第十一章:めぐるもの ―師走― 其の七
桐谷にとって、真っ暗な体育館を見るのは久しぶりであって決して初めてではない。が、その体育館のステージを照らすのは、さすがに初めての経験だった。
彼は五分ほど前から、未だに幕で観客の目からは遮られているステージの中央を、目映いライトで照らすという、光を当てているにもかかわらず誰の目にも届かない、裏方の中でも裏方の仕事をしている。人によっては地味な仕事だと思われるかもしれないが、これは静音の指示によるものだ。ならばこの采配も間違ってはいないのだろう、と桐谷は思う。本来であればこれは同じクラスの女子の仕事らしいのだが、その彼女も芽衣の着替えの手伝いに回されたようだ。
「一番簡単な仕事なんだし、お兄ちゃんでもきっとできると思うんだ」
そんな理由で桐谷は今、ライトを操るハンドルを固く握り締めているのだけど。
――……なんか……言い方に棘があったよーな気が……しないでもない……。
ぼーっとしながら彼はそう思う。そして同時に、皆に指示を出す静音の姿も思い出す。突然の配役の一部変更に周りがうろたえる中、彼女だけは毅然として的確な指示を出し、そしてナレーションのために人前に出るにもかかわらず、緊張している様子は見られない。指示された皆も、渋い顔をせず静音に与えられた役目を一生懸命に果たそうとしている。
クラスの中で頼られているんだろう、その目利きは間違っていなかったらしいな、と桐谷は思った。
そして、そんなことをぼんやりと思っている間に、ステージの脇にサイドライトが当てられて――観客席の視線が、一斉に静音に注がれる。彼女の登場に、好奇の声が止んだ。
「皆さん、こんにちは。2-Aの劇、『fake of night』の進行役の原です。よろしくお願いします」
マイクによって響くのは、決して女子特有の高いものではなくて、濁りの無い、抑揚のある、明瞭な声。
澄んでいて、不思議と人を和やかにさせる、そんな不思議な声だ。いつもの快活な雰囲気を抑え、姿勢をぴんと張り堂々としているその様は、先ほどまで泣きじゃくっていた頼りない姿とはどうも結びつかない。
昔のように怒りたいときには怒るのでなく、感情を抑える、ということを覚えたのだな、と思うと、大人になったんだな……としみじみと思ってしまう。
そしてこの気持ちは……あくまで兄の気持ち、そしてどちらかというと父親に似た気持ちなのだろうと。
「この物語は異世界を舞台に、ある一人の騎士が冒険を通し、その中で得たもの、そして騎士の心の変化を表したものとなっています。どうぞこの世界観に、ゆったりと浸っていただけたらと思います」
説明を終え一礼すると、静音を照らしていたライトが少しずつではあるが仄かになっていき、そして――予定より五分遅れて、ベルベットの幕は開かれた。
* * *
クラスの中でも小柄な陽菜が演じる王女エルザは、鬱蒼とした森の中、倒れているところを城の兵に発見される。正確には、倒れているのではなく呪いによって眠らされているのだが――。
「……王女様、王女様!? ……誰か! 誰か馬をここへ!」
マイクも使ってはいるが、兵の声は体育館に響く。もう観客席の誰も、声を発してはいなかった。
もうすぐで出番が訪れる芽衣は、桐谷とちょうど真向かいのステージ脇にて劇の流れをじっと見つつ、何度も何度も騎士と流れ星の台詞を頭の中で繰り返す。
だが、それもなかなか上手くいかない。
当然のように、流れ星の台詞にさしかかる度に小夜子のことを思い出してしまうのだ。その中でも、劇の練習に打ち込んでいた姿を。
――あの子、何度も同じ台詞で噛んでたよな……私も気をつけないと。
そんなことを冷静に考えている一方で、心臓は早鐘を打っていた。
あの子は本当に、一生懸命に練習をしていたな、と思って。そして、その努力を台無しにさせたのは自分だ。
だが、だからこそ自分は今、ここにいる。贖罪のために。彼女の安否を心配しても、彼女の容態が良くなるわけでもない。ならばここで、彼女ができないことを、自分は精一杯やり遂げねばならないのだ。それが、せめてもの償いとなろう。
芽衣は決心したのだ。彼女を乗せた救急車を見送ったときに。劇のことも、そして、これからのことも。
そう、決心はついている。だから、もう揺らぐ必要なんか無いというのに、それでも、心臓はけたたましい音を止めてくれない。
何故か、なんてもうわかっている。
あの、着物の男のせいだ。
真っ白な髪、濁りの無い目。端正な容姿、美しい所作には見た者の誰もが心を奪われることだろう。だが、芽衣は違った。
彼を見て、一番に感じたのは震え、そして鳥肌だった。
あんな存在は、初めて見たから。
彼の姿形に、ではない。むしろ目を奪われたのは、彼の背後にあるもの。そう、そこに広がっていたのは、常人のものとは言い難い、そんな世界――。
しかし、今はそんなことを考えているべきではないこともわかっている。劇に集中しなければならない。
王女と兵の森のシーンが終われば、騎士の出番が待っているのだから。ひとまずは、あの着物の男の存在は脳内からシャットアウトしなければならない。
森のセットが男子たちの手によって急いで一掃されると、芽衣は一歩、また二歩と足を踏み出し、まだ光の当たらないステージの中央へと移動した。まだライトで照らされていないにもかかわらず、観客の視線は闇を行く芽衣にまっすぐに注がれている。
ロングソードを携え、騎士――リオは荒野の岩陰にて膝を抱えて蹲る。彼の抱えるのは、孤独。言い知れぬ孤独だ。
だが、それでも一つの希望、一つの存在のみを密かに心の支えに、彼は生きている――。一人で、生きてきた。
雑音の混じった、ラジカセによる雨音がだんだんと近づいて――……凍てついた騎士の心は、さらに冷たさを増していく。
お世辞にも綺麗とは言えない、わざとらしい雨音に耳を澄ましていると……ふと、湧き上がるように思い出されるあの言葉。躊躇いがちではあれど、まっすぐに吐き出された優しい言葉。
――『あの……よかったら、なんだけど。一緒に帰らない?』――
芽衣は、小さく笑みを浮かべた。どうして雨音を聴いているだけで、まだ出会ったばかりのあの子の言葉を思い出すのか、と思って――。
そうこうしているうちに、青白い光が照らされて。彼女はきゅっと、唇を真一文字に結び、孤独な騎士――リオを演じる。
岩場の陰に隠れ、リオは待っていた。雨雲が晴れるのを、この冷たい雨が止むのをひたすら待つのだ。
「……昨日、今日とまた雨か……」
低い声を出すのはそこまで不得意というわけではない。男声に完璧に近づけることは不可能でも、少なくとも中性的なイメージは表現できているはずだ、と芽衣は密かに自己評価を下す。
リオは天を仰ぎ、しばらくそのまま時を過ごす。目の前にたしかに在る困難に対して何もせず、ただ時が過ぎ行くのをひたすら待つだけ。時の流れと共に困難が過ぎ去っていくのを、見守るだけ――。
そして、それが告げられたのは突然だった。
「王女が、呪われたよ」
低く、機械的な声が岩場の上より降ってくる。声の主の姿は見られないが、時折天より放たれる雷光が、その影の形のみを知らせてくれた。そしてそれは、明らかに異形の者。
雨音はいっそう、強く響いて。リオの心は、荒れに荒れる――。だがそれを気取られまいと、彼は剣を手にして虚勢を張るのだ。
「っは……だから、何だと言うんだ? 私に、城に戻れとでも? 私を裏切り、追放した……あの城に戻れとでも言うのか?」
本当は王女のもとに、今すぐにでも駆けつけたい。だが、彼の頑ななプライドがそれをさせてくれない。声――おそらく悪魔のものと思われる――は、そんな彼にさらに告げる。
「へぇ、冷たいなぁ。王女はずっと、君を待っていたというのに」
「……王女が?」
俄かには、信じられなかった。まだ自分を、待ってくれている人間がいるなど。そしてそれが、彼女であったことを。
「信じるか信じないかは君しだいさ。でもね、早く手を打たないと王女は一生を寝台で過ごし、二度とその深い眠りから覚めることはないだろうね……いいのかい? 命の恩人に、そんな末路を追わせて……」
「……さすがは悪魔……いや、その類の者かもしれないが。人の弱みにつけこむのが巧いものだな。何のつもりかは知らないが、何にせよ情報提供をしてくれたことには感謝しよう。だが、私がこれからどうしようが、私の勝手だ……消えろ。二度と、私に関わるんじゃない」
冷たく言い放つと、悪魔は雨にその手をかざし、不敵な笑みをこぼす。まるで、
「こんなさらさらの雨も掻い潜れないような騎士サマには、何もできないか。あ~あ、可哀想な王女様……」
騎士には何もできないと、高をくくっているように。
その刹那、空を切ったような音が荒野に木霊して――悪魔の声は、この世に吐き出されることを許されずに消え去る。騎士の剣によって、この世からその身を滅せられたためだ。大岩をも粉砕する剣が黒に染まる様を無感情に見つめながら、リオは笑う。
ざまあ見ろ、と言わんばかりに。
「……やってやるさ。せいぜい、地の底から見ているといい」
リオは歩き出す。雨音はしだいに大きくなって、それでも、晴れ間を。光を探すのだ。
* * *
所は変わり、王都を眼前にした丘の上。辿り着いたのは夜明けも間近の時頃だというのに、未だにここから見える門の火はちらついている。その数は、数年前とは比べ物にならない。衛兵の数が増援された証だ。
どうにかして、悪魔の言葉の真偽を確かめたいのだが……己を裏切った城は、それすらも許してはくれないだろう。
そもそも、もし仮に悪魔の言葉が真実だったとしても、王家の存続に関わるようなこんな重大な事件は――城のごく一部の人間、それも上の者しか知らないはず。そんなところで、城を追い出された身上の者が「王女は無事か」などと尋ねた折には、何を糾弾されるかわかったものじゃない。
王女が無事なのか、そんなことさえも知る術を持たぬリオは、心の中で激しく舌打ちをする。この状況に、そして何より、この状況を作り出してしまった、自らの過去の過ちに。
もう少し、自らの立場を顧みて、王女と距離をとっていればよかったのだ、と。
そうすればきっと、もう暫くは傍にいられた。少なくとも、その可能性はあった。
こんな風に、ここで足踏みをすることなどなく、王女のことを護ることもできたのに――。
しかし、そんな彼の言いようの無い自責の念を宥め、慰めんとばかりに、雲の切れ目から星々は瞬いて――。
〈悩める騎士よ……〉
光は煌き、瞬く音は言葉を綴る。だが、優しいはずの存在から綴られるそれは、あからさまに辛辣なもの。
〈優れた剣術をその美しい身形に抱きながら、何もできずにそこで足踏みとは、なんとまあ無様なものだな……〉
滑稽そうに、馬鹿にしたように、空は言葉を落としていく。
星の瞬く夜空を見つめ、騎士は無心になりつつ尋ねた。
「おまえは……誰だ?」
本当は、この声の正体など訊かずともわかっている。人らしき姿は見せず、だが声は玲瓏かつ、凛としていて美しい。
鼓膜に、ではない。心そのものに言葉を響かせる――その正体は星。その中でも、稀有な存在とされる流れ星だ。
〈私という存在に、驚いているのか? ……私に名を訊くよりも、お前には先にしなければならないことがあるはずだろう〉
「『先に』……?」
〈……願え。行動を起こすのは、それからだ〉
願え、と流れ星は言う。願いを聞き入れられるのではなく、願いを強要されることなど想像もしていなかったリオは、苦笑した。
「……私の願いを、お前が叶えてくれると言うのか? この浅ましく、醜い私の言葉を、聴いてくれると言うのか?」
まさか、そんなはずはないだろうと。もしかしたら、いや可能性としては非常に低いのだが、この声の主も悪魔か、その類のものと疑ってしかるべきであった。
リオの問いに、流れ星は緩慢な口調で諭す。
〈私はあくまで聴いてやるだけ……お前の背中を、押すだけだ〉
その応えに、彼は諦めたように笑った。
自分を手助けしてくれる存在など、やはりいるはずがないのだと。一瞬でも期待してしまった、己が馬鹿だったのだと。それでも、彼は言葉を続ける。偽りの言葉を。
あたかも流れ星の言葉を信じたかのような、鵜呑みにしたように思わせられる、巧言を。
「……信じて、いいのか?」
縋るような目つきでそう言う。本当は、信用なんかほとんどしていない。
彼が必要としていたのは――裏切られてもいいように、自分の中で予防線を張ること。
騙されないうちに、この流れ星を自分から遠ざけることだ。
それなのに、この存在は――。
〈……信じて、いい……〉
優しい声で、そう、返すのだ。
――「信じて、いいよ……」――
芽衣は、自身の声を録音したテープを聴きながら、密かに唖然としていた。
練習中に彼女の発していた声と、自分のそれの違いに。
自分の声は機械を通しているから、など関係無しに、ひどく機械的で、無機質で。思いやりよりも、劇を成功させようという気持ちが先行して、必死な様子が痛々しい。
だが、練習のときのあの子は。
柔らかな表情は、まるで女神様のようで。暗闇の中でその身に当てられた光は、まるで後光が射しているようで――。
無償の愛、慈愛に満ちた、微笑みだった。
なぜ、あんな表情を、あの時、あの瞬間に彼女は浮かべることができたのか――芽衣は、劇中であるにもかかわらず、彼女のことを思い出さずにはいられなくなった。
そして、気付く。
あの子は――萩尾 小夜子は、本気で自分のことを受け入れてくれようとしていたのだ、と。
芽衣が嫌がらせをされているということを知っても。
出会った当初から、彼女はそう言ってくれていたのに。
それでも、芽衣は――リオは、遠ざける。
「……信じられる、ものか……」
劇の台詞を、そしてかつての本心を、芽衣は一緒くたに吐き出した。




