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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十一章:めぐるもの ―師走― 其の十

* * *


 陽だまりの香りが、すっと鼻腔をくすぐる。

 その自然から発せられる香りと、少し薬品がかった人為的な保健室の香りは程よく混じりあい、不思議と安らかな気持ちにさせてくれる。

 だがその香りも、長時間嗅覚の下に晒してしまえば鼻は慣れ、いつの間にか気にならなくなる。いつの間にか、その様を見届けることすら許されず、消えて無くなる。


 ――……私と……こいつの関係も、そんなものだったのかな。


 目の前に眠るかつての親友の肌に、夕暮れ色がさしかかる。それにいち早く気付き、さっと立ち上がりカーテンを引くとすぐさま、背後の毛布が小さく動き出す音が耳に入った。起こさないようにと気を遣ったつもりが、どうやら逆効果だったらしい。

 そして振り返った次の瞬間には茶の瞳を、両瞼の隙間から覗かせる。


「……気がついた?」

「……っ!」

 そう声をかけると、梢は目を見開き、勢い良く体を起こし始める。だが、

「い……った……」

 すぐにその頭を両手で抱える彼女。何があってここに運ばれたのかは知らない芽衣だが、『体育館第三倉庫で人が倒れたらしい』という噂を、人伝に聴いたその足でここにいるのだ。


 しかし芽衣以上に、今まで気を失っていた梢には場の状況が読めていないのだろう、自分がなぜ保健室にいて、そしてなにより、なぜ目の前に因縁の深い人物が悠々と腰掛けているのか不思議でしょうがないらしい。目が泳いでいる。


「なっ……んで、あんたがここに……っ」

「劇、終わったから」

「……終わっ……た?」

「無事に、ね」


 “無事に”という部分をわざと強調して言うと、梢は思っていたとおりの反応を示してくれる。表情が見る見るうちに、悔しげなものに変わっていくのだ。それほどまでに自分を憎んでいるのか、と思うと目線を合わせるのが、少し怖くなってくる。

 だが、劇が無事に終わったこと――これは、ハッタリでも何でもない。

 日下の脚本の構成力、セットの壮大さ、そして一人の欠員が出たのを、皆ががんばって埋め合わせてくれようとしたおかげだ。

 

「はは……っ! それで、なに? わざわざ、そんなことを伝えに来たわけ?」

 隠しきれていない悔しげな顔。そして、否が応にも視界に入ってしまう、固く握り締められた拳。

 もし何か気に障るようなことを言ってしまえば、その拳で殴られるんだろうか。そう思った芽衣だったが、もうそれでもいいや、とも思う。


 琥珀色の目を、まっすぐに梢に向ける。

「……私……あんたのこと、ずっと疑ってたよ」

 唐突であることを自覚はしていたが、静かに、だが正直にそう告げた。すると梢は一瞬目を丸くすると、歪んだ笑みを口元に浮かべ始める。

「……はは、なにそれ。さっきも聞いたけどね。バレてもいいと思ってたよ、隠す必要性も特に感じなかったし。私は単に、あんたが苦しむ姿を見られれば、それで」

「そうじゃなくて」


 梢の言葉を、嫌味を、最後までなんて言わせない。今の自分には聴覚は要らない。相手を見るための目と、そして、言葉を生み出すための口と、少しの勇気が、あればいい。


 喉を一度上下させてから、再び重たい口を開く。


「私は……あんたが私に嫌がらせする前から、あんたのことを疑ってた。……信じて、なかった」

「…………は……?」


 意味が分からない、と言いたげに、視界に映る口も目も丸くなっていた。構わず、芽衣は続ける。


「あんたが私に話しかけてくれたの、入学してすぐだったよね。私はもうそれよりずっと前から、自分の目に映るものに怯えていて。自分は普通じゃないんだって思うと、自然と周りとの距離もできて……そんな時、あんたの方から、私に話しかけてくれた」


 淡々と語る芽衣に、上半身だけ起こしている梢は呆気に取られ、だが静かに聴き入っている。続けていいという合図なのだろうと判断し、芽衣はさらに続けた。

 過去の映像を、頭の中に思い起こしながら。


「『名前で呼んで』って言うから素直に名前で呼んだら、馬鹿みたいに喜んで。私が『バスケ部入る』って言ったら、『じゃあ私も入る』って、下手なくせにさ。……偶然、私のこの……変なところ知っても、あんたは笑顔で、『気にしない』って言ってくれた」


 家族以外の人間でそう言ってくれたのは、梢が初めてで。


「……嬉しかった」


 凍てついた心が溶かされていくのを、感じた。だけど……薄い氷だけは、執拗に心にまとわりついて。へばりついて。

 否、自らそれを、受け入れていた。心に付きまとわせたまま、大事に、していた。


「だけど……ずっと、疑ってた。そんなの、絶対に嘘だって」


 『気にしない』と言ってくれたときの彼女の笑顔を思い出すと……自然と、笑みが漏れ出てしまう。


「ほんっとう、あんたって……分かりやすすぎなんだよ。……だって、さ。あの時のあんたの笑顔……引きつってた……」


 その時に見たのは、紙に描いた笑みをそのまま顔面に張り付けたような、造られた笑顔。心からのそれではなく、どこか無理しているような、本音を隠した笑顔。


 それを見た瞬間に、芽衣は理解したのだ。


「……ああ。やっぱり私は、駄目なんだって。誰にも受け入れてもらえない。認めてもらえない。傍に……誰もいてくれないんだ。……そう思った」


 他人と深く接することは、恐怖だ。自分という存在は、世界でたった一人ではない。

 他者の心の中にも、自分というのは存在している。接している人数分の自分が、存在しているのだ。


 自分の思った通りの印象を相手が持つとは限らない。好かれようとがんばっても、嫌われることもある。自分の思っていたよりもそれ以上に、好かれることも稀にある。


 自分は、梢にどう思われているだろうか。嫌われたり、していないだろうか。

 気持ち悪いと、思われていないだろうか。

 離れようなんて、思われていないだろうか。


 もし、そう思っているのなら。思われているなら、いっそのこと。


 嫌われる前に、自分から嫌ってしまえばいいんだ、と。


 そのほうが、信頼しきって裏切られるよりも、傷つかないで済むから。


「……だから、あんたが怪我をして。私から、徐々に離れていくのを見て……安心してた。だから……見舞いにも行けなかった。……行かなかった」


 謝ることもせず、ただ退院した彼女の姿を横目で見ることしか、所属していた部活を辞めることしか、離れることしか、しなかった。

 “できなかった”のではない。“しなかった”。


 どちらが先だったか、なんて問題じゃないけれど。きっとその瞬間に初めて、お互いを信じられなくなったのだろうな、と芽衣は思う。そして、そのきっかけを作ったのは、梢ではなく自分なのだろうと。

 証拠に、その後の経過がどうであれ因果応報として、罰が下ったのは芽衣のほうなのだ。


 結果として――一人の人間を、巻き込んでしまったのだから。

 事もあろうに、自分と友達になりたいと望んでいてくれている小夜子を。だが結局それも、自分が誰のことも信じてこなかったから。


 自分のせいだ。


 だからこそ。


「……今度からはね、もう少し人を信じてみようと思う。相手を疑うことは決して悪いことじゃないけれど……信じてもいい人がいるんだってこと、知ったから」


 芽衣はまっすぐに、茶の目を見る。相手が何か口を開く前に、言わなくてはいけないことがあるのだ。こんな決意、梢は聞きたくもないだろう。本当に言うべき言葉は、別にある。


 そう、今は、相手を見るための目があればいい。


「でも」


 そして、


「でも……その信じる相手はもう、あんたじゃない」


 “お別れ”を言う口と、それを言う少しの勇気が、あればいい。


 言い終わり。芽衣は口を閉ざした。

 日は徐々に傾いて。長い影が柱に張りついていく。やがて、わなわなと震えだしたのは梢の唇だ。


「……うる、さい」


 やっと吐き出された声は、震えていた。

 怒りによるものか、それとも――。だが、もう芽衣は何も考えなくなっていた。梢の声が震えようが震えまいが、彼女の心の中でどんな葛藤が繰り広げられようが、もういいのだ。もう、どうでもいいのだ。


 人を恨むことなど、何も生み出さない。もしそれが何か生み出すとしたら、それはきっと負の鎖に繋がれたもの。走れど喚けどずるずると引きずって、それを永遠に繰り返して。そして、結局はそれは誰か、無関係の者まで巻き込んで、いつかは一緒に転ばさせてしまう。


 その鎖を断ち切るには、関係そのものを断ち切るしか無いのだ。たとえそれが、過去のものでも。

 もともと存在しなかったかもしれない関係でも。


「……私たち……私たちの関係の名前ってさ……何だったんだろうね。お互いに信じられなくなって、離れて。片方はもう片方を傷つけて、そのもう片方は耐えようとしたけれど……無理で。……こんなの、最初から友達なんかじゃ……」

「うるさい……っ!」


 今度は梢が、芽衣の口を言葉で封じ込める。だがその声は、倉庫で聴いたときのものよりも、だいぶ疲れの色を見せていた。

 彼女は拳をぎゅっと握り締め、だがそれをぱっと離したかと思うと、毛布を掴んで頭の先まで素早く運び、毛布に膨らみを作り出す。


 もう互いに、互いの鎖から解き放たれようとしているのに。そして今度はそのきっかけを、芽衣が作ろうとしているのに。

 梢はそれを拒絶する。まるで、鎖が無ければ生きていけない、それに縋り付くようにしていないと、命を落としてしまうかのよう。


 生きていくためには、不必要な鎖。むしろ、そのためには障害ともなろう鎖。だが梢は、その呪縛から逃れることを拒んでいる。恐れているようにも、見える。それがなぜなのか――少し考えるだけでもう、芽衣にはだいたいの予測がついてしまっている。


 自分との関係性を失くすことが、梢は怖いのだろう、と。


 関係性を失くすということは一抹の感情さえも、お互いの間に存在しないことになるから。


 もう二度とバスケができなくなったのを、芽衣のせいにして。恨みの対象を作り出し、そしてそれを恨み続けていれば、気が楽だから。なぜこんな目に遭わなければならなかったのか、考えずに済むから。


 彼女は――梢はただ、恨む理由が欲しいのだ。

 芽衣を恨むことで、己を保ってきたのだから。


 だが、そんな理由で繋ぎ止められたものなどもう、“友達”じゃない。友達だったかどうか、なんて最初から怪しいところだが。それも、芽衣自身が梢を信じなかったせいではあるけれど。


 ――[劇の前に体育館第三倉庫へ。来なければ、劇を滅茶苦茶にしてやる]――


 こんな文面の手紙を寄越された時点で、気づくべきだったのかもしれない。

 二人の間に在ったものが、友情の皮を被った無だったのだということに。


 だが、もう芽衣にとっては、そんなことはどうでもいい。


「……私を恨みたいんなら、ずっとそうしていればいいよ」

 それであんたの気が済むのなら、と付け加えると、

「……るせぇよ。出てけ……。出てけよ……っ」

 全身を覆う毛布の膨らみが、少しだけ震えているように見えて――それを見た瞬間、自分を恨みたいはずではなかったのか、と無意識にも眉を顰めてしまう。


 結局、彼女の欲していたものは何だったのか。


 永続的な友情。それとも、謝罪の言葉か。あるいは、見舞いに行く誠実さだろうか。やはり、恨みの対象か。

 どれも当てはまらない気もするし、どれもが当てはまる気もする。


 ただわかるのは、信じられる存在が欲しかったのは――お互い様だった、それだけだ。


「出てけ……出てけよ……」


 呪文のようにそれだけ繰り返す梢の姿に、芽衣は瞼を伏せた。もう、お互いに言うことは何も無いだろう――そう思って。ベッドの傍らにある椅子から立ち上がり、すぐさま扉の前まで進んでいくと、だんだんと梢の息遣いが遠くなっていくのがわかる。


 ――……もう、本当にこれでお終い……。


 そう思って、ドアノブに触れたところで――芽衣の指は、ぴたりと止まった。


 夕暮れが……白の扉を彩る夕陽の色が、そうさせたのだろうか。

 走馬燈のように思い出してしまったのだ、昔のことを。梢と初めて会ったときのことを。懐古の情は、縁が繋がれたところまで瞬間的に遡る――。


 ――……「私、梢っていうんだ。一緒に帰ろうよ」……――


 一人でぼーっと窓から夕陽を眺めていたら、突然にそう話しかけてきたのは、人懐っこい笑みだった。夕陽にまっすぐに照らされたそれは、ひどく輝いて見えて。影は廊下にまで伸びていた。


 不思議に思って、なぜ自分に話しかけたのかと問うと、『友達になりたいって思ったから』という、答えになってないことをその表情のまま返されたことは、今でも覚えている。鮮明に、それこそ、昨日のことのように。


 そのときに心に抱いたのは、懐疑、不信という名の負の感情だった。小さい頃から心に張り付いていた氷は、そう容易く剥がれてはくれなくて。それでも、別に構わないと思っていた。


 その氷が、“普通でない”自分を守ってくれる、唯一の盾となるのだから。


 だが、温かな言葉で少しだけ溶けたそれは――瞬く間に水となって。



 涙となって、心を伝った。



「…………あり……が……とう」



 鼓膜を振るわせたその言葉に、梢は瞬時に身を固まらせた。だが、それは芽衣も同じだ。思わず口から漏れ出たそれに、自分で自分を信じられない想いでいる。


 だが、心の奥底ではわかっている。なぜ無意識に、唐突に感謝の言葉を紡いでしまったのか。


 それはきっと、梢のあのときの言葉が、とても、とても嬉しかったから。


 疑ってしまったけれど。信じていなかったけれど。

 それでも、嬉しかったから。


 その後には、裏切られたろう、だとか。嫌がらせされたろう、だとかは、関係なくて。



 その時たしかに、たとえ一瞬だったとしても――心は弾んだ、はずだから。



 ――……だから……もう、解き放ってあげるんだ。


「さようなら、梢」


 ――私なんかにもう、縛られないでいいから。



 芽衣が二人の間に感じていたものなど、空気を瞬間的に彩ってくれる、香りと同じだったのかもしれない。


 在って当たり前で、気づけば穏やかな気持ちにさせてくれる。そして――いつの間にか、気にならなくなって。

 目の前に在ったのに、在ったはずなのに、やがては消えていく。


 それでも芽衣にとっては――幸せな香りに、違いなかった。

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