その漆黒の目はまっすぐに芽衣に向けられているし、なによりいつも豪快ながら朗らかな笑みを作り出している唇は、きゅっと真一文字に結ばれている。
ああ、怒っているのだな、そうぼんやりと芽衣が思っていると、その通りと言わんばかりの静音の声色。
「……説明、してくれる?」
冷たさこそ併せ持っていないが、冷静な口吻だ。
「……何を?」
「とぼけんな……小夜子だよ。あの子、どこに行ったんだよ……なにがあったんだよ!?」
廊下に響き渡る、静音の声。もともとがよく通る声質のせいか、それは山彦のように空気を揺らして、そしてやがては消えていく。
「あんたのこと、心配だって。体も大丈夫って……言って。走り出したの、私、止めることもできないで。……あー、もう、違う。こんな回りくどい言い方じゃ、伝わんないか、あんたには」
震える声で、消え入るようなそれで呟いたかと思うと、
「責任、感じてんだよ……っ! いいから、早く教えろよ……っ!」
再び、張り裂けるような声で空間を揺らした。
芽衣は、その琥珀色の瞳で以って、静音を哀れんで見ることしかできないでいた。
ああ、ここにも鎖に巻き込まれた被害者がいた、と。だが、それは自分もだ、と芽衣は思う。
被害者であり、加害者だ。
「……私のせいなんだよ」
芽衣の台詞に、静音が元から大きな眼をさらに大きくする。そして次には両の手で拳をぎゅっと握り締めているのが見えて――その短絡的とも言える反応に、芽衣は心の中で笑ってしまう。
「……巻き込むつもりなんか、無かったのに。勝手に、首突っ込んで、無関係なのに痛い目に遭って。……ほんとう、馬鹿みたい」
「……っ!」
その発言が、引き金となる。一歩踏み出した静音の左手が、芽衣の胸座を捕らえ――右の拳が、空に音を立てる。
「……っなんで、そんな言い方しかできないんだよ! くすの……っ!」
声は、芽衣の姓を最後まで紡いではくれなかった。
しんと静まり返る廊下に不規則に響くのは、静音の息が詰まったような呼吸の音と、水滴が滴り落ちる音だけ――。
「ごめ……ん……」
掠れた声でその言葉を口にしたのは、芽衣だった。
乾いた唇を、一筋の生温かい水分が伝って――それでも彼女は、言葉を続ける。
頭の中には、もう一人の被害者の姿。そして、彼女が口にした“勘違い”。
――「誰も、自分のせいで傷つくことのないように。ずっと……ずっと、守ってたんだよね?」――
そんな、“勇敢な騎士様”を相手にしたような言い方をするから。
――「違う、そうじゃない」――
そう、本当のことを言ったのに。本当のことを。本当は。
「……っ誰も……『誰も傷つけたくない』、なんて、違う……嘘だ。本当は、自分が一番、傷つきたくなかったんだ。ただ……嫌われたく、なかったんだ……」
本当のことを言ったのに、なのに。
――「それでもいいよ」――
そう、返してくれた。
――「楠木さんを理解できた気がして、嬉しいから」――
そう言って、笑ってくれた。
そして――そんな小夜子を、鎖に巻き込んだ。
「全部……全部、私が悪いんだ。私のせいなんだ。……あの子にいつも、甘えてたのも……本当に……馬鹿なのも。一番、弱いのも……! 全部、私だ。私の方だ……っ!」
ただ、嫌われたくなかった。それだけだった。
そして、嫌われないようにするには、自分の方から嫌いになるしか。それしか方法が、なかったのだ。
見つからなかったのだ。
「わかってる。泣く資格なんか無いって、わかってるよ。わかってんのに。なのに……なんで……っ止まってくんないんだよ……っ! ……ちくしょう……っ」
息苦しい想いを、全て吐き出すことしかできない。
その咆哮にも似た叫びが廊下中に響いた瞬間に、ダムが決壊したが如く、芽衣の瞳に涙が溢れ――雨のように、廊下に舞い落ちた。
人形のような顔立ちをした彼女が初めて見せる人間の表情は、静音の両の手に込めた力を、図らずも吸い取ってしまったようだ。胸座を掴む左手も、拳を作り上げた右手も――ゆっくりと、掌に変わっていく。
「楠木……?」
「……全部、全部……話すから……だから……っ」
「……うん、何?」
そして静音の両の手はいつの間にか、芽衣の肩にそっと乗せられていた。まるで、彼女を支えんとしているかのように。
その瞬間、芽衣は涙を零しながらも、自分はこの子にも甘えていたのだなと、気づかされたのだった。だが、今日だけは。今日だけは、それに存分に甘えてしまおう、とも思う。
まだ、自分は弱いから。
だが、
「だから……お願い……。一緒に……一緒に、萩尾さんのお見舞いに行ってほしい……」
今日を最後に、もう弱い自分とはお別れするから。もう、自分は鎖に繋がれてはいないから。そして、決めたことがあるから。
だから、衝動的に思うのだ。
彼女――萩尾 小夜子に、会いたいと。
心から思うのだ。
夕暮れは傾いて、二人の佇む廊下を温めていく。
足元にできあがった水玉模様も、だんだんと小さくなっていって。そして、いずれは消えていくのだろう。だが静音の目に映る人物に、泣き止む気配は一切見られない。廊下に落ちない代わりに、俯く芽衣自身の手の甲に、涙の水溜りができあがってしまっているだけなのだ。
「……あんたの泣き方、赤ちゃんみたい」
その、少しからかわれたような言い方に徐に瞼を開くと――一つの影が頷いたのを、芽衣はたしかに視界に捉えたのだった。
真っ黒な影は、たとえ白い壁にその身を置いたとしても、表情を表してはくれない。だけど、それでも――そこには“彼女”と同じ朗笑が、たしかに映っていたのだった。
* * *
重たい上下の瞼を無理やり引き剥がしてみると、眼前に広がっていたのは暗闇だ。
「……ここ……」
身を起こしてみると、鼻を通過するのは薬品系の独特な匂い。そして肌に感じるのは、慣れない固さの毛布にシーツ。
ああ、そうか、ここは病院なのだ、と思い出すのに、そう時間はかからなかった。
橘に醜態を見せつけてしまってからも、しばらく泣いて、泣いて。それこそ枕を濡らし続けて、いつの間にか眠ってしまったようだ。どうやらそれのおかげで両目が盛大に腫れてしまったらしく、左目を擦ると瞼が熱をおびている。
「うわぁ……最悪だ……」
これだけで一日のテンションが決まるというもの。
だが、正確には今は朝ではなく夕方、もしくは夜になりたての頃合なのだろうな、と小夜子は思う。閉じられた扉の奥に、まだ廊下を行き来する人々の気配がするからだ。電気もつけず、カーテンも締め切っているのでこの場所が暗いだけ。
小夜子は手探りで電気のスイッチを探り当てた。白い世界の中、手鏡があるのを見つけて最初に見たのはやはり、顔だ。
「……はは、やっぱ腫れてる……」
自分の顔に笑えるなんておめでたいなぁ自分は、なんて呑気なことを考えていると、次の瞬間に目に入ったのは髪の毛だ。
「……やっぱり、結構切られてる」
元々腰に届いていた胡桃色の髪は乱暴に、かつ乱雑に束で掴まれてから切られてしまったせいだろう、ところどころで長さがまちまちだ。元の長さの髪もあれど、一番短くされた髪はふわりと首に触れてしまっている。倉庫から校庭までの間を桐谷と芽衣に運んでもらっていたときに感じた寒気は、髪の量が少なくなったせいだろう。
「美容院、行かなきゃなー……。静音ちゃんにいい所教えてもらおうかなー……」
そう独りごちてから、自らの思慮の浅さにはあ、とため息が口をついて出てしまう。
芽衣が心配だ――その一心で一人勝手に走り出し、劇を滅茶苦茶にしたのは結局は梢よりも自分だ。静音は誰よりもクラスの皆を引っ張ってきたというのに、自分はそれを台無しにしたのだ。今すぐにでも謝らなくては、と思うのだが、生憎と携帯電話は学校に置きっぱなしで手元には無いし、ここは病院だ。そして何より、こういうことは直接会って謝りたい。
だが、そうするためには早く退院しなければ。しかし、奏一郎とどんな顔を合わせたら良いのかわからない。
今の状況を表すのに、「八方塞がり」ほど相応しい言葉は無いだろう。
奏一郎のことを瞬時に恐怖の対象にしたことはもちろん、優しさからの行動だったのかもしれないのに、差し伸ばされた彼の手を、自分は叩いてしまった――そのことが、小夜子の心をずしんと重くさせる。
彼に痛がるような素振りは無かった。だが――そんなことが問題なのではなくて。
自分がほとんど何も考えずに、無意識に彼の手を叩いてしまったこと、それがとても問題だと。大問題だと、小夜子は思うのだ。
――退院……したら、どうしよう。謝らなきゃとは思うけど、怖がらずに言わなきゃ、だめだ。自信無いけど。
奏一郎さんは……私のこと、怒っているかな。嫌われたり……してない……かな。
頭の中に浮かぶのは、奏一郎のいつもの笑顔だけだ。朗らかで、優しくて。どこか人を安らかな気持ちにさせてくれる、もっと見たい、見ていたい、と思わせられるようなそんな笑顔だ。
しかし気づけば、鏡に映る自分の目が、悲しみに歪んでいるのが見えて――小夜子はすぐさま鏡を仕舞い、毛布を再び頭までかぶった。視界が暗闇に包まれて、それでも襲ってくるのは睡魔ではなく、外に出たい、と自己主張する涙だけ。
「……もう、なんか……全部ぐちゃぐちゃ……」
目元も頭の中も、心の中も、そして今の状況も。
何をどうしたら良いのかわからない。泣くことしかできない自分が歯痒い。いや、きっと無力な自分には何もできない。
こんなときに、いつも助けてくれたのは奏一郎だったように思う。だが、今は彼の存在そのものが、苦しみの材料になってしまっているのだ。
そして、その時だった。コンコン、と軽いノックの音が個室に響いたのは。
「萩尾さん、面会でーす」
聞き慣れない女性の声。看護師さんだろう、と判断した小夜子は、
「はい……、あ。ちょっと、待ってください!」
そう言ってから再び急いで鏡を広げると、得意の早業で髪の毛を二つに結わった。短い髪が髪紐から零れているところもあるが、長いままの髪の毛もあるので、髪全体が短くなったのは気づかれ難いはずだ。赤くなった目はさすがに隠しようが無いので、これはそのままにしておく。
「どうぞ!」
涙声を隠してそう言うと、扉を開けて入ってきたのは――小夜子にとっては、意外な人物だった。
「……静音ちゃん」
「やっほーい」
思いの他、静音は微笑んでいた。右の手のひらを額の位置まで持ってきて、陽気な……というより、ひょうきんな挨拶。
「どうよ、体調は。一見元気そうだけど」
「あ……だ、大丈夫、だよ……!」
「そ? そいつはよかった」
そう言うと、彼女は小夜子の傍らの棚に学生鞄を乗せ、椅子にゆっくり腰掛ける。
「小夜子の鞄と制服と……あと携帯電話とか、とにかく学校に置きっ放しだった物、全部持ってきたよ。鞄の中に入ってるからね」
「え。あ、ありがと……」
怒っていないのかな、と不思議に思い静音の顔を見てみるが、彼女は流暢に説明しながらも、笑顔を絶やしていない。
さらに、スケッチブックが入りそうな大きさの紙袋を小夜子に手渡してくる。
「あと、これ。必要だろうと思って心屋に行って、下着とか簡単な私服、いくつか適当に持ってきた」
「え……し、下着もですか。ありがたい反面、す、少し恥ずかしいな……」
いくら相手が同性とはいえ、下着を見られるのは恥ずかしい。思わず、温度が上がった顔を俯かせてしまう。そんな小夜子に静音はきょとんとすると、すぐさま片方の口角を上げてにやり、と笑った。
「おう。ばっちり見たよ! 持ってきたのはピンク色のと水色のとー!」
「うあーっ! 言わなくていいからそんな具体的にぃぃっ!」




