第十一章:めぐるもの ―師走― 其の九
木の葉が、今までを共に過ごしてきた枝に別れを告げるその時に。人々は秋に別れを告げ、冬を迎え入れなければならない。
時折、冷たい風は髪を撫でて、そしてそのまま颯爽と去っていき――そしてまた別の冷たいそれは、歩を進める人間の体に容赦なく襲いかかってくる。それはまるで、今まさに自分が置かれている状況は現実のものであるのだということを、繰り返し繰り返し、囁いては消えていくようで――不快なこと、この上ない。
そんなことは、誰かに教えてもらわなくてもわかっているさ、と奏一郎は心の中で呟いた。
――……現実なんて、わざわざ教えてくれなくていいのに。……自分は、夢を見ることなどないのだから。
砂利の音は何度も、草履によって生み出されては消え、消えては生み出されていく。そしてその無機質な行為は延々繰り返され……やがては、『心屋』に辿り着く。
固くシャッターの閉じられたそれに一瞬だけ、奏一郎は碧い目を揺らしてしまう。
小夜子が来てからというもの、彼女がここで生活をするうえで不便な想いをしないように、と電球を取り付けた、あの日のことを思い出す。
それまでは、日が昇れば起き、沈めば寝る、という生活をしていた。だからこそ、夜に明かりの灯された心屋を見るのは、新鮮な気分だった。
見慣れ、否、既に見飽きたはずのこの店に、そんな感情を抱くのも初めてで。
――「小夜子がここに来てから、この店が明るくなった」――
そう冷静に言いながら、内心、少しの躊躇いも覚えていた。ああ、これが人と暮らすということなのだと。同時に安らぎを覚えてもいた。
それまでは本当に明かりに対する興味も執着も無く、むしろ明かりなど無いほうが月光や星の瞬きがより綺麗に見られて、雲などの障害物が無い夜は、得な気分さえしていたものだ。
自分は――夜、暇なのだ。眠ることが無ければ、目覚めることも無いから。
そう、起きることと目覚めること、寝ることと眠ることは、まったくの別物。これらの違いに気づかない人間は意外と多いのだ。
だが――もう、小夜子は気づいたのだろうな、と思うと、奏一郎の口からは小さな笑みが漏れてしまう。
――さよはきっと、気づいた。
起きることと、目覚めることの違いに。寝ることと、眠ることの違いに……。
小夜子は目覚め、眠る者であるのに対し、奏一郎は起き、寝るだけの者なのだということに。
なぜ、自身の口から笑みが漏れ出てしまうのか――混沌とした感情の渦に身を委ねたままでいるせいか、奏一郎にはよくわからない。口元を右手で覆うも、それでも歪んだ笑みは止まらない。
笑みを浮かべているということは、自分は今嬉しいのか? と。
通常、ここはどんな感情が働くものなんだ? と。
自問できても、答えをくれる者は彼の心中には存在しない。答えの返ってこない疑問は、泡のように儚くも、無残にも霧散していった。
ああ、それが滑稽で、皮肉が効いていて楽しいのか、と一人納得した奏一郎は、シャッターを慣れた手つきで開放し、心屋の商品たちを冷えた風と、柔らかな日光に晒させる。
そして次の瞬間には、自慢のその身を起こす銀色の水筒。留守番にはあまり慣れていないせいか、奏一郎を目にした彼の表情は、いつもよりも若干晴れやかだ。
* * *
「おう、旦那。おかえり。思ってたよりも早かったな」
「ああ、ただいま」
にっこりとそう言って返すと、奏一郎は玄関先で草履を脱ぎ、すぐさま茶の間へと姿を消してしまう。
たった、それだけのこと。
だが、伊達にとーすいも長年彼の傍にいるわけではない。
奏一郎は、どんな時でも穏やかだ。まるで茶道の点前のように、緩慢な所作を常日頃から身に着けている。が、その反面、いつからだろうか。話好きになって、外出することが多くなって、出かけ先の出来事を事細かに報告してくるようになったのは。
元来、人間を好まぬとーすいは正直、その逐一たる報告にイラつきを覚えていたのだが――その間の奏一郎の嬉しそうな表情を見てしまってからは、彼がどんなにくだらない内容の報告をしてこようと、密かに耐えることにしていたのだ。男は黙って話を聴いてやるもんだ、という己の価値観に則って。
だが今日の彼はどうだろう。
文化祭なんて学校行事、人が多く集まるものだ。それくらいは、とーすいだって知っている。多くの人と会えて、奏一郎は嬉しいはずなのに。
むしろその報告を待っていた、と言っても過言ではないのに。
「……旦那?」
茶の間に急いで消えた割に、何の音もしないのが気がかりで、とーすいは店の棚から自ら降りて、とことこと短い足を素早く前後させると、ひょこっ、と様子を伺うようにして、茶の間の世界を垣間見た。
そして、視界の隅に捉えたのは……信じがたい光景だった。少なくとも、とーすいにとっては。
奏一郎の部屋は、部屋とは言っても名ばかりのものだ。
必要性を感じないためか夜に布団を敷くこともほとんど無ければ、家具も普段から置いていない。ただ、数冊の古書が畳みの上に重なっているだけで――……暇に、その空間にいるわけでもない。
彼にとっては自室など、とくにさしたる意味を持たないのかもしれなかった。そもそも彼はここに独りで暮らしていたのだから、この家の全ての部屋が自室のようなものなのだ。小夜子が来るまでは、の話ではあるけれど。
だから、彼が“寝る”時間帯以外に自室にいること自体、非常に珍しいことなのだ。だが、そんなことよりもとーすいの目を奪ったのは、奏一郎が――襖を目の前に、悠然と座っていることである。
「……お……い、旦那? 何してんだ?」
躊躇いがちにそう問うも、奏一郎の応えはない。
ただ、とーすいの位置からは彼の背中しか見えないのだが、彼は生気の抜けた碧い瞳で、襖の柄をただひたすら、じっと見つめているのである。
開かずの襖。
奏一郎が自室にあまり訪れない理由の、二つ目にあたるのかもしれない。
そしてそれが今、何をきっかけにか、奏一郎の手によって、日に晒されようとしている。
ふう、と息を吐いたかと思うと、奏一郎はゆっくりと、襖に手をかける。そして、彼は決心を鈍らせまいとしているかのように勢いよく、固く閉じられたその空間を開放した――。
乾いたすらりとした音を立て、存外あっけなく開かれたそこは、奏一郎が思っていたよりも埃をかぶってはおらず、長年そこにあった割には、仄かにイグサの香りを放っていた。
そして、その空間にあるのは……一つしかない。
鞠だ。
とーすいの目に映ったのは、ちょうど今、奏一郎が身に纏った蘇芳のそれに近い色。
だが、どちらかと言うと真紅寄りの、濃く、深い色だ。そして、どこか薄汚れたそれは、土の色を帯びた桜や牡丹が質素ながらあしらわれている。
奏一郎が両手に持つと、比較的小さなそれはますます小さく見えてくる。
だが、とーすいはそんな鞠を、どこか眉を訝しげに見つめることしかできないでいた。なぜなら、奏一郎は――この鞠を、恐れていたはずだから。
「あの子の記憶が、詰まっているから」と。そう、言って。
白に近い色の桜を撫でながら、奏一郎は徐に口を開く。
「とーすいくん、覚えているよな? “あの子”はよく、この鞠で遊んでいた」
“あの子”――……。
とーすいに、忘れられるわけがなかった。
艶がかった黒髪を、桜の花びらが撫でるその様を。その合間を縫うようにして、この鞠が地面と、そして真っ白な小さい手の間を跳ねるのを。
幾度と無く、目にしてきた。
「……ずっと、恐れていたんだけどな、“あの子”の記憶を……心を、知ってしまうのは」
とーすいの目からは、奏一郎の背中しか見えない。だが……彼が力強く、その鞠を抱きしめているのはわかる。どんな気持ちでそれを抱いているのかは、予想の範囲を出ないけれど。
奏一郎の言葉は、いつも通り穏やかな、そしていつもよりも静かなトーンで紡がれていく。
「でも……“あの子”の気持ち、理解してみたくなってな。突然……だったんだが」
彼は桜を指でなぞりながら、ふふ、と笑ってしまっている。
楽しくて、ではない。押し寄せる後悔の念は、思わぬ方向に働き始めるのだ。
「……ああ、だけど……やはり、知るべきではなかったのかもしれないな……」
流れてくる、感情――心。
それは決して明るいものではなくて、むしろ、闇のみをまっすぐに見つめてきた、“あの子”の心。
「…………哀しかった、ね」
よく理解していた、はずだった。“あの子”のことは。
「……苦しかったね……」
だが、今になって、感情が自分の心に流れてくるのが、怖い。
“あの子”がかつて抱いていた感情は、そしてその心は――今の自分とまったく同じなのだろうと、思っていたから。
そして奏一郎は、瞼を伏せる。
自身の心を占める感情の名を、
「……化け物、だなんて……思われたくなかったよね……」
“苦しい”と、知ってしまったから。




